第15話:潮風の導き手 ―厦門の少女と、香りの羅針盤―
厦門に着いたのは、朝だった。
港から市場まで歩いた。横浜中華街とは違う種類の活気があった。海産物の匂いと、スパイスの匂いと、人の声が混ざっていた。
リンに会ったのは、市場の入口だった。
十二、三歳に見えた。痩せていた。市場の端で、目を閉じたまま立っていた。近づくと、目を開けた。
「あんた、日本から来た?」
日本語だった。訛りがあった。
「そうだ」
「梁山麒麟会を追いかけてる?」
蓮は少し考えた。
「追いかけているというより、向かっている」
「同じだ」
リンは目を閉じた。また開けた。
「あたしは匂いがわかる。普通の人間より細かく。麒麟会の毒のベースになるスパイスの匂いも、遠くからわかる。……一緒に来ていい?」
蓮はリンを見た。
「なぜ麒麟会を」
「父親が、麒麟会の実験に使われた。今はどこにいるかわからない」
短い答えだった。それ以上は言わなかった。
「わかった。来い」
市場の奥に入った時、リンが立ち止まった。
「……変な匂いがする」
「どこから」
「あっち」
リンが指した方向に、人だかりができていた。
近づくと、男がいた。黒い荷車を引いていた。五十代か六十代か、判断しにくい年齢だった。コックコートではなく、汚れた作業着を着ていた。
荷車の上に、大きな魚の頭があった。
蓮の鼻に、複雑な香りが来た。最初の層は強い旨みの香りだった。しかしその下に別のものがあった。発酵ではなく、腐敗の方向に進んだ何かだった。
リンが蓮の後ろに回った。
「死んでる。あのおじさんの周り、全部死んでる」
声が低かった。リンが感情を抑えている時の声だった。
「ひっひっひ」
男が笑った。
「良い鼻だ、小娘。……我ら麒麟会の香気を、遠くから嗅ぎ取るとは」
男はラオと名乗った。
麒麟会の調合師だった。腐敗しかけた食材に化学スパイスを加えて、人工的な旨みを作り出す専門家だということを、後で蓮はリンから聞いた。厦門の海鮮市場に、そういう食材が出回り始めているという話も、リンはすでに知っていた。
ラオが黒い粉末を魚の頭に振りかけた。
香りが変わった。腐敗臭が消えて、強い旨みの香りだけが残った。
市場の人々が、その香りに引き寄せられた。隣の屋台の主人が、包丁を持ったまま足を止めた。魚を手に持った客が、鼻を動かしながら一歩踏み出した。子供が母親の手を離して、荷車の方に向かい始めた。
「リン、人を近づけるな」
蓮は言いながら、ラオを見た。
「貴様の包丁がどれほど鋭かろうと、この霧の中では素材の声など聞こえはせん」
ラオは荷車から鍋を出した。火をつけた。魚の頭が鍋に入った。黒い粉末をさらに加えた。
スープの香りが立ち始めた。
強かった。人工的だったが、強かった。遠くにいる人間の鼻まで届く種類の香りだった。
蓮は市場を見回した。
捨てられた食材が端にあった。痩せた小魚が数匹、干しエビの残りがひとかたまり。誰も使わなかった食材だった。
蓮はそれを拾った。
「それで何ができる」とラオが言った。嘲りではなく、本気で疑問に思っている声だった。
「蓮、この魚まだ生きてる匂いがする」
リンが小声で言った。
「どこに一番強く残ってる」
「……頭の後ろ。エラの後ろ側」
蓮は氷心を出した。
エラの後ろを切った。断面から、かすかに海の匂いがした。死んではいなかった。素材がまだ持っているものがあった。
コンロを借りた。市場の端に共用の火台があった。火をつけた。
四本目の包丁に手をかけた。
爆炎。母が残した四本目の包丁だった。手帳には「火を起こすための刃」と書いてあった。それだけだった。今まで使ったことがなかった。しかしラオの鍋が作り出している人工の香りの霧を払うには、強い火が必要だった。氷心では足りない。
柄を握った。
熱かった。他の包丁とは違う温度だった。
「リン、俺の右側に来い。鍋の中の香りの変化を教えてくれ」
「わかった」
鍋に油を入れた。
火を上げた。
干しエビを先に入れた。エビの旨みが油に移り始めた。その香りが立ち上がった瞬間、ラオの鍋から来ていた人工の香りが、少し押し戻された。
市場の人々の動きが、少し変わった。
足を止めていた屋台の主人が、顔を上げた。荷車に近づこうとしていた客が、立ち止まった。
まだ足りなかった。
しかしその香りは確かに、厦門の海から来た香りだった。




