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四川の焔  作者: 水前寺鯉太郎
大陸遠征・八大料理試練編(上海編)

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第28話:湖が静まる夜 ――健の粥と、紫の熱の終わり――

健が鍋を開けた。

 沸騰する湖の上で、鍋の蓋を取るのは普通ではなかった。熱風が入り込む。蒸気が乱れる。しかし健は構わなかった。

「蓮、どこに当てればいい」

「リン、冷たい筋はまだあるか」

「ある。さっきより少し右に動いた」

「健、そこを狙ってくれ。粥の冷気を集中させる」

 健は鍋を傾けた。

 しらゆきがゆだった。広州で覚えた、時間をかけて引いた粥だった。船に乗り込む前に仕込んでいた。健が黙って準備していたものだった。

 粥が湖面に触れた。

 音がした。熱い湖面と、粥の温度が接触した音だった。派手な音ではなかった。静かな、しかし確かな音だった。

 湖面の一点が、白く変わった。

 沸騰が止まった。直径一メートルほどの円の中だけ、泡が消えた。油と水が混じった白濁の湖面に、静かな水面が生まれた。

「今だ」

 蓮は刃を動かした。

 水龍を右手に、空蝉を左手に持ったまま、その冷却点に向けて二本を交差させた。

 対流の筋が見えた。

 熱い湖水は、温度差によって動く。高温の中心から外側へ、外側から底へ、底から中心へ。その循環が、湖全体の温度を均一に保っていた。健の粥が作った冷却点は、その循環に小さな乱れを生んでいた。

 蓮はその乱れに刃を入れた。

 水龍が流れを引き込んだ。空蝉が熱の振動を散らした。二本の刃が交差する点で、対流の方向が変わり始めた。

 湖が、少しずつ静まり始めた。

 紫が動いた。

 楼閣船の船首から、湖面を見ていた。

 油の奔流が止まっていた。湖面の沸騰が、端から順番に収まっていった。鋼糸で引き上げようとしていた蟹が、湖底に向かって沈み始めた。

「……面白い」

 紫の声は、まだ静かだった。

「粥で湖を冷やすか。発想は認める」

 しかし彼女の喉元が、また発光し始めた。

「だが、私の熱の方が速い。お前たちの冷却が広がるより先に、私がもう一度湖全体を沸騰させる」

 紫が口を開いた。

 蓮は刃を動かし続けた。手が限界に近かった。熱気の中で二本の刃を交差させたまま保つのは、指の感覚がなくなりかけていた。

 健が声を上げた。

「蓮、もう一回やれるか」

「やる」

「俺もやる。……粥が残ってる」

 健が再び鍋を傾けた。

 今度は別の場所だった。最初の冷却点から少し離れた場所に、二つ目の静水面が生まれた。

 二点。

 対流の乱れが二か所になった。

 蓮は刃の向きを変えた。二つの冷却点を結ぶ線上に、対流の要があった。そこに刃を入れれば、循環全体が崩れる。

 紫の喉から油が出る前に、蓮は刃を動かした。

 湖が静まった。

 一瞬だった。対流が止まった瞬間、湖全体の沸騰が同時に収まった。油と水が分離し始めた。油が表面に浮かんだ。その下に、陽澄湖本来の水が戻ってきた。

 紫が、口を閉じた。

 油を吐く前に、湖が静まった。

 周囲の熱気が、少しずつ薄れていった。

 紫は湖面を見ていた。

 長い沈黙があった。

 蓮は刃を下ろした。手が震えていた。健が船の縁に手をついていた。リンが深呼吸をしていた。

 紫がゆっくりと振り返った。

「……負けだ」

 静かな声だった。

 その顔に、また何かが過ぎった。27話で一瞬だけ見えたものと同じだった。悲しみでも怒りでもない。もっと古い何かだった。

「……昔、冷たい水が好きだった。この熱を持つ前の話だ」

 一言だけだった。説明しなかった。

 蓮は紫を見た。何も言わなかった。

「北京に行け」

 紫は船の内部に向かって歩き始めた。

「北の氷帝が待っている。……あの男は、私とは違う種類の怪物だ。お前の熱が通じるかどうか、私には分からない」

 それだけだった。

 紫は楼閣船の中に消えた。船がゆっくりと湖の奥へ動き始めた。霧の中に入って、見えなくなった。

 湖が静かになった。

 陽澄湖の水面に、月が映り始めた。水蒸気が収まって、夜の空気が戻ってきた。どこかで蟹が水面を泳いでいた。

 三人は船の上にいた。

 しばらく誰も話さなかった。

 健が先に口を開いた。

「俺はここに残る」

 蓮は健を見た。

「上海にか」

「父親の汚名が、まだ残っている。街の人間はまだ知らない。……広州から始めて、上海まで来て、少しずつ変えてきた。でもまだ足りない」

「そうか」

「お前たちは北京に行け。氷帝とやらに会って来い」

 リンが健を見た。

「一緒に来ないの?」

「今は来られない。でも……」

 健は少し間を置いた。

「お前たちが北京で何かを変えたら、俺にも聞こえてくる。その時に動く」

 リンはうなずいた。

 蓮は健に向かって一度だけうなずいた。

「わかった。待っていてくれ」

「待つつもりはない。俺は俺でやることがある」

 健は笑った。初めて見る笑い方だった。

「それがいい」と蓮は言った。

 翌朝、蓮とリンは上海の港に戻った。

 北京行きの船を確認した。二日後に出る便があった。

 港の近くの食堂で朝を食べた。リンが「昨日より空気の匂いが違う」と言った。

「どう違う」

「細い鉄の匂いが薄くなってる。……縫の糸が、減ってるのかもしれない」

「紫が消えたからかもしれない」

「そうかも」

 リンは朝食を食べながら、鼻を動かしていた。

「北京はどんな匂いがするんだろう」

「行けばわかる」

「また強い人がいるの」

「氷帝という。北京を拠点にしている」

「寒そう」

「そうかもしれない」

 リンは少し考えた。

「蓮の料理、また食べたい」

「腹が減ったら作る」

「今すぐ減った」

 蓮は食堂の主人に、もう一品頼んだ。

 上海の朝が、港の向こうに広がっていた。

 北京まで、船で二日かかる。

 蓮は母の手帳を開いた。

 北京のページに、一か所だけ母の筆跡があった。地名ではなく、人の名前だった。

 蓮はその名前を閉じた。

 船が出るまで、まだ時間があった。

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