表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
四川の焔  作者: 水前寺鯉太郎
大陸遠征・八大料理試練編(広州編)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

24/52

第24話:不殺の神刃 ―七の刃『輪廻』と、命の胎動―

包丁袋の最奥に、触れたことのない場所があった。

 七本目。

 名前だけが袋の外側に刻んであった。母の手帳には何も書いていなかった。

 蓮は鞘を取り出した。

 軽かった。他の六本よりずっと軽かった。抜くと、刃が透明だった。色がなかった。刃があることはわかったが、光を反射していなかった。

 輪廻。

 蓮はその名前を声に出さなかった。ただ手に持った。

 コンロの火がまだ黒かった。

 宗の毒が空気を通じて火にも届いていた。黒い炎では食材に正常な熱が入らない。六本を使っても、毒の根元に届かなかった。

 蓮は草魚を取り出した。

 広州の清流で育った魚だった。生きていた。まな板の上に置いた。

 七本目を構えた。

 どう使うかわからなかった。母の手帳に書いていない包丁は初めてだった。しかし手の中で、その包丁の重さが変わった。軽かったものが、ちょうどいい重さになった。

 蓮は魚に刃を当てた。

 音がしなかった。

 刃が魚を通り抜けた。感触があった。切れている感触があった。しかし音がなかった。

 まな板の上を確認した。

 血がなかった。

 魚は三枚に下ろされていた。薄造りに切り分けられていた。しかしまな板に液体が一滴も出ていなかった。切り身の断面が、乾いていた。

 健が横から見ていた。

「……血が出ない」

「そうだ」

「なぜ」

「わからない」

 リンが鼻を動かした。

「……この魚、まだ匂いがする。切られた後も、生きてた時の匂いがする」

 健が粥の鍋を火にかけた。

 しらゆきがゆのベースだった。昨日の粥と同じ作り方だった。健の父が毎朝作っていた粥の技術だった。

 水が温まり始めた。

 蓮は切り身を手に持った。

 まだ温かかった。切られた後も、食材が持っていた熱が残っていた。

 粥が沸騰した。

 切り身を入れた。

 粥の表面が静かに動いた。切り身が沈んでいった。

 香りが来た。

 旨みの香りだった。しかしこれまでの粥とは違う方向の香りだった。魚の香りが鮮明だった。調理された後の香りではなく、川の水と魚が持っていた生の香りが、熱を通してそのまま出てきていた。

 リンが目を開けた。

「……毒の匂いが薄くなってる」

「粥から」

「粥から来てる香りが、毒を押しのけてる。……甘い死の匂いが、うすくなってく」

 観客の一人が顔を上げた。

 虚ろだった目が、少し戻った。隣の人間を見た。自分がどこにいるかを確認するような動きだった。

 健が蓮を見た。

 蓮はうなずいた。

 椀に粥を注いだ。審判の長老の前に置いた。

 長老が椀を手に取った。一口飲んだ。

 長い沈黙があった。

「……温かい」

 それだけだった。

 それから長老はもう一口飲んだ。宗の料理には手をつけなかった。

 宗は動かなかった。

 調理台の前に立って、蓮の粥を見ていた。

 蓮は宗に椀を持っていった。

「飲んでみてくれ」

 宗は受け取らなかった。

「お前の粥が、私の毒を押し流すか確かめたい。……私が飲むと、それで終わりになる」

「そうかもしれない」

 宗はしばらく蓮を見ていた。

「血が出なかった理由を、お前はわかっているか」

「わからない」

「私にはわかる。お前はその魚を、殺そうとして切らなかった。食材に繋ごうとして切った。その違いが、刃に出た」

 宗は椀を受け取った。

 一口飲んだ。

 スタジアムが静かだった。

 宗は椀を置いた。

「お前の勝ちだ」

 崩れなかった。膝もつかなかった。

「総帥は私とは違う。……覚悟しておけ」

 それだけ言って、宗は調理台から離れた。

 観客が戻り始めた。

 声が出始めた。自分の名前を呼ばれて答える声、隣の人間に話しかける声。スタジアムが少しずつ普通の場所になっていった。

 健が蓮の横に来た。

 粥の鍋を見ていた。

「父さんの粥が、役に立った」

「役に立った」

「……汚名が、少し晴れた気がする」

 蓮は何も言わなかった。

 健が続けた。

「まだ全部じゃない。宗が認めただけで、街の人たちはまだ知らない。でも、一歩は進んだ」

「そうだ」

 リンが二人の間に来た。

「次はどこに行くの」

「上海だ」とリンに言った。「東の絲王がいる」

「また強い人がいるの?」

「そうらしい」

「……蓮の料理、また食べられる?」

「腹が減ったら作る」

 リンは少し笑った。

 広州の朝が来ていた。

 スタジアムの外に光が入ってきた。

 蓮は七本目の包丁を鞘に戻した。

 まだ使い方を全部はわかっていなかった。しかし手に合う重さはわかった。

 三人でスタジアムを出た。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ