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四川の焔  作者: 水前寺鯉太郎
大陸遠征・八大料理試練編(北京編)

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第32話:氷の熱、皮の飴 ――裏庭の試練と、十六年前の言葉――

 翌朝、雪晶斎の裏手に回った。

 石造りの炉が一つあった。凍った池があった。王寒石が池の縁に立っていた。その手に、一羽の鴨があった。下処理が終わっていた。

「来たか」

「来た」

 王は鴨を蓮に投げた。

 受け取ると、冷たかった。表面が凍りかけていた。

「薫は、この鴨を火ではなく氷で焼くと言った」

 王は池を見ながら言った。

「意味がわからなかった。火を使わずに、どうやって皮を爆ぜさせるのか。薫は笑って、お前ならいつかわかると言って去った。……十六年、考え続けたが、俺にはわからなかった」

 蓮は鴨を見た。

「試練だ。この寒さの中で、火を最小限に抑え、皮を完璧に乾燥させろ。それができれば、氷晶宮への道を教える」

 リンが空気を吸い込んだ。

「王の周りだけ、何か回ってる匂いがする。冷たいのに、動いてる」

「熱の流れか」

「わかんない。でも動いてる」

 蓮は鴨を持って、裏庭を見渡した。

 北京ダックの皮を仕上げるには、乾燥が必要だった。皮の水分を飛ばすことで、焼いた時にあの独特の食感が生まれる。通常は風を通す。しかしこの寒さでは、水分が飛ぶ前に表面が凍る。凍れば細胞が壊れる。

 母が言った「氷で焼く」という言葉を、蓮は考えた。

 氷で何ができるか。

 池の氷を見た。

 冬の太陽が、低い角度から差し込んでいた。光は弱かったが、確かにあった。

 蓮は氷心を出した。

 池の端の氷を切り出した。厚みのある塊だった。刃を入れると、切断面が滑らかになった。氷心の薄い刃が、氷の結晶を潰さずに切るからだった。断面が透明だった。

 もう一枚切り出した。

 二枚を重ねた。端を削って、緩やかな曲面を作った。中央が厚く、縁が薄い形にした。

 光にかざした。

 焦点が生まれた。

 二枚の氷が光を一点に集めた。その点に、雪が当たっていた。雪が蒸発した。音もなく、煙もなく、ただ雪が消えた。

「……あ」

 リンが声を上げた。

「火がないのに熱がある」

「氷が光を集めている。レンズと同じ原理だ」

 王が動かずに見ていた。

 蓮は塩と砂糖を水に溶かした。

 塩と糖を混ぜると、氷点以下でも凍りにくくなる。この液体を皮に塗れば、北京の寒さの中でも表面が凍らない。水分だけが、ゆっくりと外に逃げていく。

 鴨の皮に塗った。

 氷のレンズを調整した。光の焦点が、皮の表面に当たるようにした。弱い熱だった。しかしゼロではなかった。北京の乾いた空気と、氷が作った微かな熱。その二つが重なった。

 皮の表面が、少しずつ変わっていった。

 透明感が出てきた。水分が抜けていた。しかし凍っていなかった。細胞が壊れていなかった。

 王が近づいてきた。

 鴨を見た。

「……皮が締まっている」

「凍らせずに乾燥させた」

「火を使わずに」

「氷が光を集めた。北京の太陽は弱いが、氷のレンズを使えば一点に熱が集まる」

 王は鴨から目を離さなかった。

「……薫が言った『氷の熱』は、これか」

「そう思う。母さんは十六年前に、ここで同じことをやろうとしていたんじゃないか」

「俺にはわからなかった」

「あんたには、その時まだ関係がなかったからだ」

 王は少し間を置いた。

「今は関係あるのか」

「見ていたから」

 その時、王が鴨を受け取った。

 自分で手に持って、表面を触れた。

 親指で皮の張りを確かめるような動作だった。料理人が素材を確認する時の触れ方だった。蓮は今まで王がそういう動作をするのを見たことがなかった。

 王は鴨を蓮に戻した。

「行け。氷晶宮への道は、裏手の山を越えた先にある。氷帝が待っている」

「あんたは来ないのか」

「俺はここにいる」

 蓮は王を見た。

「また来る」

「来ても構わない」

 王は炉の前に戻った。背を向けた。

 しかしその前に、一度だけ氷のレンズを見た。光が集まっている場所を、少しだけ見てから、炉の方に向いた。

 蓮とリンは裏庭を出た。

「氷晶宮に行くの?」とリンが聞いた。

「行く」

「王は来ない」

「ああ」

「王、変わったと思う?」

 蓮は少し考えた。

「変わったかどうかはわからない。でも、何かを見た」

「何を?」

「十六年前に見えなかったものを」

 リンは考えてから言った。

「それって、いいことなの?」

「いいことだと思う」

 裏庭の雪に、足跡が二つ続いていた。

 氷のレンズはまだ光を集めていた。北京の太陽が低く、その光の焦点が雪の上に小さな丸を描いていた。

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