第14話:師の背中、皮付きの黄金 ―旅立ちの東坡肉(トンポーロー)―
出航の四時間前、陳から連絡が来た。
翠景楼に来いという内容だった。
蓮が着くと、厨房に明かりがついていた。陳が一人でコンロの前に立っていた。白衣ではなく、普段着だった。翠景楼の総料理長としてではなく、一人の料理人として立っている姿だった。
蓮は厨房に入った。
「座れ」とは言われなかった。蓮は陳の隣に立った。
陳が豚の五花肉を取り出した。
皮付きのまま、大ぶりに切り分けた。包丁の動きは遅かった。蓮がこれまで見てきた陳の動きの中で、最も遅い動きだった。しかし一切れごとに、迷いがなかった。切る前から、どう切るかが決まっている動き方だった。
下茹でが始まった。
沸騰させなかった。水面がかすかに動く程度の火加減で、肉を茹でた。アクが出た。陳は丁寧に取り続けた。急がなかった。
茹で上がった肉を、煮汁に移した。
紹興酒、醤油、砂糖。それから、小さな布袋に入った生薬をいくつか加えた。蓮には名前がわからないものもあった。
火をさらに弱くした。
厨房が静かになった。鍋が煮え立つ音ではなく、ゆっくりとした対流の音だけが残った。
蓮はその音を聞いていた。
この一か月間、翠景楼で聞いてきた音と違った。毎朝、仕込みが始まると厨房は慌ただしくなった。包丁の音、鍋の音、業者と陳のやり取りの声。しかし今夜の厨房には、その鍋の音だけがあった。
香りが変わっていた。
紹興酒の香りが最初に来て、それが落ち着くと醤油の深みが出てきた。生薬の香りは主張しなかった。全体の底で支えている感じだった。
裕太郎が翠龍門で作った東坡肉を、蓮は覚えていた。あの時の香りは前に出てくる香りだった。今夜の香りは違った。引いていた。素材の方から香りが来ていた。
「陳さん」
「なんだ」
「どのくらいかかりますか」
「二時間以上かかる」
出航まで四時間あった。
「見ていろ」
陳はそれだけ言った。
二時間半後、陳が鍋を止めた。
皿に盛った。
箸を蓮に渡した。
蓮は肉に箸を当てた。抵抗がなかった。自重で沈んだ。皮の部分が黄金色になっていた。
一口食べた。
脂身が口の中で消えた。溶けた、ではなく消えた。脂の重さが残らなかった。その後から肉の旨みが来た。静かな旨みだった。主張しなかったが、消えなかった。しばらくしてから、生薬の滋味が追いかけてきた。
蓮は箸を置いた。
何か言おうとして、言葉が出なかった。
陳が言った。
「薫から預かっていたものがある」
引き出しから、折りたたまれた紙を出した。広げると、地図だった。大陸の地図で、いくつかの場所に母の筆跡で書き込みがあった。
「薫が大陸を回っていた頃に作ったものだ。麒麟会に関係する場所と、彼女が訪れた場所が書いてある。……渡すなら大陸に行く前にと思っていた」
蓮は地図を受け取った。
母の筆跡だった。手帳の字と同じだった。書き込みは多くなかったが、一つひとつが丁寧だった。
「……ありがとうございます」
「礼はいい」
陳は東坡肉の残りを小さな容器に入れた。
「持っていけ。船の上で食べろ」
「はい」
翠景楼を出たのは、出航一時間前だった。
霧が出ていた。港の方向に向かって歩いた。
口の中に、東坡肉の味がまだ残っていた。消えなかった。喉を通った後も、身体の中に何かが残っている感じがした。
陳は見送りに来なかった。
翠景楼を出る時、陳は厨房に戻っていた。それでいいと蓮は思った。
港に着くと、裕太郎と香蘭がいた。昨日と同じように、何も言わなかった。乗船の時間になって、蓮は船に乗った。
甲板に出た。
霧で、港が見えにくかった。中華街の方角に目を向けたが、灯りが霧の中に滲んでいた。翠景楼がどこにあるかも、翠龍門がどこにあるかも、わからなかった。
汽笛が鳴った。
船が動き始めた。
蓮は甲板に立ったまま、霧の中を見ていた。灯りがあった場所が、やがて霧と同じ色になった。
それでもしばらく、そこを見ていた。




