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四川の焔  作者: 水前寺鯉太郎
大陸遠征・八大料理試練編

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第16話:腐敗の魔術師 ―調合師ラオと、死臭の市場―

干しエビを油で炒めた最初の香りが、市場に広がった。

 その瞬間、ラオの鍋から来ていた人工の旨みの霧が、少し後退した。隣の屋台の主人が顔を上げた。荷車に近づこうとしていた客が足を止めた。香りの力関係が、わずかに動いた。

 しかし、まだ足りなかった。

 ラオは鼻で笑った。

「干しエビ一つまみで、我が『深淵の魚頭スープ』に対抗するつもりか。……貴様の炎は小さすぎる」

 ラオが鍋を煽った。黒い粉末をさらに加えた。腐敗臭が消えた状態の旨みの香りが、再び市場全体に広がった。足を止めていた客が、また一歩荷車に向かって動き始めた。

「蓮、押されてる」

 リンが言った。

「わかってる。……リン、ラオの鍋の底、何の匂いがする」

 リンは目を閉じた。

「……魚の匂い。でも変な魚。本物じゃない。何かで作った、魚に似た匂い」

「合成か」

「うん。でも……その下に、本物の匂いが少しある。魚じゃなくて、海の匂い」

 蓮は鍋を見た。

 ラオのスープの表面は黒みがかっていた。化学スパイスで底上げされた人工の旨みの下に、それでも本物の海鮮の残滓が沈んでいた。素材を完全には殺せていない。腐敗させながらも、素材がまだ何かを持っていた。

 蓮は爆炎の柄を握り直した。

 この包丁の特性を、蓮はまだ完全には把握していなかった。しかし使い始めてから、一つだけわかっていることがあった。火の通り方が変わる。食材への熱の入り方が、他の包丁で切った時と違う。断面から熱が均一に入っていく感触があった。

 小魚を取り出した。

 爆炎で頭を落とした。断面から香りが立った。死んでいなかった。リンが言った通り、素材がまだ持っているものがあった。

「リン、この魚の一番いい部分を教えてくれ」

「……背中。背骨の横、そこが一番生きてる」

 蓮は背骨の両側を切った。身が取れた。薄かった。痩せた魚だった。しかし断面が綺麗だった。

 麺を湯がいた。

 市場の端に湯沸かし用の鍋があった。借りた。麺を入れて、少し硬めに上げた。仕上げの炒めで火が入るから、この段階では硬くていい。

「ラオ。あんたのスープ、一口もらう」

 蓮が言った。

 ラオが止まった。

「……なに?」

「素材の残りが底にある。それを使う」

 ラオは少し間を置いてから、笑った。

「面白い。……好きにしろ」

 蓮はラオの鍋のスープを一杓、自分の鍋に移した。リンが「蓮、大丈夫?」と言った。

「毒の部分は熱で飛ばす。残るのは素材の旨みだけだ」

 爆炎で鍋を熱した。

 強い火だった。スープが沸騰した。黒い粉末の香りが飛んだ。化学スパイスの甘ったるい香りが消えて、下に沈んでいた海の旨みだけが残った。

 そこに、小魚の身を入れた。干しエビを加えた。麺を入れた。

 鍋を煽った。

 香りが変わった。

 ラオのスープから来ていた人工の香りとは、方向が違った。強くなかった。広がるのではなく、集まる香りだった。市場の潮風の匂いと混ざって、近くにいる人間の鼻に直接届く種類の香りだった。

 リンが鼻を動かした。

「……海だ。厦門の海の匂い」

 市場の人々が、動きを止めた。

 荷車に向かっていた客が立ち止まった。鼻を動かした。それからゆっくりと、蓮の鍋の方を向いた。一人が向いたら、隣の人間も向いた。

 ラオの笑いが消えた。

 皿に盛った。

 痩せた小魚と干しエビの焼きそばだった。見た目は地味だった。ラオの深淵の魚頭スープの、黒く輝く見た目に比べれば、どこにでもある市場の一皿だった。

 近くにいた市場の客に渡した。

 老人だった。荷車に一番近づいていた客だった。受け取って、一口食べた。

 しばらく、何も言わなかった。

 それから目を上げた。焦点が戻っていた。

「……この海老、今朝入ったやつと同じ匂いだ」

 普通の声だった。市場で買い物をしている人間の、普通の声だった。

 その声が聞こえた周囲の人間が、一人ずつ動きを取り戻した。

 ラオは鍋を見ていた。

 スープの表面が変わっていた。人工の香りが広がらなくなっていた。蓮の焼きそばの香りが、市場の空気の中に定着していた。

「……素材の残りを使ったか」

「あんたのスープにも、まだ本物が残っていた。素材は完全には死なない」

「……その素材は、俺が腐敗させたものだ」

「腐敗させる前に、素材が何かを持っていた。その何かを使った」

 ラオは鍋を見たまま、しばらく動かなかった。

「……負けだな」

 静かな声だった。崩れなかった。膝もつかなかった。ただ、鍋の火を止めた。

「一つ聞いていいか、蓮とやら」

「なんだ」

「腐敗した素材から、なぜ本物の旨みを取り出せると思った」

「あんたが腐敗させても、素材はまだ何かを持っていたから。リンがそれを見つけてくれた」

 ラオはリンを見た。リンは少し後ろに下がった。

「……この小娘の嗅覚は、麒麟会が作った。実験の産物だ」

 蓮の手が止まった。

「広州に行けばわかる。……南の『毒仙』ソウが、この子の過去を知っている」

 ラオは荷車を引いて、市場の奥に消えた。逃げる速度ではなかった。用が済んだ人間の歩き方だった。

 市場が戻ってきた。

 屋台の主人が包丁を動かし始めた。客が魚を選び始めた。声が戻ってきた。

 蓮はリンを見た。

 リンは鍋の方を向いていた。蓮の焼きそばの残りを、小皿に取って食べていた。

「美味しい」

 小さい声だった。

「そうか」

「うん。……久しぶりに、ちゃんとした匂いのご飯を食べた」

 蓮は片付けを始めた。

 広州。毒仙宗。リンの過去。

 ラオが去り際に残した言葉が、頭から離れなかった。

 厦門の海風が、市場を吹き抜けた。

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