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四川の焔  作者: 水前寺鯉太郎
大陸遠征・八大料理試練編(北京編)

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第30話:凍土の誘惑 ――魔の冷やし中華と、氷石の男――


 北京の風は、上海とは違う種類の冷たさだった。

 上海の冷気は湿っていた。北京の冷気は乾いていた。乾いているから深く刺さった。港を降りた瞬間、喉の奥まで冷気が入り込んだ。

 リンが鼻に手を当てた。

「……変だ。何も匂わない」

「寒いからか」

「そうだと思う。匂いの粒子が地面に張り付いてる感じ。……清潔すぎて、何もない街の匂い」

 灰色の空だった。石造りの建物が続いていた。人は歩いていたが、声が少なかった。北京は活気のある街だと陳から聞いていた。しかし今の北京には、活気よりも静寂の方が多かった。

 路地に人が集まっていた。

 一か所だけ、行列ができていた。『雪晶斎』という看板があった。

 氷点下の屋外で、人々が並んでいた。老人も、若い人も、子供も混じっていた。

「何を待ってるんだろう」とリンが言った。

 前の方の客が、器を持って出てきた。麺が入っていた。透明な麺と、赤いタレ。冷やし中華だった。

「この寒さで冷やし中華か」

「食べてみたい」とリンが言った。

「待て」

 蓮はリンを止めた。

 行列の客を見ていた。全員、同じ顔をしていた。表情がなかった。麺を食べながら、目の焦点が薄かった。

 リンが咳き込んだ。

「……っ。来た。この匂い」

「何の匂いだ」

「魔睡花。でも広州や上海のとは違う。もっと……底にある感じ。冷たい。凍ってる」

 蓮は行列を見た。

 客が一人、食べ終えた器を持ったまま、また列に並び直していた。

 蓮は店の前まで行った。

 厨房が見えた。奥に男が一人いた。黙って麺を打っていた。その周囲の空気が、店内よりさらに冷たく見えた。

 男が顔を上げた。

 蓮は止まった。

 その目が、手帳のことを思い出させた。北京のページの隅に、他と違う筆圧で書かれていた名前。母が何度か書き直した痕跡があった名前。

 蓮は男を見た。

 男も蓮を見ていた。

 しばらく、どちらも動かなかった。

「……王寒石か」

 蓮が言った。

 男は答えなかった。

 蓮は続けた。

「氷帝と呼ばれているのか」

 男はそこで初めて口を開いた。

「呼ぶ者はそう呼ぶ」

 それだけだった。また麺を打ち始めた。

 蓮はカウンターに座った。

 リンが隣に来ようとした。蓮は小声で言った。

「外で待っていてくれ。お前の嗅覚に影響が出るかもしれない」

「蓮は大丈夫なの」

「わからない。でも一口だけ確かめる」

 リンは少し迷ってから、店の外に出た。窓から中を見ていた。

 器が来た。

 透明な麺だった。氷水で締めた麺で、表面が滑らかだった。タレは赤く、上に胡麻と刻んだ葱が乗っていた。見た目は普通の冷やし中華だった。

 蓮は氷心を出した。

 タレに刃の腹を当てた。手に伝わる感触を確かめた。

 冷たかった。タレが冷たいのは当然だった。しかしその冷たさの中に、別の何かがあった。魔睡花の系統だった。しかし今まで感じてきた変異種とは方向が違った。熱を感じなくさせる方向だった。体の内側から、熱を奪っていく成分だった。

 一口だけ食べた。

 口の中に、旨みが来た。本物の旨みだった。麺の質が高かった。タレのバランスも良かった。しかしその後から、冷たさが喉を通った。食道から胃へ、冷気が伝わった。

 暖かかった空気が、少し遠くなった。

 王寒石が厨房から出てきた。

 カウンターの向こうに立った。蓮と同じ高さで目が合った。

「感じたか」

「ああ」

「体の熱を奪う。北京の冬は長い。この冷たさに慣れると、体の熱が邪魔に感じるようになる。……熱がなくなると、北京の寒さが心地よくなる」

「それが目的か」

「客は喜んでいる」

「中毒になっているだけだ」

 王寒石は蓮を見た。感情がなかった。怒りも、否定も、肯定もなかった。

「お前の母親も同じことを言った」

 蓮の手が止まった。

「……母さんを知っているのか」

「昔、この店に来た」

「何のために」

「俺に会いに来た」

 王寒石は答えを止めた。

 隣の客が、蓮の方を見た。敵意があった。普段の人間の目ではなかった。

 その客の隣の客も、蓮を見た。

 一人ずつ、視線が集まってきた。

 この店の味を否定する者への、中毒者の敵意だった。声はなかった。しかし全員が、同じ方向を向いていた。

 蓮は立ち上がった。

 王寒石を見た。

「また来る」

「来ても構わない」

「その時に続きを聞く。母さんとの話を」

 王寒石は答えなかった。

 蓮は店を出た。

 リンが待っていた。

「大丈夫?」

「少し体が冷えた。歩けば戻る」

「あの人、誰なの」

「わからない。でも、母さんを知っている」

 リンは少し考えた。

「敵なの?」

「わからない。……まだわからない」

 北京の風が吹いた。

 乾いた冷気が、二人の間を通り抜けた。

 雪晶斎の看板が、灰色の空の下に揺れていた。

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