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四川の焔  作者: 水前寺鯉太郎
大陸遠征・八大料理試練編(上海編)

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第27話:沸騰する魔湖 ――絲王の吐息と、油の監獄――

月が、死んでいた。

 陽澄湖の水面に映るはずの月影は、立ち上る水蒸気に搔き消され、代わりに赤みがかった靄だけが湖一面を覆っていた。上海蟹の聖地。秋になれば漁師の篝火と蟹籠が並ぶはずのその湖が、今夜は別の何かの「鍋」になろうとしていた。

「……アツイ。蓮、あのひと、身体の中から『火山の匂い』がする」

 リンが鼻を両手で塞いだまま、声を絞り出す。その顔は蒼白だった。彼女の嗅覚は、人間の感覚器官が拾えないものを拾う。今それが捉えているのは、湖の中央に停泊した楼閣船の船首に立つ女――東の『絲王』、の体内から放たれる、溶岩に似た熱の臭気だった。

「血液が……沸いている」

 呟いた蓮の喉に、熱い空気が流れ込んできた。肺が焼けるような感覚。唇が乾く。瞬きをするたびに、目の表面が熱で痛んだ。

 紫は動じない。

 微笑んでいた。

 その唇の端が持ち上がったと思った瞬間、彼女は傍らに置かれた大瓶を持ち上げ、なみなみと注がれた落花生油を、まるで水を飲むように口に含んだ。

「……何を」

 健が息を呑んだ。

 答えは、一秒後に来た。

 紫の喉元が、内側から光った。

 赤ではない。白だった。炉心のような、見てはいけない種類の白さ。そして次の瞬間、彼女の口から放たれたのは――油だった。超高温まで加熱された落花生油が、奔流となって湖面へ降り注いだ。

 轟音が、鼓膜を割った。

 油と冷たい湖水が衝突した瞬間の爆発音は、雷でも花火でもなく、もっと原始的な何かの音だった。蓮は反射的に腕で顔を庇ったが、熱い飛沫が首筋に当たり、思わず声が出た。

 水蒸気が一気に膨れ上がる。視界が白く染まった。油の焦げた匂い、水の蒸発する青臭い匂い、湖底から撹拌された泥の匂いが混ざり合い、鼻の奥に張り付いた。甲板の板が、熱で軋んでいた。

「馬鹿な……!」

 健が船の縁を両手で掴み、視界の白の向こうを睨んでいた。湖面が変わっていた。透明だったはずの水が、白濁した油と混合し、ぼこぼこと気泡を吐き続けている。陽澄湖全体が、巨大な揚げ物鍋に変貌しようとしていた。

「……そう。この湖を、私の竈にする」

 紫の声は静かだった。熱狂も高揚もなく、ただ事実を述べるような声音で、彼女は続けた。

「逃げ場はない。熱は均一に広がる。蟹は浮いてくる。私の鋼糸が、それを刈り取る」

 指先が動いた。

 数千の鋼糸が月光の代わりに湖面を走り、熱に浮かされて水面に出てきた上海蟹を、絡め取り、引き上げ始めた。蟹は足を動かしていた。まだ生きていた。それでも構わず、鋼糸は蟹を沸騰した油水の境界面に叩きつけた。

 ジュッ、という音が、蓮の胃に刺さった。

「……やめろ」

 声が出ていた。

 自分でも意識しない前に、足が動いていた。

「健。船を出してくれ」

「あ?」

「湖の中心。一番熱い場所に突っ込む」

 しばらく間があった。

「……正気か」

「正気だ」

 健は蓮の目を見た。それから舌打ちをして、舵を握った。

 船が動き出す。熱風が正面から押し寄せてくる。蓮は目を細め、腰の鞘に手を当てた。右手に五本目の刃、『水龍すいりゅう』。左手に六本目の刃、『空蝉うつせみ』。抜き放った二本を、胸の前で交差させた。

 わかるはずだった。

 母の包丁は、いつも「見せてくれた」。水龍は水の流れを読む刃。空蝉は熱の振動を受け流す刃。この二つが交差する点に、何かあるはずだった。

 だが。

 熱い。

 ただ、熱かった。

 油混じりの蒸気が肌を撫で、集中を砕こうとする。刃が小刻みに震えているのは、熱気の振動に引っ張られているのか、自分の手が震えているのか、もう判別がつかなかった。

「蓮」

 リンの声だった。

「……今、匂いが、少し変わった。湖の中に、一か所だけ……冷たいところがある」

「どこだ」

「……真正面。紫の船の、少し左」

 それだけで十分だった。

 蓮は刃を動かした。

 説明できない動きだった。水龍が水面の流れを引き込み、空蝉がその流れの中の熱を散らす。二本の刃が生み出す「隙間」に、冷気が集まり始めた。沸騰した湖の中に、針の穴ほどの「冷たい筋」が生まれた。

 一本の清流。

 煮え立つ地獄の中の、一条の水脈。

(……視えた)

 油と水の境界が、刃の先に浮かび上がる。ここに刻めば、熱の循環が断ち切れる。紫が作り出したこの「鍋」は、熱の対流によって均一な温度を保っている。その対流の要を断てば――

「ひっひっひ」

 紫が笑った。

 初めて感情が混じった笑い声だった。

「面白い。久しぶりに、面白いと思った」

 彼女の喉元が、再び発光し始める。

「だが足りない。お前の冷たさは、私の熱に届かない。……私はずっと、熱の中にしかいられなかった。だからこそ、誰よりも熱を知っている」

 一瞬だけ、その顔に何かが過ぎった。

 悲しみでも怒りでもない、もっと古い何かが。

 蓮はそれを見た。見て、刃を構え直した。

「健」

「なんだ」

「俺が対流の要を断つ。その瞬間、お前の粥で蟹を庇ってくれ。全部は無理でいい。一匹でも、この湖から生きて返す」

 健は黙っていた。

 それから、鍋を担いだ。

「……一匹じゃ足りねえな。もう少し頑張ってみるか」

 青と黒の閃光が、沸騰する陽澄湖の夜を切り裂いた。

 少年の「マブイ」が、絲王の「熱」に、真っ向から挑む。

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