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四川の焔  作者: 水前寺鯉太郎
大陸遠征・八大料理試練編

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15/52

第15話:潮風の導き手 ―厦門の少女と、香りの羅針盤―

厦門(アモイ)に着いたのは、朝だった。

 港から市場まで歩いた。横浜中華街とは違う種類の活気があった。海産物の匂いと、スパイスの匂いと、人の声が混ざっていた。

 リンに会ったのは、市場の入口だった。

 十二、三歳に見えた。痩せていた。市場の端で、目を閉じたまま立っていた。近づくと、目を開けた。

「あんた、日本から来た?」

 日本語だった。訛りがあった。

「そうだ」

「梁山麒麟会を追いかけてる?」

 蓮は少し考えた。

「追いかけているというより、向かっている」

「同じだ」

 リンは目を閉じた。また開けた。

「あたしは匂いがわかる。普通の人間より細かく。麒麟会の毒のベースになるスパイスの匂いも、遠くからわかる。……一緒に来ていい?」

 蓮はリンを見た。

「なぜ麒麟会を」

「父親が、麒麟会の実験に使われた。今はどこにいるかわからない」

 短い答えだった。それ以上は言わなかった。

「わかった。来い」

 市場の奥に入った時、リンが立ち止まった。

「……変な匂いがする」

「どこから」

「あっち」

 リンが指した方向に、人だかりができていた。

 近づくと、男がいた。黒い荷車を引いていた。五十代か六十代か、判断しにくい年齢だった。コックコートではなく、汚れた作業着を着ていた。

 荷車の上に、大きな魚の頭があった。

 蓮の鼻に、複雑な香りが来た。最初の層は強い旨みの香りだった。しかしその下に別のものがあった。発酵ではなく、腐敗の方向に進んだ何かだった。

 リンが蓮の後ろに回った。

「死んでる。あのおじさんの周り、全部死んでる」

 声が低かった。リンが感情を抑えている時の声だった。

「ひっひっひ」

 男が笑った。

「良い鼻だ、小娘。……我ら麒麟会の香気を、遠くから嗅ぎ取るとは」

 男はラオと名乗った。

 麒麟会の調合師だった。腐敗しかけた食材に化学スパイスを加えて、人工的な旨みを作り出す専門家だということを、後で蓮はリンから聞いた。厦門の海鮮市場に、そういう食材が出回り始めているという話も、リンはすでに知っていた。

 ラオが黒い粉末を魚の頭に振りかけた。

 香りが変わった。腐敗臭が消えて、強い旨みの香りだけが残った。

 市場の人々が、その香りに引き寄せられた。隣の屋台の主人が、包丁を持ったまま足を止めた。魚を手に持った客が、鼻を動かしながら一歩踏み出した。子供が母親の手を離して、荷車の方に向かい始めた。

「リン、人を近づけるな」

 蓮は言いながら、ラオを見た。

「貴様の包丁がどれほど鋭かろうと、この霧の中では素材の声など聞こえはせん」

 ラオは荷車から鍋を出した。火をつけた。魚の頭が鍋に入った。黒い粉末をさらに加えた。

 スープの香りが立ち始めた。

 強かった。人工的だったが、強かった。遠くにいる人間の鼻まで届く種類の香りだった。

 蓮は市場を見回した。

 捨てられた食材が端にあった。痩せた小魚が数匹、干しエビの残りがひとかたまり。誰も使わなかった食材だった。

 蓮はそれを拾った。

「それで何ができる」とラオが言った。嘲りではなく、本気で疑問に思っている声だった。

「蓮、この魚まだ生きてる匂いがする」

 リンが小声で言った。

「どこに一番強く残ってる」

「……頭の後ろ。エラの後ろ側」

 蓮は氷心を出した。

 エラの後ろを切った。断面から、かすかに海の匂いがした。死んではいなかった。素材がまだ持っているものがあった。

 コンロを借りた。市場の端に共用の火台があった。火をつけた。

 四本目の包丁に手をかけた。

 爆炎。母が残した四本目の包丁だった。手帳には「火を起こすための刃」と書いてあった。それだけだった。今まで使ったことがなかった。しかしラオの鍋が作り出している人工の香りの霧を払うには、強い火が必要だった。氷心では足りない。

 柄を握った。

 熱かった。他の包丁とは違う温度だった。

「リン、俺の右側に来い。鍋の中の香りの変化を教えてくれ」

「わかった」

 鍋に油を入れた。

 火を上げた。

 干しエビを先に入れた。エビの旨みが油に移り始めた。その香りが立ち上がった瞬間、ラオの鍋から来ていた人工の香りが、少し押し戻された。

 市場の人々の動きが、少し変わった。

 足を止めていた屋台の主人が、顔を上げた。荷車に近づこうとしていた客が、立ち止まった。

 まだ足りなかった。

 しかしその香りは確かに、厦門の海から来た香りだった。

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