第39話:黒酢の聖地 ――老陳醋と、名もなき鉄片――
太原の駅を降りた。
風が乾いていた。北京よりさらに乾いた風だった。喉の奥が少し痛んだ。
リンが鼻を動かした。
「……何か来た」
「匂いがするか」
「うん。重くて、酸っぱくて、古い匂い。遠くから来てる」
蓮は自分の鼻を確かめた。
かすかにあった。完全ではなかった。しかし王寒石からもらった老陳醋を飲んでから、少しずつ戻りかけていた。太原に着いた瞬間に、その戻りかけた感覚が、何かに反応した。
「あっちだ」とリンが言った。
清源醸造は、街の端にあった。
黒い壁だった。煤けているのではなく、長年の発酵の気体が壁に染み込んで、そういう色になっていた。
入ると、甕が並んでいた。
数えきれなかった。大きな甕が、整然と並んでいた。それぞれに蓋がしてあった。
太陽の光が、甕の並びの間に入っていた。ここでは太陽も発酵の工程の一部だった。夏に水分を飛ばし、冬に凍らせて、それを繰り返す。作業というより、時間を使う営みだった。
「誰だ」
甕の影から声がした。
老人だった。小さかった。腰が曲がっていた。肌が黒かった。長年、黒酢の蒸気の中にいた人間の肌だった。
目が白濁していた。しかし蓮を向いた時、見えていることがわかった。
「王寒石に言われて来ました。母の、薫の代わりに」
老人が止まった。
「薫の」
「そうです」
老人はしばらく動かなかった。
「……十六年待った」
「知っています」
「来なかった」
「母は七年前に亡くなりました」
老人は何も言わなかった。
甕を一つ見た。中央に置いてある、他より古い甕だった。
「この甕だけ、十六年開けていない。薫が来た時に開けるつもりで、そのままにしておいた」
「薫と、どこで会ったのですか」
「ここに来た。一度だけ。十六年前だ。北京から来て、この醸造所を見たいと言った」
「なぜここに来たのか、言っていましたか」
「言っていた。……刃のことを話していた」
「包丁のことですか」
「そうだ。薫は七本の包丁を作ろうとしていた。その材料を探していた。……鋭い刃では、素材の声が聞こえなくなることがある、と言っていた」
蓮は老人を見た。
「鋭すぎると、聞こえなくなる?」
「そう言っていた。刃が素材を切る瞬間に、刃の方が主張するようになる。素材の声より、刃の感触の方が先に来る。……薫は、もっと素材に近い道具を探していた」
老人は甕の奥の方に向かって歩いた。
隅に、鉄の塊があった。
形がなかった。包丁でも鍋でも何でもなかった。四角い板のような形の鉄片だった。表面が赤茶けていた。
「これを薫に見せた。醸造所の道具を修理した時に余った鉄だ。古い鉄で、何百年も前の山西の山から取れたものだという話だった。……薫はこれを手に取って、しばらく動かなかった」
「どのくらい」
「一時間くらいだったと思う。ただ持ったまま、甕の並びを見ていた。……それから、これと同じ鉄が欲しいと言った。しかし手持ちがなかった。この一枚だけだった」
「それで、母さんはどうしましたか」
「また来ると言って帰った。北京にまだやることがあると。……それが最後だった」
蓮は鉄片の前に立った。
手に取った。
重かった。刃の形をしていないから、どう持つかも決まっていなかった。
握ってみた。
手のひらに収まった。
重さが手に伝わってきた。名刀の重さとは違う重さだった。刃の精密さがない。しかし鉄の密度があった。この山の鉄の重さがあった。
老人が甕の蓋を開けた。
中央の古い甕だった。
「飲め。十六年ぶりに開ける」
小さな杯に、黒い液体を注いだ。
蓮は受け取った。
口に入れた。
酸が来た。
老陳醋の酸より深かった。発酵した時間が違った。五百年前から続く種が入っている酢の酸は、舌の奥の奥まで届いた。覇王のスープが作った感覚の層を、内側から少しずつ剥がしていく感触があった。
リンが鼻を動かした。
「……蓮の匂いが戻ってきてる。さっきより強い」
蓮は鉄片を持ったまま、醸造所の中を見た。
小麦があった。醸造所の作業に使う小麦だった。
「使っていいですか」
「構わない」とリンが言った。
「老人に聞いてる」
「ああ」と老人が言った。「使え」
蓮は小麦を水で練った。
生地を作った。
鉄片を持った。
どう使うか、一度も考えたことがなかった。包丁であれば、まず刃の角度を決める。しかしこれは刃がない。ただの鉄の平面だった。
生地に当てた。
押し込んだ。
鉄の重みで生地が沈んだ。鋭さがない分、力で押した。生地が変形した。刃で切るのとは違う変形だった。圧縮されてから広がった。
もう一度やった。
角度を変えた。
生地の反応が変わった。
鉄片の使い方が、少しずつわかってきた。切るのではなく、押して削る。重みを使って、生地の方向を決める。名刀がやることの逆だった。
老人が見ていた。
「……薫が言っていた意味が、少しわかった気がする」と老人が言った。
「どういう意味ですか」
「鋭い刃は、素材に答えを押しつける。重い鉄は、素材に問いかける。……薫はそういう道具を探していたのかもしれない」
蓮は生地を見た。
鉄片で押した跡があった。不揃いだった。名刀で切った麺のような均一さがなかった。
しかしそれぞれが、押した時の力の違いを持っていた。
「……これを持って行っていいですか」
「薫に渡すつもりで取っておいた。お前に渡す」
老人は醸造所の奥に戻った。
蓮は鉄片と、老陳醋の小瓶を持った。
リンが蓮を見た。
「帰るの?」
「北京に帰る」
「覇王のところに」
「そうだ」
「包丁がない状態で」
「ない状態で行く」
リンは少し考えた。
「この鉄片を使って?」
「使って」
「できる?」
「わからない。でもやらないとわからない」
醸造所の外に出た。
太陽が低かった。
甕の並びが、外まで影を作っていた。
蓮は手の中の鉄片を見た。
形がなかった。名前もなかった。しかし重さがあった。山西の山の重さが、手のひらに収まっていた。




