第21話:孤高の覇王 ―国士無双のスープと、二つの血の共鳴―
健が来たのは、夜明け前だった。
宿の前に立っていた。昨日と同じ服だった。眠っていないように見えた。
「出る」
それだけだった。
「大会にか」
「宗が来るなら、俺も関係する。……親父の名誉を取り戻すには、あそこしかない」
蓮はうなずいた。
「一緒に来い」
広州スタジアムは大きかった。
朝から人が集まっていた。観客席が埋まっていた。中央に調理台が二つ並んでいた。
審判席に宗が座っていた。
蓮は宗を見た。昨日、貯水施設の前で会った時と同じ笑顔だった。何も変わっていなかった。街の水を毒で汚したことも、人々を眠らせたことも、その顔には何も出ていなかった。
健が隣で宗を見ていた。
「……あれが宗か」
「そうだ」
「親父と勝負した男だ」
健の声は平坦だった。しかし手が少し固くなっていた。
銅鑼が鳴った。
進行役が題を宣告した。
「第一戦。題は『国士無双』。この一椀に、天下に並ぶ者のない覇気を込めよ」
観客がざわめいた。
健が蓮に言った。
「国士無双って、世界に一人しかいない傑物ってことだ。……俺には関係ない言葉だと思っていた」
「なぜ」
「どっちの国にも完全には属せない。日本でも中国でも、どこか中途半端だった」
蓮は健を見た。
「俺も同じだ」
「でも、お前は迷ってないように見える」
「迷っている。ただ、迷うより先にやることがある」
健は少し間を置いた。
「……やってみる」
宗が先に動いた。
燕の巣を取り出した。それ自体は高級食材だった。しかしそこに加えていくものが違った。複数の液体を順番に加えていった。スープが赤みを帯びていった。立ち昇る湯気に、甘い香りが混じり始めた。
観客の一人が顔を上げた。恍惚とした表情になった。隣の客も同じになった。
リンが蓮の袖を引いた。
「毒が混じってる。雲霧楼の茶と同じ系統。でも濃い」
「わかった。俺たちは早く出す」
健が米を出した。
水を汲んだ。真珠江の水だった。昨日浄化した水だった。
蓮は水龍を出した。
水に刃を入れた。流れを確かめた。毒の気配がないことを確認した。きれいだった。
健が米を研ぎ始めた。蓮はその横で、日本から持ってきた真昆布を水に入れた。昆布が水に溶け出していく。透明な出汁が生まれ始めた。
「何を入れた」とリンが聞いた。
「昆布。日本の出汁の素材だ」
健がそれを見ていた。
「出汁か。広州の湯とは逆の方向だな」
「そうだ。湯は足していく。出汁は引き算だ。その二つを合わせる」
「合わさるのか」
「わからない。やってみないと」
健が粥の下地を作り始めた。
米を鍋に入れて、水を注いだ。昆布の出汁を加えた。金華ハムの骨を入れた。火をつけた。
蓮は火の調整をした。
昨日と同じやり方だった。氷心を鍋の縁に当てて、対流を整えた。米粒が壊れないように、鍋の中の動きを静かに保った。
健が蓮の手元を見ていた。
「その包丁、冷たいのか」
「刃が冷える。縁の温度が下がると、対流が穏やかになる」
「親父は竹の棒でやっていた。同じ理屈だ」
「あんたの父親はそれを知っていた」
健は少し黙った。
「……知ってたんだな」
一時間後、スープの色が変わってきた。
白濁から、少しずつ透明に近づいていった。昆布と金華ハムの旨みが混ざり合って、単独では出ない香りが生まれてきた。
リンが鼻を動かした。
「……海の匂いと、山の匂いが混じってる。でも喧嘩してない」
「もう少しかかる」とリンに言った。
宗のスープが完成した。
赤みがかった、強い香りのスープだった。観客の一部が、その香りに引き寄せられていた。
審判の長老が宗のスープを飲んだ。表情が変わった。圧倒されている顔だった。
蓮は自分の鍋を見た。
透明になっていた。
椀に注いだ。
見た目は清湯だった。色がなかった。しかし香りがあった。昆布の香りと金華ハムの香りが、別々に来てから一つになる香りだった。
審判の長老の前に置いた。
長老が飲んだ。
しばらく動かなかった。
それから宗のスープを見た。蓮の清湯を見た。
「こちらが上だ」
静かな声だった。
宗は表情を変えなかった。
審判席から立ち上がって、蓮の椀を手に取った。一口飲んだ。
少し間があった。
「……日本の水と、広州の水が、同じ椀に入っている」
感想のような言い方だった。驚きでも称賛でもなかった。
「一戦目はお前たちの勝ちだ」
宗は椀を置いた。
「次は別の話をする」
宗の目が、蓮の後ろを見た。リンがいる方向だった。
リンが蓮の袖を引いた。
「見られてる」
「わかってる」
健が蓮に小声で言った。
「次が問題だな」
「そうだ」
スタジアムの空気が、少し変わった。




