第34話:氷晶宮 ――凍れる小籠包と、母の未完――
門をくぐると、音が消えた。
足音がしなかった。自分の足が地面に触れているのはわかった。しかし音が返ってこなかった。厚い氷の壁が、音を吸い込んでいた。
天井も壁も氷だった。磨かれた氷で、光が屈折して広がっていた。外は曇りだったが、内部は白く明るかった。
リンが蓮の袖を掴んだ。
「……時間が止まってる匂いがする」
「時間の匂いがわかるのか」
「わかる。古いけど腐っていない匂い。……ここの食材、全部そういう匂いがする」
廊下の両側に、氷の柱が並んでいた。
中に食材が入っていた。大きな海老。牡丹の花。器に盛られた料理。どれも、今作られたばかりのように見えた。しかし湯気がなかった。動きがなかった。
蓮は一つの柱の前で止まった。
海老が入っていた。足が広がっていた。まだ生きているような姿勢だった。しかし触れると、冷気が手を刺した。
「……保存ではない」
蓮は言った。
「解凍したら戻らない。細胞が壊れている。これは収監だ」
「食べるためのものじゃないの?」
「見るためのものだ」
廊下の突き当たりに、大きな台座があった。
その上に、小籠包が一籠あった。
皮のひだが美しかった。一本一本が整っていた。しかし白く凍りついていた。湯気がなかった。温度がなかった。
台座の横に木札があった。
母の字だった。
薫・作 未完
蓮は動かなかった。
リンが横に来た。
「……蓮のお母さんの料理?」
「そうだ」
「なんで未完なの」
蓮は答えなかった。答えがわからなかった。
「十六年前から、ここにある」
声がした。
廊下の奥から、男が来た。
白い髪だった。白い衣を着ていた。肌の色が薄かった。その周囲の空気が、他の場所より冷たかった。
零と名乗った。
蓮は零を見た。五虎星の最後の一人だった。しかし今は、その前に聞かなければならないことがあった。
「母さんがここに来たのか」
「来た。小籠包を作った。しかし最後の工程を終える前に、この宮を去った」
「なぜ」
「わからない。理由を聞く前に去っていた」
零は台座の前に立った。
「薫は、この小籠包を私に渡していった。完成させてくれと言ったのか、それとも保存してくれと言ったのか、今でも判断できない」
「どちらだと思うか」
「どちらでもないかもしれない」
蓮は小籠包を見た。
「なぜ十六年間、ここに置いておいたのか」
「完成する方法がわからなかったから」
「あんたが」
「私には、これを解凍する技術がない。凍らせる技術はある。しかし凍ったものを、皮を破らずに元の状態に戻す方法を、私は持っていない」
零は小籠包から目を離さなかった。
「薫はそれができると思っていたのかもしれない。しかし私にはできなかった。だから未完のまま残っている」
蓮は輪廻を出した。
刃を小籠包に近づけた。
触れる前に、手に何かが伝わってきた。冷気だった。しかしその冷気の奥に、別の何かがあった。
まだ残っていた。
凍っていても、小籠包の中の何かが完全には止まっていなかった。煮こごりになっているはずのスープが、凍った状態でも、かすかに動こうとしていた。母が込めた何かが、十六年間、この氷の中で待っていた。
「……まだある」
蓮は言った。
「何がある」とリンが聞いた。
「命が残っている。凍っているが、死んでいない」
零が蓮を見た。
「それが感じられるのか」
「この包丁を通して感じた」
零は少し間を置いた。
「薫も同じことを言っていた。この包丁があれば、凍った素材からでも命が読めると」
蓮は輪廻を持ったまま、零に向いた。
「母さんが未完で去った理由を、あんたはどう思っているのか」
「わからないと言った」
「あんたの推測を聞きたい」
零はしばらく黙った。
「……薫は、この小籠包を私に渡した時、一言だけ言った。『あなたには、まだわからないから』と」
「何がわからないと言ったのか」
「聞き返す前に去った。十六年、その言葉の意味を考えてきた。しかし答えが出ない」
蓮は小籠包を見た。
「その答えが、この中にあるということか」
「そうかもしれない。だから私はこれを溶かせなかった。溶かしてしまえば、答えが消えるかもしれないと思った」
廊下の氷が、かすかに光を変えた。
外の雲が動いたのかもしれなかった。光の屈折が変わって、小籠包が一瞬だけ別の色に見えた。
リンが鼻を動かした。
「……蓮、今、少しだけ甘い匂いがした。その小籠包から」
「凍っているのに」
「うん。でも確かにした。ほんの少し」
蓮は輪廻を握り直した。
母が込めた何かが、十六年間待っていた。零がわからなかった答えが、この中にある。
しかし今夜、すぐに解凍する必要はなかった。
まず、零が十六年間考えてきたことを、もっと聞く必要があった。
「零。今夜、話を続けていいか」
零は蓮を見た。
「構わない」
「母さんが作ったものを、十六年間保存していた。それだけで、あんたが何を考えてきたかは少しわかる」
零は答えなかった。しかし廊下の奥に向かって歩き始めた。
「来い。座る場所がある」
蓮とリンは零の後を追った。
小籠包は台座の上に残っていた。
廊下の光の中で、かすかに、甘い匂いがした。




