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四川の焔  作者: 水前寺鯉太郎
大陸遠征・八大料理試練編(北京編)

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34/52

第34話:氷晶宮 ――凍れる小籠包と、母の未完――

門をくぐると、音が消えた。

 足音がしなかった。自分の足が地面に触れているのはわかった。しかし音が返ってこなかった。厚い氷の壁が、音を吸い込んでいた。

 天井も壁も氷だった。磨かれた氷で、光が屈折して広がっていた。外は曇りだったが、内部は白く明るかった。

 リンが蓮の袖を掴んだ。

「……時間が止まってる匂いがする」

「時間の匂いがわかるのか」

「わかる。古いけど腐っていない匂い。……ここの食材、全部そういう匂いがする」

 廊下の両側に、氷の柱が並んでいた。

 中に食材が入っていた。大きな海老。牡丹の花。器に盛られた料理。どれも、今作られたばかりのように見えた。しかし湯気がなかった。動きがなかった。

 蓮は一つの柱の前で止まった。

 海老が入っていた。足が広がっていた。まだ生きているような姿勢だった。しかし触れると、冷気が手を刺した。

「……保存ではない」

 蓮は言った。

「解凍したら戻らない。細胞が壊れている。これは収監だ」

「食べるためのものじゃないの?」

「見るためのものだ」

 廊下の突き当たりに、大きな台座があった。

 その上に、小籠包が一籠あった。

 皮のひだが美しかった。一本一本が整っていた。しかし白く凍りついていた。湯気がなかった。温度がなかった。

 台座の横に木札があった。

 母の字だった。

薫・作 未完

 蓮は動かなかった。

 リンが横に来た。

「……蓮のお母さんの料理?」

「そうだ」

「なんで未完なの」

 蓮は答えなかった。答えがわからなかった。

「十六年前から、ここにある」

 声がした。

 廊下の奥から、男が来た。

 白い髪だった。白い衣を着ていた。肌の色が薄かった。その周囲の空気が、他の場所より冷たかった。

 零と名乗った。

 蓮は零を見た。五虎星の最後の一人だった。しかし今は、その前に聞かなければならないことがあった。

「母さんがここに来たのか」

「来た。小籠包を作った。しかし最後の工程を終える前に、この宮を去った」

「なぜ」

「わからない。理由を聞く前に去っていた」

 零は台座の前に立った。

「薫は、この小籠包を私に渡していった。完成させてくれと言ったのか、それとも保存してくれと言ったのか、今でも判断できない」

「どちらだと思うか」

「どちらでもないかもしれない」

 蓮は小籠包を見た。

「なぜ十六年間、ここに置いておいたのか」

「完成する方法がわからなかったから」

「あんたが」

「私には、これを解凍する技術がない。凍らせる技術はある。しかし凍ったものを、皮を破らずに元の状態に戻す方法を、私は持っていない」

 零は小籠包から目を離さなかった。

「薫はそれができると思っていたのかもしれない。しかし私にはできなかった。だから未完のまま残っている」

 蓮は輪廻を出した。

 刃を小籠包に近づけた。

 触れる前に、手に何かが伝わってきた。冷気だった。しかしその冷気の奥に、別の何かがあった。

 まだ残っていた。

 凍っていても、小籠包の中の何かが完全には止まっていなかった。煮こごりになっているはずのスープが、凍った状態でも、かすかに動こうとしていた。母が込めた何かが、十六年間、この氷の中で待っていた。

「……まだある」

 蓮は言った。

「何がある」とリンが聞いた。

「命が残っている。凍っているが、死んでいない」

 零が蓮を見た。

「それが感じられるのか」

「この包丁を通して感じた」

 零は少し間を置いた。

「薫も同じことを言っていた。この包丁があれば、凍った素材からでも命が読めると」

 蓮は輪廻を持ったまま、零に向いた。

「母さんが未完で去った理由を、あんたはどう思っているのか」

「わからないと言った」

「あんたの推測を聞きたい」

 零はしばらく黙った。

「……薫は、この小籠包を私に渡した時、一言だけ言った。『あなたには、まだわからないから』と」

「何がわからないと言ったのか」

「聞き返す前に去った。十六年、その言葉の意味を考えてきた。しかし答えが出ない」

 蓮は小籠包を見た。

「その答えが、この中にあるということか」

「そうかもしれない。だから私はこれを溶かせなかった。溶かしてしまえば、答えが消えるかもしれないと思った」

 廊下の氷が、かすかに光を変えた。

 外の雲が動いたのかもしれなかった。光の屈折が変わって、小籠包が一瞬だけ別の色に見えた。

 リンが鼻を動かした。

「……蓮、今、少しだけ甘い匂いがした。その小籠包から」

「凍っているのに」

「うん。でも確かにした。ほんの少し」

 蓮は輪廻を握り直した。

 母が込めた何かが、十六年間待っていた。零がわからなかった答えが、この中にある。

 しかし今夜、すぐに解凍する必要はなかった。

 まず、零が十六年間考えてきたことを、もっと聞く必要があった。

「零。今夜、話を続けていいか」

 零は蓮を見た。

「構わない」

「母さんが作ったものを、十六年間保存していた。それだけで、あんたが何を考えてきたかは少しわかる」

 零は答えなかった。しかし廊下の奥に向かって歩き始めた。

「来い。座る場所がある」

 蓮とリンは零の後を追った。

 小籠包は台座の上に残っていた。

 廊下の光の中で、かすかに、甘い匂いがした。

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