第33話:山道の回鍋肉 ――破軍の切り出しと、気配のない男たち――
山道に入ると、空気が変わった。
北京の街の乾いた冷気とは違う、山の冷気だった。木が少なかった。岩と雪だけが続いていた。足元が固かった。踏むたびに雪が圧縮されて、キュッという音がした。
リンが立ち止まった。
「……蓮、止まって」
「何だ」
「匂いがない」
「山だから」
「違う。さっきまで木の匂いと雪の匂いがした。でも今は、本当に何もない。……消えてる」
蓮は周囲を見た。
岩が続いていた。道の両側に、大きな岩が並んでいた。どこかに隠れられる場所が無数にあった。
リンが小声で言った。
「人の匂いもない。でも、何かがいる感じがする」
最初に気づいたのは、足元だった。
雪の上に、踏み跡があった。しかし音がしていなかった。踏み跡は蓮たちの進行方向に向かって、岩の影に消えていた。
蓮は破軍を出した。
一番目の包丁だった。横浜の厦門で一度使ったきり、あまり出番がなかった。大ぶりな刃だった。重かった。しかしその重さが、今は手に合った。
岩の陰から、人が出てきた。
一人ではなかった。両側の岩から、同時に複数が現れた。白い服を着ていた。雪の色に近い服だった。気配がなかった理由がわかった。服の色と、動き方が、山道に溶け込んでいた。
手に包丁を持っていた。細い刃だった。
先頭の一人が言った。
「氷晶宮への道は通れない」
「なぜ」
「氷帝様の命令だ」
蓮は数を数えた。七人いた。全員、同じ白い服だった。麒麟会の下の組織の者だと、動き方を見てわかった。統率された動きだった。しかし個々の力は、五虎星とは別の種類だった。
「リン、下がっていてくれ」
「一人でやるの」
「一人でやる」
リンは岩の後ろに下がった。
七人が動いた。
包丁を構えながら、散開した。囲む動きだった。
蓮は破軍を構えた。
しかし戦うつもりはなかった。
道の脇の岩に、何かが見えた。
雪の下から、赤い色が出ていた。唐辛子だった。この山道に、唐辛子が自生していた。凍りながらも、岩の熱で辛うじて枯れずにいた。
その横に、岩の割れ目から出ている葱に似た植物があった。
蓮は破軍を岩に向けた。
「何をする気だ」と先頭の男が言った。
蓮は答えなかった。
破軍で岩の雪を払った。唐辛子が出てきた。刃で切り出した。次に葱を切り出した。山道の脇の岩棚に、凍りかけた豚肉の干し肉があった。行商人が残していったものか、誰かが保存していたものだった。破軍で切り出した。
七人が止まった。
蓮は荷物から携帯用の小鍋を出した。
固形燃料に火をつけた。
山道の真ん中で、調理を始めた。
七人は動かなかった。何をしているか、理解できていない様子だった。
破軍で豚肉を切った。
この包丁で切ると、断面が変わった。繊維の方向に沿って切れた。無駄な力がかからなかった。凍りかけた肉が、刃に沿って素直に分かれた。
鍋に油を入れた。固形燃料の火は弱かった。しかし山道の無風の場所を選んでいたから、炎が安定していた。
豚肉を入れた。
脂が溶け始めた。香りが立った。
リンが岩の後ろから顔を出した。
「……いい匂い」
「下がっていてくれ」
「でも」
「もう少し待ってくれ」
唐辛子を入れた。
香りが変わった。辛みの香りが、山道に広がった。冷気の中で、その香りは遠くまで飛んだ。
七人の一人が、鼻を動かした。
葱を入れた。豆板醤を加えた。荷物に入れていた小瓶の豆板醤だった。広州を出る前に、陳が持たせてくれたものだった。
鍋を煽った。
炎が上がった。固形燃料の弱い火でも、鍋を返すことで食材に熱が入った。四川の技法だった。強い火がなくても、鍋の動きで補える。
香りが山道に満ちた。
七人が動かなくなった。
先頭の男が、一歩前に出た。
「……何を作っている」
「回鍋肉だ」
「なぜ今それを作る」
「腹が減ったから。それと、寒い」
男は蓮を見た。それから鍋を見た。
「麒麟会に仕えているなら、この香りの意味はわかるはずだ」とリンが岩の後ろから言った。「麒麟会のスパイスじゃない。本物の辛みの香りだ」
男は黙った。
蓮は皿に盛った。山道の岩の上に置いた。
「食べていけ。北京の冬に、この辛みは必要だ」
七人は顔を見合わせた。
先頭の男が、一歩踏み出した。
皿を見た。
長い沈黙があった。
「……氷晶宮への道は、この先の岩を越えた右側だ」
それだけ言った。
七人は山道の脇に退いた。道が開いた。
先頭の男が、最後に皿を一度見た。それから背を向けた。
蓮とリンは山道を進んだ。
リンが歩きながら言った。
「食べなかったけど、道を譲ってくれた」
「香りだけで十分だったんだと思う」
「どういうこと」
「あの人たちも、北京の冬を生きている。麒麟会の食で生きているが、本物の辛みの香りは知っている。……忘れていても、鼻は覚えている」
リンは少し考えた。
「リンの嗅覚と同じだ」
「そうかもしれない」
岩を越えた。
右側に、道があった。
その先に、白い建物が見えた。
氷晶宮だった。
大きかった。岩山を削って作られていた。入口の門が、氷でできていた。光を透かしていた。
「あそこに氷帝がいるの」とリンが言った。
「そうだ」
「王が言った。お前の包丁に迷いがあれば食い殺されると」
「迷いがないかどうかはわからない」
「どうするの」
「入ってみないとわからない」
氷晶宮の門が、風もないのに少し揺れた。
中から、冷気が出てきた。




