第17話:五虎星の地図 ――厦門の夜と、広州への出発――
市場が戻ってきた後、蓮とリンは港近くの食堂に入った。
リンが「お腹が空いた」と言ったからだった。焼きそばを少し食べただけで、まだ足りていないのは見ればわかった。
二人で向かい合って座った。麺を頼んだ。リンは来た瞬間に鼻を動かして、「これは本物」と言ってから食べ始めた。蓮はその様子を見ながら、ラオが去り際に言った言葉を考えていた。
広州に行けばわかる。毒仙宗が、この子の過去を知っている。
「リン」
「なに」
「麒麟会に、何をされた」
リンは麺を食べる手を止めなかった。
「味覚を焼かれた。子供の頃に」
「なぜ」
「嗅覚を強くするために。味覚を潰すと、嗅覚が代わりに発達するって、向こうの研究者が言ってた」
蓮は何も言わなかった。
「痛かったけど、今は別にいい。おかげで匂いで色々わかるから」
リンは麺を食べ続けた。
「父親を探してる、と言っていたな」
「うん。実験に使われたって聞いた。どこにいるかわからない。でも大陸のどこかにいると思ってる」
「広州に毒仙宗という人物がいる。あんたの過去を知っているかもしれない」
リンは箸を止めた。
「……知ってる」
「知っているのか」
「名前だけ。あたしを実験した研究者が、宗の配下だった。だから広州には、いつか行かないといけないと思ってた」
リンは蓮を見た。
「蓮は広州に行くの?」
「行く」
「一緒に行っていい?」
「最初からそのつもりだ」
食堂を出た後、蓮は港の近くの宿を取った。
部屋に入って、母の手帳を出した。大陸の地図が挟んであった。陳から受け取ったものだった。広州の場所を確認した。厦門から南に下る。船で半日ほどかかる。
手帳のページをめくった。
母が大陸にいた頃の記録が続いていた。料理の記録ではなく、移動の記録と、会った人物の名前が断片的に書いてあった。広州という地名が、一度だけ出てきた。
広州。宗という男に会った。笑顔の人間だった。だからこそ、信じるな。
一行だけだった。
蓮は手帳を閉じた。
翌朝、港に行く前に、市場に寄った。
昨日ラオがいた場所は、何もなかった。荷車も鍋も消えていた。地面に黒い粉末の跡が残っていた。
隣の屋台の主人が声をかけてきた。昨日、蓮の焼きそばを食べた老人だった。
「昨日はありがとう。……あの男、前にも来たことがある。来るたびに、うちの仕入れ食材の香りが変わった。今日は戻ってるから、またちゃんとした物が売れる」
「そうですか」
「どこから来た」
「日本から」
老人は少し驚いた顔をした。
「遠くから来たな。……どこへ行く」
「広州に」
「気をつけろ。広州は水が強い街だ。飲み込まれるな」
老人は屋台に戻った。
リンが蓮の隣に立った。
「水が強い街、ってどういう意味?」
「わからない。行けばわかる」
船を待つ間、蓮はリンから麒麟会の話を聞いた。
リンが知っていることは、蓮が知っていることより現場に近かった。大陸の各地で何が起きているか、どの街の食材に手が入っているか、麒麟会の動き方のパターンを、リンは自分の嗅覚で追ってきた記録を持っていた。
「五虎星って知ってる?」とリンが聞いた。
「名前だけ。大陸を五つの領域に分けて支配している五人だということは、ラオから聞いた」
「ラオが教えたの?」
「去り際に少し」
リンは少し考えた。
「南の毒仙が広州にいる。東の絲王が上海にいる。北の氷帝が北京にいる。西の獄炎は四川の奥にいる。総帥は……わからない。どこにいるか、誰も知らないって聞いた」
「あんた、よく知っているな」
「匂いを追いかけてると、自然と情報が集まってくる」
蓮は地図を出した。広州に印をつけた。
「毒仙から始める。あんたの父親の手がかりも、広州にある可能性がある」
「うん」
リンは地図を見た。
「蓮、黒麒麟料理大会って知ってる?」
「知らない」
「広州で定期的に開かれる料理の大会。麒麟会が関係している。参加した料理人が、そのまま麒麟会の支配下に入ることが多い。……でも、逆に言えば、参加すれば内部の人間と接触できる」
「情報源になるということか」
「うん。今度の開催が近い。もし蓮が参加するなら……招待状が要る」
蓮は少し考えた。
「招待状はどこで手に入る」
「広州に着けばわかると思う。あたしの鼻が、関係者の匂いを嗅ぎ分けられるから」
船が来た。
乗船した。甲板に出た。厦門の港が遠くなっていった。
リンが手すりに両手をかけて、風に向かって鼻を動かしていた。
「何か匂うか」
「まだ厦門の匂い。潮と、市場のスパイスと、昨日の焼きそばの残り香」
「焼きそばの匂いがまだするのか」
「あたしの鼻には、ずっとする」
蓮は海を見た。
広州まで半日。毒仙宗、リンの父親、黒麒麟料理大会。向かう先に何があるかは、まだわからなかった。
母の手帳の一行が、頭に残っていた。
笑顔の人間だった。だからこそ、信じるな。
船が速度を上げた。
厦門の灯りが、水平線の向こうに消えていった。




