第29話:凪の海路 ――香干馬蘭の苦味と、手帳の記名――
上海から北へ向かう貨客船の底で、エンジンの音が一定のリズムを刻んでいた。
波は穏やかだった。陽澄湖の狂乱が嘘のように、海はただ黒く、静かに船を揺らしていた。
北京まで二日の道のり。
蓮は船の小さな簡易厨房を借りていた。
まな板の上で、普通の包丁を動かした。母の七本ではない。船に備え付けられていた、薄刃の菜切り包丁だった。
重さが違った。軽すぎた。しかし刻む作業には関係なかった。押し豆腐を細かく切り、馬蘭の葉を揃えて微塵にする。普通の包丁で普通に刻む。それだけのことだった。
上海の市場で買っておいた食材だった。馬蘭は江南地方でよく食べられる野草で、葉に少し苦味がある。押し豆腐と合わせる食べ方を、市場の老人から教わった。
刻み終えた具材をボウルに移した。ごま油、塩、わずかな砂糖と醤油で和えた。火は使わない。素材の香りと食感をそのまままとめるだけの冷菜だった。
「……いい匂い」
厨房の入口でリンが鼻をひくつかせた。
「土の匂いと、少し渋い匂いがする。……なんかホッとする」
「香干馬蘭だ。江南のおふくろの味らしい」
「作ったことあるの?」
「今日が初めてだ。老人に教わった」
二人で甲板に出た。
潮風が来た。上海の港を出てから、空気が少しずつ変わっていた。南の湿った空気が薄くなり、北の乾いた冷気が混じり始めていた。
器を持って並んで立った。
蓮が箸をつけた。押し豆腐のしっかりした食感があって、次に馬蘭の青い香りが鼻に抜けた。ごま油のコクが後から来て、最後に微かな苦味が残った。
「美味しい」とリンが言った。「陽澄湖の油の匂いが、全部流れていく感じがする」
「強すぎる味は、いつか舌を壊す。こういう苦味が、一番長く食えるんだ」
リンは箸を止めずに言った。
「蓮って、こういう料理も作れるんだね」
「こういう料理の方が、本当は難しい。足すものがないから」
器が空になった。
蓮は海を見た。
健は上海に残った。父親の汚名を晴らすために、まずあの街で何かを変えようとしている。広州から始まって、上海まで来て、それぞれの場所に何かを残していった。健は上海に自分を残すことにした。
蓮は、健が最後に笑った顔を思い出した。
あの笑い方を、今まで一度も見たことがなかった。広州で出会った時の健には、あんな顔はなかった。何かが変わったのか、元々あったものが出てきたのか、蓮にはわからなかった。しかしあの笑い方を見て、蓮は初めて健のことを心配しなくなった。
懐から手帳を取り出した。
母の手帳だった。
ページをめくった。広州のページには、陳の名前と、いくつかの食材の記録があった。上海のページは、数行の走り書きで終わっていた。
北京のページを開いた。
ほぼ白紙だった。
一か所だけ、ページの隅に名前があった。
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蓮はその名前を見た。
他のページの筆跡と違った。他のページは丁寧に書かれていた。しかしこの名前だけ、筆圧が強かった。急いで書いたのではなく、何度か書き直した跡があった。書くかどうか迷って、それでも書いた、という痕跡だった。
「ねえ、蓮。その人、誰なの」
リンが手帳を覗き込んだ。
「わからない。ただ……この名前だけ、母さんの書き方が違う」
「どう違うの」
「他は全部、記録として書いてある。でもこれだけ、何か別の気持ちで書いたように見える」
リンは手帳を見た。それからリンなりの方法で確かめようとするように、手帳の近くに鼻を寄せた。
「……古い紙の匂いしかしない」
「そうだな」
「でも、大事な名前なんだと思う」
「なぜ」
「蓮の顔が変わったから」
蓮は手帳を閉じた。
「北京に着いたら、お前の鼻でも嗅ぎ取れないほどの冷気が待っているかもしれない」
「平気だよ」
「なぜ」
「蓮の料理は、いつも温かいから」
リンは空の器を持ったまま、海を見た。
「また作ってくれる? 香干馬蘭」
「北京で馬蘭が手に入ったら」
「手に入らなかったら?」
「別のものを作る」
「何を?」
「行ってみないとわからない」
リンは少し考えてから、うなずいた。
海風が冷たさを増した。
船は静かに北へ向かっていた。エンジンの音だけが、甲板に残った二人の間を通り抜けていった。




