第24話:不殺の神刃 ―七の刃『輪廻』と、命の胎動―
包丁袋の最奥に、触れたことのない場所があった。
七本目。
名前だけが袋の外側に刻んであった。母の手帳には何も書いていなかった。
蓮は鞘を取り出した。
軽かった。他の六本よりずっと軽かった。抜くと、刃が透明だった。色がなかった。刃があることはわかったが、光を反射していなかった。
輪廻。
蓮はその名前を声に出さなかった。ただ手に持った。
コンロの火がまだ黒かった。
宗の毒が空気を通じて火にも届いていた。黒い炎では食材に正常な熱が入らない。六本を使っても、毒の根元に届かなかった。
蓮は草魚を取り出した。
広州の清流で育った魚だった。生きていた。まな板の上に置いた。
七本目を構えた。
どう使うかわからなかった。母の手帳に書いていない包丁は初めてだった。しかし手の中で、その包丁の重さが変わった。軽かったものが、ちょうどいい重さになった。
蓮は魚に刃を当てた。
音がしなかった。
刃が魚を通り抜けた。感触があった。切れている感触があった。しかし音がなかった。
まな板の上を確認した。
血がなかった。
魚は三枚に下ろされていた。薄造りに切り分けられていた。しかしまな板に液体が一滴も出ていなかった。切り身の断面が、乾いていた。
健が横から見ていた。
「……血が出ない」
「そうだ」
「なぜ」
「わからない」
リンが鼻を動かした。
「……この魚、まだ匂いがする。切られた後も、生きてた時の匂いがする」
健が粥の鍋を火にかけた。
しらゆきがゆのベースだった。昨日の粥と同じ作り方だった。健の父が毎朝作っていた粥の技術だった。
水が温まり始めた。
蓮は切り身を手に持った。
まだ温かかった。切られた後も、食材が持っていた熱が残っていた。
粥が沸騰した。
切り身を入れた。
粥の表面が静かに動いた。切り身が沈んでいった。
香りが来た。
旨みの香りだった。しかしこれまでの粥とは違う方向の香りだった。魚の香りが鮮明だった。調理された後の香りではなく、川の水と魚が持っていた生の香りが、熱を通してそのまま出てきていた。
リンが目を開けた。
「……毒の匂いが薄くなってる」
「粥から」
「粥から来てる香りが、毒を押しのけてる。……甘い死の匂いが、うすくなってく」
観客の一人が顔を上げた。
虚ろだった目が、少し戻った。隣の人間を見た。自分がどこにいるかを確認するような動きだった。
健が蓮を見た。
蓮はうなずいた。
椀に粥を注いだ。審判の長老の前に置いた。
長老が椀を手に取った。一口飲んだ。
長い沈黙があった。
「……温かい」
それだけだった。
それから長老はもう一口飲んだ。宗の料理には手をつけなかった。
宗は動かなかった。
調理台の前に立って、蓮の粥を見ていた。
蓮は宗に椀を持っていった。
「飲んでみてくれ」
宗は受け取らなかった。
「お前の粥が、私の毒を押し流すか確かめたい。……私が飲むと、それで終わりになる」
「そうかもしれない」
宗はしばらく蓮を見ていた。
「血が出なかった理由を、お前はわかっているか」
「わからない」
「私にはわかる。お前はその魚を、殺そうとして切らなかった。食材に繋ごうとして切った。その違いが、刃に出た」
宗は椀を受け取った。
一口飲んだ。
スタジアムが静かだった。
宗は椀を置いた。
「お前の勝ちだ」
崩れなかった。膝もつかなかった。
「総帥は私とは違う。……覚悟しておけ」
それだけ言って、宗は調理台から離れた。
観客が戻り始めた。
声が出始めた。自分の名前を呼ばれて答える声、隣の人間に話しかける声。スタジアムが少しずつ普通の場所になっていった。
健が蓮の横に来た。
粥の鍋を見ていた。
「父さんの粥が、役に立った」
「役に立った」
「……汚名が、少し晴れた気がする」
蓮は何も言わなかった。
健が続けた。
「まだ全部じゃない。宗が認めただけで、街の人たちはまだ知らない。でも、一歩は進んだ」
「そうだ」
リンが二人の間に来た。
「次はどこに行くの」
「上海だ」とリンに言った。「東の絲王がいる」
「また強い人がいるの?」
「そうらしい」
「……蓮の料理、また食べられる?」
「腹が減ったら作る」
リンは少し笑った。
広州の朝が来ていた。
スタジアムの外に光が入ってきた。
蓮は七本目の包丁を鞘に戻した。
まだ使い方を全部はわかっていなかった。しかし手に合う重さはわかった。
三人でスタジアムを出た。




