第3話:看板を喰らう点面師(てんめんし) ―変幻自在の皮と、宿命の再会―
朴が逝って、三日が経った。
中華街は元通りに見えた。仕入れの声、観光客の笑い声、各店の看板料理の匂い。表通りを歩けば何も変わっていない。だが翠龍門の路地に入ると、空気が少し違った。朴がいなくなったことを、路地の石畳はまだ知っているようだった。
昼過ぎ、蓮は母の遺影の前に白い菊を供え直していた。仕入れた花は一本だけだった。余分なものを置く気になれなかった。
引き戸が開いた。
男は背が高かった。黒い長袍。右手に黒檀の麺打ち棒。背筋が針のように伸びていて、その立ち方だけで厨房の空気が変わった。
年齢は四十半ば。鋭い目が、入口から遺影を見た。一秒だけ、その目が止まった。
「……何の用だ。ランチは終わった」
「客として来たのではない」
男はカウンターまで進み、麺打ち棒を卓に置いた。
「無角。梁山麒麟会の点面師だ。……お前が薫の息子か」
母の名が出た瞬間、蓮の背中に緊張が走った。親しげな呼び方ではない。しかし、憎しみだけでもない。もっと複雑な何かが、その一言に混じっていた。
「母さんを知っているのか」
「俺と薫は、大陸の料理学校で同期だった」
無角は遺影を見たまま、続けた。
「当時、俺たちは『双龍』と呼ばれていた。俺が皮を打ち、薫がその中に熱を吹き込む。互いがいれば、何でも作れると思っていた」
一拍、間があった。
「だが彼女は、卒業を前にして日本に戻ることを選んだ。俺には何も言わずに」
無角の目が、遺影から外れた。
「麒麟会は今、この街の看板を回収している。すべての店の名を、我々の管理下に置く。薫が守ったこの店も例外ではない。……看板を渡せ」
「渡さない」
蓮は包丁をカウンターに置いた。抜かなかった。抜く必要がなかった。
「この看板は母さんが自分で彫った。あんたにもらえる義理はない」
「料理人の言葉は鍋の中でしか通じない」
無角は麺打ち棒を手に取った。
「一本勝負だ。テーマは小籠包。俺の皮をお前が超えてみせれば、看板は諦める。超えられなければ、この店を畳め」
蓮はエプロンを締めた。
無角が粉を出した瞬間、蓮は息を止めた。
男の動きは「調理」ではなかった。懐から取り出した小麦粉が宙で練られ、麺打ち棒がまな板を叩くたびに、厨房の空気が締まっていく。リズムが一定だった。速くも遅くもない、しかし聞いていると身体が引き込まれるような打音。蓮は自分の鼓動が、知らないうちにその音に合わせようとしているのに気づいて、首を振った。
完成した皮は、光を透かすほど薄かった。しかし指で押しても、爪を立てても、破れない。
無角は言葉もなく包んで蒸籠に入れた。
蓮も動き始めた。
母の古い竹製の蒸籠を出す。豚と生姜のあんを作る。皮を伸ばす。包む。手順は同じだ。ただ、無角の皮を目の前で見た後では、自分の皮が別物に見えた。素直に薄く伸ばしても、無角の皮の緊張感には届かない。
蒸籠が火にかかった。
無角の一皿が先に出た。
白く輝く小籠包。蓮は一つ取り、口に入れた。
皮を噛んだ瞬間、旨みが来た。本物の旨みだった。丁寧に取られたスープが、薄い皮の中で凝縮されて、舌の上で弾ける。それは技術の結晶で、文句のつけようがなかった。
だが。
その旨みの奥に、何かが混じっていた。甘ったるく、思考の端を掴もうとする感触。魔睡花だった。この味は美味い、これ以上のものはない、と脳が決めつけようとしてくる。
蓮は飲み込まずに、そっと口から出した。
「皮に混ぜたのか」
「点心は皮がすべてだ。中身がどれほど良くても、皮が支配すれば客は皮の味しか覚えない」
無角は静かに言った。自慢でも脅しでもない、事実として。
「お前の皮では、この支配には勝てない」
蓮は自分の蒸籠を見た。
中の小籠包はまだ蒸し上がっていない。このまま出しても、無角の言う通りになる。自分の皮は普通だ。薄くはあるが、無角の皮が持つあの「締め付け」がない。
蓮は厨房の中を見回した。
棚の上に、辣油の瓶があった。
母が時々、点心を蒸す前に蒸籠の縁に一滴だけ垂らしていたのを、蓮は覚えていた。何のためかは聞いたことがなかった。当時は「油が落ちないようにするためかな」と思っていた。
今、その意味が繋がった気がした。
蓮は蒸籠を一度火から下ろした。辣油を、底の隅に数滴垂らす。それから再び火にかけ、火力を上げた。
「何をした」
「わからない。やってみないと」
蒸籠の中で、何かが変わった。油が蒸気と混じり、小籠包の皮の表面を、外から薄く包み始めた。皮に熱の層が加わる。内側のスープの温度が、外に逃げずに保たれる。
三分後、蓮は蒸籠を開けた。
皮の表面が、わずかに赤みを帯びていた。
「食ってくれ」
無角は黙って箸を取った。
一つ、口に入れた。
しばらく、何も言わなかった。
蓮は見ていた。無角の顔が動かないことが、答えの一つだと思った。崩れてはいない。しかし、動きも止まっている。
「……皮が、熱を通している」
低い声だった。
「魔睡花が皮に仕込まれていても、お前の辣の蒸気が皮の外側を上書きする。中のスープが、俺の支配を抜けて直接舌に届く」
無角は箸を置いた。
それから、しばらくカウンターを見ていた。
「薫は、こういうことをよくやった」
独り言のような声だった。
「俺が完璧な皮を作るたびに、彼女はそれを別の方向から崩してきた。料理は壁を作るためにあるのではない、と言って。……私にはその意味が、ついにわからなかった」
無角は懐から一枚の写真を出して、カウンターに置いた。
「看板は持っていろ。……次に来るのは俺より上の者だ。死ぬな」
それだけ言って、麺打ち棒を手に取り、背を向けた。引き戸が開き、閉まった。
蓮はカウンターの写真を手に取った。
色褪せていた。二人の若者が並んで立っている。白いコックコートで、二人とも笑っている。
右側の女が、母だった。
こんな顔をする人だったのかと、蓮は思った。知っている顔ではあった。しかし遺影の笑顔とは違う、もっと自由な笑い方をしていた。
蓮は写真を持って厨房に入り、遺影の前に置いた。
母と、無角が並んだまま、二人で蓮を見ていた。




