第20話:白き濁流 ―復讐の粥と、孤独なハーフの少年―
陳から教えられた場所は、真珠江から少し入った路地にあった。
看板がなかった。古い長屋だった。早朝だけ湯気が出るという話だったが、昼過ぎに着いた時には、厨房の奥でまだ火が使われていた。
引き戸を開けると、石臼の音がした。
少年がいた。蓮と同じくらいの年齢だった。石臼を回しながら、蓮の方を見た。
「誰だ」
「蓮。この街の水のことを調べている。陳という料理人から、ここを教えてもらった」
「陳さんが」
「この店の粥が、広州の水を一番よく使った料理だと言っていた」
少年は石臼を止めた。
「……健だ。ここは親父の店だった」
過去形だった。蓮はその言葉を聞いて、何も言わなかった。
リンが入ってきた。
少年——健を見た。鼻を少し動かした。蓮に小声で言った。
「苦い匂いがする。悲しいのと、何か自分を責めてる匂いが混じってる」
蓮はリンに小さくうなずいた。
健は二人を見ていた。
「粥を教えに来たわけじゃないだろ。何が聞きたい」
「あんたの父親のことを聞いてもいいか」
健の手が止まった。
「……なんで」
「宗という人物と関係があると聞いた」
しばらく間があった。
健は石臼を端に置いた。厨房の椅子に座った。蓮とリンも座った。
「……親父が宗に料理勝負を申し込まれたのは、三年前だ。うちの粥が、広州で一番だという評判が広まってた頃だった。宗は言った。どちらが真に人を癒やすか、勝負しようと」
「その結果が」
「親父が負けた。負け方が最悪だった。親父の粥に、宗が毒を仕込んだ。客が次々と倒れた。親父は毒料理人と呼ばれた。……それから半年後に、親父は消えた」
消えた、という言葉だった。死んだとは言わなかった。
「体は見つかっていないのか」
「ない。麒麟会が関係しているという話は聞いた。でも確認できていない」
リンが小さく声を出した。
二人が見ると、リンは俯いていた。
「……似てる。あたしの父親と」
健がリンを見た。
「あんたも」
「麒麟会の実験に使われた。今どこにいるかわからない」
厨房が静かになった。
蓮は立ち上がった。
「粥を作っていいか」
「なんで」
「あんたの父親がどういう粥を作っていたか、知りたい。材料と道具を貸してくれ」
健は少し考えた。
「……材料は残ってる。使っていいが、真珠江の水は今は使えない。毒が混じってる」
「昨日、貯水施設を浄化した。今日の朝から、上流の水はきれいになっているはずだ」
「本当か」
「リン、確かめてもらえるか」
リンが外に出た。しばらくして戻ってきた。
「きれいになってる。川の匂いが戻ってた」
健は立ち上がって、自分で水を汲みに行った。
米を研いだ。
広州の粥は、米を長時間かけて炊いて、粒が溶けるまで煮る。その過程で水と米が一体になる。水の質が粥の味に直接出る。
蓮は水龍を出した。
水に刃を入れた。昨日の貯水施設で感じた、流れを読む感触を確かめた。水の中に残った毒の気配がないかを確認した。きれいだった。
米を鍋に入れた。水を注いだ。
火をつけた。
最初は強火だった。沸騰させてから、弱火に落とした。ここからが時間のかかる作業だった。
健が横で見ていた。
「何時間かける気だ」
「二時間以上かける」
「親父も同じだった」
蓮は火の調整を続けた。
氷心を出した。鍋の縁に当てた。沸騰した時に米粒が暴れて壊れないように、対流の方向を整えた。冷たい刃が鍋の縁に当たることで、縁の温度が少し下がった。中心部の対流が弱まった。米粒が静かに動き始めた。
健が見ていた。
「その包丁で何をしている」
「米が壊れないように、流れを整えている」
「……親父もそれに似たことをやっていた。包丁ではなく、竹の棒で鍋の縁を冷やしていた」
「そうか」
「同じ理屈か」
「多分」
二時間後、鍋を覗いた。
白かった。米の粒が溶けて、水と一体になっていた。表面が静かに動いていた。
健が鍋を見た。何も言わなかった。
蓮は椀に注いだ。健の前に置いた。
「食べてみてくれ」
健は椀を手に取った。一口飲んだ。
しばらく動かなかった。
「……広州の水の匂いだ」
声が変わっていた。
「親父が朝に汲んでいた水の匂い。ずっと嗅いでいなかった」
健の目が、少し赤くなった。泣いてはいなかった。
「親父の粥は、こんな味だったのか」
「あんたが作れば、もっとわかるはずだ。材料と道具はわかっている。火の時間もわかった」
健は椀を置いた。
長い沈黙があった。
「……黒麒麟大会に出るのか、お前」
「出る」
「宗が来るなら、俺も関係する話だ」
「手伝ってくれるか」
健はすぐには答えなかった。
椀を見た。それから蓮を見た。
「考える。……今夜、また来い」
蓮はうなずいた。
厨房の火は、まだついていた。




