第19話:解毒の聖刃 ―五本目の水龍と、絶望の真珠江(しんじゅこう)―
茶館を出ると、街の様子が変わっていた。
雲霧楼の中では気づかなかったが、外に出ると空気が違った。甘い香りではなく、もっと重い何かが漂っていた。川沿いの道を歩いていた人々が、立ち止まっていた。座り込んでいる人もいた。
「蓮」
リンが立ち止まった。鼻を押さえていた。
「川から来てる。真珠江。毒が流れ込んでる」
蓮は川の方に向かった。
真珠江の岸に出ると、水の色が変わっていた。
普段の川の色ではなかった。表面に薄い膜が張っているように見えた。川沿いの井戸から水を汲もうとしていた老人が、水を口に運んだ瞬間にその場に座り込んだ。
リンが走り寄って老人を支えた。
「意識はある。でも眠らされてる」
「毒の濃度は」
「高い。雲霧楼の茶より強い。これ、街中の水に混じってる」
蓮は川を見た。
上流の方から来ていた。どこかで大量の毒が流し込まれていた。
「上流に行く」
川沿いを歩いた。
倒れている人の数が増えていた。リンが一人ひとりの様子を確かめながら歩いた。
「みんな死んでない。眠らされてるだけ。でも長く続いたら危ない」
「どのくらいの時間がある」
「わからない。でも早い方がいい」
上流に向かうほど、水の色が濃くなった。
貯水施設があった。広州の街に水を供給する、大きな施設だった。その入口に、黒い荷台が停まっていた。誰もいなかった。荷台の上に空の容器が並んでいた。容器の内側に、紫色の残滓が付いていた。
リンが容器の匂いを嗅いだ。
「魔睡花の液体版。これを施設に流し込んだ」
「どれくらい入れた」
「容器が十個ある。全部空だ」
蓮は施設の中に入った。
貯水槽は大きかった。
水面が紫がかっていた。ここから街全体に水が流れ出している。この水を何とかしなければ、街の人々への毒の供給が続く。
蓮は水龍を出した。
母の手帳には「水の流れを整えるための刃」と書いてあった。使い方はまだわからなかった。しかし水に関わる問題なら、この包丁が何かを教えてくれるかもしれないと思った。
刃を水面に近づけた。
手に振動が来た。水の流れの方向が、刃を通して伝わってきた。流れが複数あった。毒が混じった流れと、まだ混じっていない流れが、槽の中で別々に動いていた。
「リン」
「なに」
「毒の流れと、きれいな水の流れが分かれている。リンにわかるか」
リンは槽の縁まで来て、鼻を動かした。
「……わかる。右側が毒の流れ。左側がまだきれい」
「右側だけを切り離せれば、きれいな水を先に流せる」
「どうやって」
蓮は考えた。
水龍は流れを整える刃だった。流れを切り離す、という使い方が成立するかどうかわからなかった。しかし試すしかなかった。
蓮は槽の縁に下りた。
水面に刃を入れた。流れの方向に沿って、ゆっくりと動かした。
毒の流れと清水の流れの境界を、刃が感じ取っていた。その境界に沿って刃を動かすと、二つの流れが少しずつ分かれていった。
リンが槽の反対側から見ていた。
「右側の紫が、濃くなってる。左側が薄くなってる」
「流れが分離している」
「うん。……あ、左側の出口から、きれいな水が出てきた」
川の方で音がした。
きれいな水が流れ始めた音だった。
リンが走った。
川岸に戻って、倒れていた老人のそばに膝をついた。川の水を手に取って、匂いを嗅いだ。
「これはきれい。飲める」
老人に水を口元に当てた。老人がゆっくりと飲んだ。
しばらくして、目が開いた。
「……水が、冷たい」
普通の声だった。
リンが蓮を見て、小さくうなずいた。
貯水施設の外に出ると、荷台の前に男が立っていた。
初めて見る顔だった。細長い体格だった。蓮を見て笑った。笑い方が静かだった。怒りも驚きもない笑いだった。
「水龍を使いこなすか。……薫の息子は、やはり面白い」
「宗か」
「そうだ」
宗は荷台を一度見た。
「今日のところは、お前の勝ちだ。街の水は戻る。……だが蓮、私が何のために毒を流したか、わかるか」
「わからない」
「お前を広州に引き留めるためだ。……三日後、黒麒麟大会がある。お前に出てほしかった」
宗は懐から紙を出した。地面に置いた。風で飛ばないように石を乗せた。
「招待状だ。……持っていけ」
蓮は宗を見た。宗は笑ったままだった。母の手帳に書いてあった通りの、笑顔の人間だった。
「リンのことを知っているか」
宗の笑いが、一瞬だけ変わった。
「知っている」
「いつか話してもらう」
「大会が終わったら、話しましょう」
宗は背を向けて歩いていった。
リンが蓮の隣に来た。
「あの人が宗?」
「そうだ」
「……お父さんの匂いがした。薄かったけど、確かにした」
蓮は招待状を拾った。
三日後。黒麒麟大会。
川の水がきれいになっていく音が、背後で続いていた。




