第37話:剥奪 ――七の刃の消失と、灰色の風――
スープが舌に触れた瞬間、何かが変わった。
味があった。しかし言葉にならなかった。甘みでも辛みでも旨みでもなかった。強くもなかった。しかし全部があった。全部が同時に来て、全部が相殺されて、最後に何も残らなかった。
蓮は椀を持ったまま、動けなかった。
立っていたが、体がどこにあるかわからなくなった。感覚が薄れていた。足の裏が床に触れているのはわかった。しかし冷たさがわからなかった。
箸が手から落ちた。
音が遠かった。
覇王が蓮を見ていた。
「……薫は、この道具に縛られて死んだ」
蓮は覇王を見た。
「死んだ」
「そうだ」
蓮はその言葉を聞いた。
何かが止まった。頭の中で、何かが処理を止めた。信じていなかったわけではなかった。どこかで予感していたかもしれなかった。しかしその言葉を覇王の口から聞くと、今まで保っていた何かが、静かに崩れていった。
蓮は立っていた。崩れ落ちなかった。しかし何も言えなかった。
「いつ」とだけ聞いた。
「七年前だ」
蓮が七歳の時だった。母が翠龍門で倒れたのは七年前だった。
覇王は続けた。
「薫は最後まで、包丁を手放さなかった。その執着が、体を削った」
「あんたが」
「私が殺したとは言っていない」
「でも、あんたが追い詰めた」
覇王は答えなかった。
覇王が手を伸ばした。
蓮の腰に触れた。
七つの包丁の袋が外れた。
革のベルトが緩む感触があった。重さが消えた。
蓮は反射的に手を伸ばした。しかし体が動かなかった。スープの影響がまだあった。手が上がらなかった。
覇王は包丁の袋を持った。
床に置いた。無造作ではなかった。しかし丁寧でもなかった。ただ置いた。
その時、覇王が一瞬だけ袋を見た。
長くはなかった。一秒か、それ以下だった。しかしその目が、それまでと違った。何かを見た目だった。覇王が何を感じたのか、蓮にはわからなかった。しかし確かに、一瞬だけ何かがあった。
それから覇王は顔を上げた。
「外へ出ろ。命は取らない」
リンが蓮の腕を引いた。
蓮は動いた。自分で動いたのか、リンに引かれたのかわからなかった。
廊下を歩いた。
階段を上がった。
扉が開いた。
外に出た。
北京の夜だった。雪が降っていた。
リンが蓮の顔を見た。
「蓮」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃない顔してる」
蓮は雪を見た。
匂いがしなかった。
北京の冬の雪は、乾いた匂いがするはずだった。厦門の海の匂い、広州の川の匂い、上海の蟹の匂い——各地で嗅いできた匂いが、今は何もなかった。
リンを見た。
リンの匂いがわからなかった。ずっと一緒にいたから、どんな匂いがするか知っていた。しかし今は何も来なかった。
「……匂いが、しない」
蓮は言った。
「そのスープを飲んでから」
「うん」とリンが言った。「私にもわかる。蓮から、いつもの匂いがしなくなった」
二人は歩いた。
どこに向かうか決めていなかった。ただ歩いた。
雪が積もっていた。足音がした。しかし靴の底から伝わる感触が、いつもより遠かった。
蓮は自分の手を見た。
何も持っていなかった。
七本の包丁を、ずっと持ってきた。横浜から大陸に渡る時も、厦門でも、広州でも、上海でも。重さが当たり前になっていた。その重さが今、なかった。
母の形見だった。
その形見が、今、紫禁城の地下にある。
蓮は歩き続けた。
路地に入った。
リンが立ち止まった。
「蓮、少し休まない?」
「どこで」
「あそこに明かりがある」
小さな店だった。食堂だった。明かりが出ていた。
入った。
老人が一人で切り盛りしていた。メニューが壁に貼ってあった。
蓮は何も注文しなかった。
リンが「麺を二つ」と言った。
麺が来た。
蓮は器を見た。湯気が出ていた。スープの色があった。
食べた。
味がしなかった。
完全にではなかった。塩気があることはわかった。麺の食感があることはわかった。しかし重なりがなかった。一つひとつの要素が、バラバラに届いてきた。繋がらなかった。
蓮は箸を置いた。
「まずい?」とリンが聞いた。
「まずくはない」
「でも食べない」
「味がわからない」
リンは蓮を見た。それから自分の麺を食べ始めた。
「私は美味しい」
「そうか」
「老人が丁寧に作った味がする」
蓮は麺を見た。
丁寧に作られていることはわかった。見ればわかった。しかし感じられなかった。
食堂を出た。
雪がまだ降っていた。
「どうするの」とリンが聞いた。
「わからない」
「戻るの」
「今は戻れない。包丁がない。感覚がない。今戻っても何もできない」
リンは少し考えた。
「王寒石に会いに行く?」
蓮は止まった。
王寒石。母を知っていた男。十六年前に母と会った男。麒麟会と繋がっていたが、何かを変えようとしていた男。
「……会いに行く」
雪晶斎に向かって歩き始めた。
北京の街に、雪が降り続けていた。




