第25話:魔都の晩餐 ―黄金の上海蟹と、見えない糸―
上海に着いたのは夕方だった。
港から街に入ると、広州とは空気が違った。広州は湿った重さがあった。上海は乾いていた。高い建物が多かった。路地が狭かった。
リンが立ち止まった。
「……変な匂い。細い。糸みたいな匂いが街中にある」
「糸の匂い?」
「鉄の匂いがする。でも細すぎて、どこから来てるかわからない」
蓮は街を見た。
人通りが多かった。上海蟹のシーズンで、飲食店に客が並んでいた。賑やかに見えた。しかし健が言った。
「……賑やかなのに、声が少ない」
「どういうことだ」
「人が多いのに、会話の声が少ない。みんな食べてるだけで、話していない」
老舗の蟹専門店に入った。
満席だった。上海蟹の姿蒸しが各テーブルに並んでいた。
蓮は周囲を見た。
健が言った通りだった。客が無言で蟹を食べていた。蟹を剥く動作が、全員同じだった。同じ手順で、同じ速度で、身を取り出していた。
蓮は蟹を一杯頼んだ。
出てきた蟹を手に取った。
重さが違った。
上海蟹は、足の付け根の部分に重みが集中する。しかしこの蟹は、重さが均一すぎた。生きていた時の不均一な重みがなかった。
殻を触った。
表面が滑らかすぎた。蒸した後の蟹の殻は、少し粗くなるはずだった。
「リン、この蟹の匂いは」
リンが近づいた。鼻を動かした。
「蟹の匂いはある。でも……鉄の匂いも混じってる。細い鉄の匂い」
健が蟹を見た。
「足の付け根を触ってみろ」
蓮が触った。細い何かがあった。硬かった。蟹の骨格ではない硬さだった。
蓮は空蝉を出した。
蟹の足の付け根に、薄い刃を当てた。触覚で探った。
何かが刃に当たった。蟹の組織ではない感触だった。
刃を動かした。
殻の隙間から、細いものが出てきた。
銀色だった。髪の毛より細かった。
健が手に取った。
「……鋼糸だ。蟹の関節に通してある」
「神経に沿って入れてあるのか」
「そう見える。これがあると、食べた時の感触が変わる。蟹の身の弾力が、人工的にコントロールされる」
リンが周囲の客を見た。
「みんな、この糸入りの蟹を食べてる。だから動きが同じになってる。感触が統一されてるから、反応が統一される」
店の奥から女が来た。
チャイナドレスを着ていた。指に銀の指抜きをしていた。蓮たちを見て、立ち止まった。
「見つかったか」
驚いた様子はなかった。
「縫という。絲王様の側近だ」
「この蟹に糸を仕込んだのか」
「そうだ」
縫は指抜きを見た。
「私はもともと刺繍職人だった。0.1ミリの糸を扱う仕事だ。料理に転用するのは難しくなかった。……糸の扱いで、料理人の神経を操ることもできる」
「なぜそこまでする」
「絲王様が求めるから。……この街の料理を、完全に均一にする。誰が作っても同じ味。誰が食べても同じ感触。それが絲王様の目指す『完璧な食』だ」
「それは料理ではない」
「料理かどうかは、食べる側が決める」
縫が指を動かした。
厨房から料理人が出てきた。三人いた。手に細い刀を持っていた。動きが滑らかだった。しかし目の焦点がなかった。
「この人たちも糸で操られているのか」とリンが言った。
「神経に直接触れる糸を使うと、動きを誘導できる。本人の意識は残っているが、手の動きは私が決める」
健が蓮を見た。
蓮より先に健が動いた。
厨房の方向に向かって、コンロの火をつけた。鍋を置いた。
「何をするつもりだ」と縫が言った。
「蟹を正しく使う」と健が答えた。「糸を取り除いた蟹が、どういう味になるか見せる」
縫は少し間を置いた。
「糸を取り除くことはできない。神経と一体化している」
「蓮ならできる」と健が言った。
蓮は輪廻を取り出した。
広州で使ってから、触れていなかった。軽かった。透明な刃だった。
蟹を持った。
どこから始めるか、少し考えた。足の付け根に糸がある。神経に沿って入っている。神経を傷めずに糸だけを取り除くには、糸と神経の境界を刃で辿る必要があった。
細かい作業だった。
しかし輪廻の刃は薄かった。0.1ミリの糸に、刃を当てることができた。
「リン、糸の場所を教えてくれ。鉄の匂いを追ってくれ」
「わかった」
リンが蟹の匂いを嗅ぎながら、指で場所を示した。
「ここ。次はここ。少し右」
蓮は刃を動かした。
糸が一本ずつ、蟹の組織から離れていった。
糸を取り除いた蟹を、健が蒸し直した。
短い時間だった。蒸気が上がった。
香りが変わった。
糸が入っていた時とは違う香りだった。均一ではなかった。蟹の部位によって、香りが少し違った。足と胴体と、みそと。それぞれが別々に香った。
縫が鼻を動かした。
その顔が、少し変わった。
「……刺繍職人の頃に、師匠が昼に食べていた蟹の匂いに似ている」
独り言のような声だった。
「その師匠は」と蓮が聞いた。
「死んだ。絲王様に仕える前だった」
縫はそれ以上言わなかった。
しかし指抜きを、少しだけ外した。
「今日のところは引く。……絲王様に報告する。お前たちが上海に来たことを」
縫は厨房の方に向かった。操られていた料理人たちが、糸が緩んだように動きを止めた。目の焦点が戻った。
縫は振り返らなかった。
「陽澄湖に来い。絲王様が待っている」
扉が閉まった。
店の中が静かになった。
健が蒸し上がった蟹を皿に置いた。
「食うか」
「食う」と蓮は言った。
三人で蟹を食べた。
糸を取り除いた蟹は、部位によって味が違った。足の先と付け根と、みそと、それぞれが別の旨みを持っていた。
リンが言った。
「これが本当の上海蟹の味?」
「そうだと思う」と健が言った。
「おいしい」
窓の外に上海の夜が広がっていた。
陽澄湖。絲王。
蓮は蟹の殻を置いた。




