第36話:紫禁城の深淵 ――覇王との対面と、鏡の顔――
紫禁城の地下に、階段があった。
王寒石が教えてくれた場所に、入口があった。石の扉だった。重かった。押すと、冷気ではなく、温かい空気が出てきた。
リンが鼻を動かした。
「……温かい。でも変な温かさ。……全部の匂いが、完璧に整ってる」
「整っている」
「うん。食材の匂いが、一つも乱れてない。……気持ち悪いくらい綺麗」
蓮は階段を下りた。
廊下が続いていた。
照明がなかった。しかし壁がわずかに光っていた。壁に何かが埋め込まれていた。石か、鉱物か、蓮には判断できなかった。
廊下の突き当たりに、扉があった。
開いていた。
中に入った。
広かった。厨房だった。調理台が複数あった。その中央に、一つだけ大きな台があった。
台の前に、男がいた。
男が振り返った。
蓮は止まった。
顔を見た。
すぐには何も考えられなかった。見ているのに、処理できなかった。顔の輪郭が、見慣れた何かと重なっていた。しかしそれが何かを理解するのに、数秒かかった。
母の写真を思い出した。料理学校時代の写真。無角と並んで笑っていた母。その顔の目元と、目の前の男の目元が、同じだった。
次に、鏡を思い出した。翠龍門の洗面台の鏡。毎朝見ていた自分の顔。その顔の鼻筋と口元が、目の前の男と同じだった。
蓮は動けなかった。
「……遅かったな」
男が言った。
声を聞いて、ようやく体が動いた。一歩下がった。下がったことに気づいてから、止まった。
男は覇王と名乗った。
麒麟会の総帥だった。
蓮はその名前を聞きながら、まだ顔を見ていた。
「母さんと、知り合いか」
「知り合いではない」
「では」
「薫とは、別の関係だ」
蓮は続きを待った。
覇王は続けなかった。
「……母さんは今どこにいる」
「それを教える前に、お前に見せたいものがある」
「答えてくれ」
「見せた後に答える」
蓮は覇王を見た。逃げるような目ではなかった。しかし答えを急がない目だった。十六年間、どこかで待っていた人間の目だった。
覇王が調理台に向いた。
食材があった。山のようにあった。しかし乱れていなかった。種類ごとに整然と並んでいた。
包丁を取り出した。
蓮の破軍と同じ形だった。しかし大きかった。刃紋が違った。
覇王が包丁を動かした。
音がほとんどなかった。
食材が変わっていった。熊の掌が切り出された。燕の巣が分けられた。フカヒレが処理された。一つひとつの作業が、次の作業と繋がっていた。順番に無駄がなかった。
リンが蓮の袖を引いた。
「……匂いが一つになってきてる。全部違う食材なのに、一つの方向に向かってる」
「どういう匂いだ」
「わからない。でも……怖くない匂い。全部、正しい場所にある匂い」
覇王が火をつけた。
火の色が変わった。普通の炎だった。しかし熱の入り方が違った。鍋の中の対流が、見ていてわかるほど整っていた。四川で見た火の動きでもなく、広州で学んだ火の動きでもなかった。両方が同時にあった。
蓮は見ていた。
これまで各地で戦ってきた五虎星の技術が、覇王の動きの中にあった。しかし技術として持っているのではなかった。体に入っていた。考えて使っているのではなく、そうしか動けない体になっていた。
時間がかかった。
蓮とリンは動かずに見ていた。
完成した。
一椀のスープだった。
透明だった。湯気が出ていなかった。しかし冷えているのではなかった。蓮が近づくと、温度を感じた。湯気が出ないのに、温かかった。
匂いがなかった。
リンが鼻を動かした。
「……匂いがない。でも、鼻の奥に何かが来てる。……嗅いでるのに、嗅いでいないみたいな感じ」
覇王が椀を蓮の前に置いた。
「満漢全席を、一椀に凝縮した。……食べれば、わかることがある」
「母さんのことを」
「お前の血が、私の理を理解するかどうかを」
「答えになっていない」
「食べれば答えになる」
蓮は椀を見た。
透明なスープが静かに揺れていた。湯気がなかった。匂いがなかった。しかし確かに、何かがあった。
蓮は箸を取った。




