第38話:黒き大地への指針 ――王寒石の再会と、山西への道――
雪晶斎の灯りが見えた時、蓮は少し止まった。
扉を開けていいかどうか、考えた。包丁がない。感覚がない。この状態で何を話せるか、わからなかった。
「行かないの?」とリンが言った。
「行く」
引き戸を開けた。
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店の中は静かだった。
客がいなかった。王寒石が一人で麺を打っていた。蓮たちが入ってきたのに気づいて、手を止めた。
蓮を見た。それからリンを見た。
「包丁がない」
「奪われた」
「覇王に」
「そうだ」
王は麺を台の上に置いた。
「中に入れ」
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厨房の奥に、小さな部屋があった。テーブルと椅子があった。三人で座った。
王が湯を出した。
蓮は器を持った。
温度はわかった。熱かった。しかし匂いがなかった。湯の匂いがしなかった。
「感覚も奪われたか」と王が言った。
「スープを飲んでから、匂いと味がわからなくなった」
「万物帰一を飲んだのか」
「そういう名前だったのか」
「覇王の料理だ。すべての感覚を相殺する。……経験したことがある」
蓮は王を見た。
「あんたも飲んだのか」
「麒麟会にいた頃に、一度だけ。それから三日間、味も匂いもわからなかった」
「三日で戻ったのか」
「戻った。ある食材のおかげで」
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王は立ち上がった。
棚から小さな瓶を出してきた。テーブルに置いた。
黒かった。液体が入っていた。
「老陳醋だ。山西省の黒酢。最低でも三年、長いものは十年以上発酵させる」
「これで感覚が戻るのか」
「戻るかどうかわからない。しかし俺の場合は戻った。刺激の方向が、他の酸とは違う。鼻の奥の深いところに届く」
王は蓮に瓶を渡した。
「飲んでみろ。少量だけ」
蓮は蓋を開けた。
匂いがなかった。感覚がないから当然だった。
少し傾けた。舌の上に落とした。
酸が来た。
他の感覚がない分、酸だけが鋭く届いた。普通の酢より深かった。発酵した複雑さがあった。舌の奥の方に当たった。
リンが鼻を動かした。
「……蓮の反応が変わった。匂いが少し戻ってきた気がする」
「本当か」
「うん。ほんの少しだけど」
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蓮は瓶を持ったまま、王を見た。
「あんたは、俺が覇王に負けることを知っていたのか」
「予想していた」
「なぜ助けに来なかった」
「助けに行けば、俺が代わりに負けるだけだ」
蓮は少し間を置いた。
「……包丁に守られていたと、あんたは言うか」
「言う」
「否定できない」
「わかっているなら、それでいい」
王は続けた。
「しかし包丁がなければ何もできないというのは別の話だ。覇王はそれを勘違いしている。お前もそれを勘違いしていた。……同じ勘違いだ」
「俺と覇王が」
「父と息子だからな」
蓮は黙った。
王は気にせずに続けた。
「山西に行け」
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懐から、折りたたまれた紙を出した。地図だった。
「薫が山西まで行こうとしていた。しかし行けなかった。北京で力を使い果たした」
「母さんの手帳に、山西のページがなかった」
「そうだ。行けなかったから書けなかった。俺はその話を薫から直接聞いた。十六年前、この店に来た時に」
蓮は地図を受け取った。
「山西に何がある」
「老陳醋の醸造所がある。数百年続いている場所だ。そこの主人が、薫に会いたがっていると聞いた。……薫が来なかったから、今もそのまま待っているかもしれない」
「その人が、何かを持っているのか」
「持っているかどうかはわからない。しかし薫がそこまで行こうとしていた理由はある」
王は少し間を置いた。
「七本の包丁を作る前、薫はある鉄を使った。山西の古い鉄だ。その鉄の出所を、薫は確かめに行こうとしていた」
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「なぜあんたが俺に教える」とリンが聞いた。
王は少し考えてから答えた。
「薫がやり残したことを見届けたい。それだけだ」
「それだけ?」
「それだけだ」
リンは王を見た。それから蓮を見た。
「行くの?」
「行く」
蓮は地図を折りたたんだ。
母の手帳を出した。北京のページを開いた。王寒石の名前の下に、空白が続いていた。
蓮はその空白に、「山西」と書いた。
母が書けなかった場所に、続きを書いた。
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雪晶斎を出た。
雪が降り続けていた。
リンが隣を歩きながら言った。
「老陳醋、まだ少し匂いがする?」
蓮は鼻を動かした。
「……少しだけ」
「本当に?」
「ほんの少しだけど、何かある」
「よかった」
リンは少し歩いてから言った。
「山西まで遠いの?」
「電車で数時間かかる」
「電車があるの?」
「北京から山西には鉄道がある」
「じゃあ歩かなくていいんだ」
「歩かなくていい」
リンは少し安心した顔をした。
北京の夜が続いていた。
蓮は手帳を鞄にしまった。
空白だったページに、初めて自分の字が入った感触が、まだ指先に残っていた。




