第18話:鹹魚(ハムユイ)の香り ――夢霧烏龍と、眠る街――
広州に着いたのは昼過ぎだった。
船を降りた瞬間、香りが変わった。厦門とは違う湿気だった。川と海と人と食材の匂いが混ざった、重い空気だった。
リンが立ち止まった。
「……変な匂いがする」
「どこから」
「街全体から。甘い。でも不自然に甘い。お茶の香りなんだけど、その下に何かある」
蓮は周囲を見た。
路地を歩く人々が、どこかぼんやりしていた。活気がなかった。広州は食の都だと陳から聞いていた。しかし今の街には、食の匂いよりもお茶の香りが広がっていた。
案内された宿の近くに、大きな茶館があった。
『雲霧楼』という看板があった。昼間から客が入っていた。扉の前まで来ると、甘い茶の香りが強くなった。
「この中に入りたくない」とリンが言った。
「わかった。外で待っていてくれ」
「蓮が心配だから一緒に行く」
二人で入った。
内部は広かった。丸いテーブルが並んでいて、客が座っていた。みな同じ動作で茶を飲んでいた。話し声がなかった。茶を口に運んで、飲んで、また口に運ぶ。その繰り返しだけがあった。
リンが蓮の袖を引いた。
「お茶に何か混じってる。飲んだら頭が動かなくなる種類の毒。魔睡花の変形だと思う」
蓮は席に座らずに、茶館の中を見渡した。
客の目が合った。焦点がなかった。
奥から男が来た。
四十代ほどだった。白い服を着ていた。穏やかな顔だった。しかし目が笑っていなかった。
「見慣れない顔だ。座らないのか」
「茶は飲まない」
「なぜ」
「毒が入っている」
男は少し間を置いた。
「陸という。この茶館の主人だ」
陸は近くの椅子を引いて座った。蓮を見た。
「毒とは人聞きが悪い。……これは調和だ。人は争う。奪い合う。飢える。この茶を飲めば、そういうことを考えなくなる。この街の人々は、今、穏やかだろう」
「穏やかではなく、空っぽだ」
「違いがあるか?」
蓮は答えなかった。
陸は続けた。
「私は元々、この街で食堂をやっていた。毎日、食材の奪い合いがあった。仕入れ競争、客の取り合い、料理人同士の諍い。それが嫌になった時に、宗先生に会った。先生は言った。争いをなくすには、欲をなくせばいい、と」
「欲をなくすのではなく、感覚を殺している」
「同じことだ」
「違う」
蓮は立ち上がった。
厨房を探した。茶館の奥にあった。
軒下に食材が吊るしてあった。黒い、乾燥した魚が並んでいた。近づくと、強い臭気が来た。発酵した塩気と、魚の旨みが凝縮された匂いだった。
「リン、あれは何だ」
「鹹魚。すごく生きてる匂いがする。死んでるのに、生きてる匂いがする」
「使う」
陸が後ろから言った。
「それを使って何をするつもりだ」
「チャーハンを作る」
陸は少し笑った。
「料理で私の茶に勝てると思っているのか」
「勝てるかどうかはわからない。でも試す」
蓮は鹹魚を取った。鶏肉があった。冷やご飯があった。コンロを借りた。
鹹魚を刻んだ。
近づくと匂いが強くなった。発酵した魚の臭気は、鼻の奥に直接届く種類の香りだった。リンが少し離れた場所から見ていた。
「蓮、それ、かなり強い」
「そうだな」
「茶の香りに勝てる?」
「試してみる」
油を熱した。鹹魚を入れた瞬間、香りが爆発した。発酵した塩気が油と混ざって、別の香りになった。茶館全体の甘い香りが、一瞬だけ押し戻された。
鶏肉を入れた。ご飯を入れた。鍋を煽った。
鹹魚の香りが、ご飯一粒一粒に移っていった。
客の一人が顔を上げた。
茶碗を持ったまま、鼻を動かした。
隣の客が顔を上げた。二人が同じ方向を向いた。厨房の方向だった。
蓮はチャーハンを皿に盛った。
茶館のカウンターに置いた。
「食べたい人は食べてくれ」
最初に動いたのは、入口近くにいた老人だった。ゆっくり立ち上がって、カウンターまで来た。箸を取った。一口食べた。
しばらく動かなかった。
それから、もう一口食べた。
「……塩辛い」
普通の声だった。
「……腹が減っていた。私は、腹が減っていたのか」
老人が食べ続けた。その様子を見た別の客が立ち上がった。一人ずつ、カウンターに来た。全員が一斉に回復したわけではなかった。一口食べて、また座る客もいた。しかし目の焦点が、少しずつ戻っていた。
陸が蓮の隣に来た。
怒りではなかった。チャーハンを食べている客を、黙って見ていた。
「……私の茶を、腐った魚の匂いで消すとは思わなかった」
「消したのではない。あんたの茶の下にあった感覚を、呼び起こした」
「どういう意味だ」
「鹹魚の香りは強い。強いから、麻痺した感覚に届く。届いた後は、素材が持っている本物の旨みが仕事をする。……あんたの茶が作った眠りは深かったが、感覚を完全には殺せていなかった」
陸は少し間を置いた。
「……宗先生に報告する」
「それでいい」
陸は厨房に戻った。
蓮は腰の包丁に手を当てた。
水龍。母の手帳には「水の流れを整えるための刃」と書いてあった。広州は水の街だとあの老人が言っていた。この先、この包丁を使う場面が来る。
抜くのは、まだ早い。
しかし確かめた。柄を握った。手に馴染む重さだった。
厨房の外から、リンが呼んだ。
「蓮、外に誰か来てる。宗の匂いがする」
蓮は水龍の柄から手を離した。
茶館の扉の向こうに、広州の湿った空気があった。




