第31話:流星の麺 ――速さの意味と、王が知っていること――
翌日、蓮は一人で雪晶斎に戻った。
リンには外で待つよう言った。昨日の中毒客の敵意が、リンに向く可能性があった。
店に入ると、王寒石が麺を打っていた。昨日と同じ場所に立って、昨日と同じ動きをしていた。客が何人かいた。全員、黙って食べていた。
蓮はカウンターに座った。
「また来た」と王が言った。
「続きを聞きに来た。母さんとの話を」
王は麺を打ちながら答えた。
「薫は、ここに三日いた」
「いつのことだ」
「十六年前だ。お前が生まれる前だ」
蓮は少し間を置いた。
「何をしに来たんだ」
「俺を止めに来た」
王寒石が麺を打つ音だけが続いた。
蓮は待った。
「俺は当時、北京で麒麟会のために働いていた。薫はそれを知って来た。……お前の母親は、麒麟会の動きを一人で追いかけていた。各地を回って、誰が関わっているかを調べていた」
「それで、母さんはあんたを止めたのか」
「止めようとした。しかし俺は止まらなかった」
「なぜ」
「北京の冬を生き延びるには、冷たくなるしかなかった。薫はそれを理解しなかった」
王の麺打ちの動きが、少し変わった。速くなったわけではない。しかし正確さが増した。感情が動いている時の動きだった。
「……薫は最後に何を言ったか、覚えているか」とリンが来る前から考えていた言葉を、蓮は聞いた。
「料理は人を凍らせるためにあるのではないと言った。……それだけだ」
客の一人が立ち上がった。
蓮の方を向いた。昨日と同じ目だった。中毒者の敵意だった。
別の客も振り返った。
「……あんたのタレに、魔睡花が入っている。客は中毒になっている」
蓮が王に言った。
「知っている」
「なぜ続ける」
「客が求めるから」
「中毒になった後に求めているだけだ」
王は麺を打ち続けた。
「お前の母親と同じことを言う」
蓮は流星を出した。
麺の生地が手元にあった。昨日の余りが台の上に置いてあった。
「使っていいか」
王は答えなかった。しかし止めなかった。
蓮は生地を手に取った。
流星は細身の包丁だった。清湯の掃湯に使う刃だった。細かく叩く作業に向いていた。麺に使ったことはなかった。
しかし、王の麺を見ていて考えていたことがあった。
王の麺は完璧だった。表面が滑らかすぎるほど滑らかだった。滑らかな麺は、タレが均一に絡む。均一に絡むから、タレの成分が全て舌に届く。タレに毒が入っていれば、毒も均一に届く。
逆に、表面に細かい溝があれば、タレの絡み方が変わる。溝がタレを分散させる。全体に薄く広がる代わりに、麺自体の味が出てくる。
蓮は流星で生地を叩き始めた。
速かった。
客の一人が振り返った。音に気づいたからだった。王が手を止めた。蓮の手元を見た。
リンが窓の外から顔を覗かせた。目が合った。蓮は続けた。
叩くたびに、生地の表面が変わっていった。目では見えない変化だった。しかし手に伝わる感触が変わった。表面に微細な起伏ができていた。
麺を仕上げた。
王のタレを使った。
冷水で締めて、器に盛った。
王の前に置いた。
「食べてくれ」
王は器を見た。
「俺の麺と同じタレを使っている」
「そうだ。タレは同じで、麺が違う」
王は箸を取った。一口食べた。
しばらく何も言わなかった。
「……麺の味がする」
「そうだ」
「タレが麺に負けている」
「麺が勝てばいい」
王はもう一口食べた。
それから器を置いた。表情は変わらなかった。感情がなかった。しかし先ほどより、少し別のものがあった。
「……面白い」
それだけ言って、また麺を打ち始めた。
蓮は店を出た。
リンが待っていた。
「どうだった」
「王が母さんを知っていた。十六年前に会っている」
「敵なの?」
「まだわからない。……でも麒麟会と繋がっていたのは確かだ」
「麺は」
「王が面白いと言った」
「勝ったの?」
「負けてもいない。でも勝ってもいない」
リンは少し考えた。
「また行くの?」
「行く。……まだ聞いていないことがある」
北京の空は灰色のままだった。
雪晶斎の煙突から、白い湯気が細く出ていた。
蓮は手帳のことを考えた。母が何度か書き直した名前。書くかどうか迷った痕跡。十六年前、母はこの街で何を見て、何を感じたのか。
王寒石は止まらなかったと言った。
母は最後に何かを言って去った。
その間に何があったのか、まだ聞いていなかった。




