第2話:黄金のスープに沈む、禁忌の魔睡花(ますいか)
横浜中華街の朝は早い。
仕入れのトラックが路地を抜け、開店前の店先では主人たちが無言で店を磨く。その慌ただしさの中に、『翠龍門』だけがまだ眠っていた。蓮が砥石の前に座ったのは、夜明け前だった。
眠れなかった。
母の遺影の前で包丁を研いでいると、不思議と頭が空になった。鋼と砥石が擦れる感触だけを手のひらに感じながら、一定のリズムを繰り返す。それだけが、今の蓮にできる唯一の「続けること」だった。
乾物屋の主人が飛び込んできたのは、七時を過ぎた頃だった。
「蓮坊……大変だ。朴さんが」
男の顔が、蓮の知っている顔ではなかった。
蓮は砥石の上に包丁を置いた。
朴。
萬福楼の主人。母・薫の古くからの友で、この街で「薬膳の至宝」と呼ばれた厨師。蓮が子供の頃、母に連れられてよく萬福楼に行った。朴は蓮を見るといつも、「また大きくなったな」と言いながら、注文もしていないのに小皿を出してきた。あの店の厨房の匂いは、翠龍門とは違う、漢方薬と肉汁と乾物が混ざった独特の香りがした。
母が倒れた後も、朴は週に一度、翠龍門に顔を出してくれた。何を言うでもなく、仕入れの余りだと言って食材を置いていった。
萬福楼の前に、警察の車が停まっていた。
蓮は走る足を、入口の前で止めた。
ガラス越しに、厨房の奥が見えた。
白いコックコートが、床に横たわっていた。
蓮は、そのまま数秒、動けなかった。
厨房に入ると、若い刑事が振り返った。
「関係者か。……外傷なし。心不全による急死と思われます」
事務的な声だった。手帳を閉じる音が厨房に響いた。
蓮はコンロを見た。とろ火にかけられたままの銀の鍋から、白い湯気が細く立ち上っている。近づくと、香りが来た。金華ハムのコク。丸鶏の深み。フカヒレ特有の滑らかで清潔な旨み。朴が何時間もかけて引いた清湯の、本物の香りだった。
だが、その奥に、何かが混じっていた。
甘ったるく、脳の奥を直接なぞるような、不自然な芳香。
「……待ってください。これは殺人です」
刑事が振り返った。
「証拠は、この鍋の中にあります」
蓮は制止を振り切り、コンロの前に立った。マイ蓮華でスープを少量掬い、口に含む。
一瞬、圧倒的な旨みが来た。それは本物だった。朴が丹念に作った、本物のフカヒレスープだった。だがその直後、舌の奥の奥で、痺れが来た。山椒や生姜の痺れではない。もっと深い場所を、直接触れようとするような感触。
「魔睡花です。それも、純粋抽出液」
蓮は鍋の底を静かに混ぜた。スープの表面に、微細な黄金の粒子が浮かび上がった。
「フカヒレには、それ自体に味がない。だからこそ、時間をかけて引いた湯を繊維の中に吸い込ませる。……犯人はその性質を使った。朴さんが仕上げたスープに、最後の最後で魔睡花を混入させた。この濃度は、味覚を狂わせるレベルじゃない。中枢神経を直撃して、心臓を止める量だ」
刑事たちが絶句した。
そのとき、入口から乾いた拍手が聞こえた。
白いスーツの男だった。
胸元の紅い麒麟の紋章を見た瞬間、蓮の喉が、固くなった。
「弱冠十四歳で、我が組織の聖遺物を見抜くとは」
男は周と名乗った。梁山麒麟会の監査役。
「朴先生は頑固な方だった。中華街のレシピをすべて麒麟会の管理下に置く。それだけのことを、最後まで拒んだ」
「……それで殺したのか」
「殺してはいない。彼を殺したのは彼自身の潔癖さだ。魔睡花は、清らかな心を持つ者ほど反動が大きい。彼は自分で作った美しいスープを、自分の手で飲んだ」
周は笑った。
「君も同じ道を歩むつもりかい、蓮くん。汚されたスープを作り直してみるかい? 魔睡花の毒を消して、なおかつこれ以上の味を作り出す。そんなことは不可能だ」
蓮は答えなかった。
代わりに、厨房の棚を見た。
朴の棚は整然としていた。漢方の素材が種類ごとに分けられ、それぞれに朴の筆跡でラベルが貼ってある。蓮は一つの小瓶を手に取った。以前、朴が翠龍門に持ってきて、「これ、いつか使ってみなさい」と置いていったものと同じ瓶だった。
発酵黒胡椒。
朴が独自に作り上げた、長期発酵させた黒胡椒の抽出液。「味覚の扉を開く鍵」と朴は笑っていた。魔睡花が人の感覚を閉じるなら、これは逆に感覚を開く。朴はそれを知った上で、この瓶を自分の棚に入れていたのかもしれない。
蓮はコンロに火をつけた。
鍋が温まるまでの間、蓮は朴の道具を手に取った。
長年使い込まれた中華鍋は、柄の部分が飴色に変わっていた。朴の手の形に、馴染んでいた。
蓮はしばらく、その鍋を持ったまま動かなかった。
それから、鍋を火の上に置いた。
予備のフカヒレを手に取る。高温の油で表面を瞬時に焼き固める。フカヒレの繊維が引き締まり、内部の余分な水分が押し出される。それと同時に、魔睡花の成分が熱で揮発し、油の中に移っていく。油を捨てる。鍋を洗う。
新しい清湯を注ぐ。
母から教わった引き方で、朴の素材を使って引いた湯。金華ハムの旨みが透き通った琥珀色のスープが、鍋の中でゆっくりと動き始める。フカヒレを戻し、弱火でゆっくりと含ませていく。
仕上げに、発酵黒胡椒を数滴。
香りが変わった。深みが増した。魔睡花の甘ったるい残滓を、発酵の複雑な香りが覆い隠すのではなく、押し流すように消えていった。
「食え」
蓮が差し出した器の中で、黄金色のスープが揺れていた。
周は鼻で笑いながら、しかしその香りに引き寄せられるように蓮華を伸ばした。一口、口に含んだ。
周の顔が、止まった。
笑みが消えた。眉間の皺も消えた。表情が、どこかへ落ちていくような顔になった。
ただの旨みではなかった。フカヒレの繊維の一本一本に染み込んだ清湯の深みが、舌の上でゆっくりと解けていく。その奥から発酵黒胡椒が味覚の扉を開き、これまで閉じられていた感覚の層が一枚ずつ剥がれていく。
周の額に、汗が滲んだ。
「……魔睡花の洗脳を」
「上書きしたんじゃない。洗い流しただけだ。本物の味は、毒を必要としない」
周はしばらく、その場に膝をついていた。
それから立ち上がり、乱れた襟元を直した。表情が、戻っていた。
「……面白い少年だ」
笑っていた。崩れてはいなかった。
「だが、お前はまだ麒麟会の入口しか見ていない。五虎星の誰かと会えば、その時に改めて話しましょう」
周は厨房を出ていった。足音が遠ざかり、静かになった。
蓮は、朴の遺体の前に器を置いた。
湯気が細く立ち上り、萬福楼の厨房に、朴の作っていたはずの香りが満ちた。
「朴さん。……ちゃんと、届いてますか」
返事はなかった。
蓮は立ち上がり、朴の棚を最後にもう一度見た。整然と並んだ瓶と、それぞれに貼られた朴の筆跡のラベル。几帳面で、丁寧で、料理人としての朴そのものだった。
蓮は翠龍門に向かって歩き始めた。
朝の中華街は、もう動き始めていた。仕入れの声、鍋の音、どこかの店から流れてくる油の香り。華やかな表通りの下で、何かが動いている。
蓮の背の黒包丁が、朝日を受けた。




