表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
四川の焔  作者: 水前寺鯉太郎
大陸遠征・八大料理試練編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

14/53

第14話:師の背中、皮付きの黄金 ―旅立ちの東坡肉(トンポーロー)―

出航の四時間前、陳から連絡が来た。

 翠景楼に来いという内容だった。

 蓮が着くと、厨房に明かりがついていた。陳が一人でコンロの前に立っていた。白衣ではなく、普段着だった。翠景楼の総料理長としてではなく、一人の料理人として立っている姿だった。

 蓮は厨房に入った。

「座れ」とは言われなかった。蓮は陳の隣に立った。

 陳が豚の五花肉を取り出した。

 皮付きのまま、大ぶりに切り分けた。包丁の動きは遅かった。蓮がこれまで見てきた陳の動きの中で、最も遅い動きだった。しかし一切れごとに、迷いがなかった。切る前から、どう切るかが決まっている動き方だった。

 下茹でが始まった。

 沸騰させなかった。水面がかすかに動く程度の火加減で、肉を茹でた。アクが出た。陳は丁寧に取り続けた。急がなかった。

 茹で上がった肉を、煮汁に移した。

 紹興酒、醤油、砂糖。それから、小さな布袋に入った生薬をいくつか加えた。蓮には名前がわからないものもあった。

 火をさらに弱くした。

 厨房が静かになった。鍋が煮え立つ音ではなく、ゆっくりとした対流の音だけが残った。

 蓮はその音を聞いていた。

 この一か月間、翠景楼で聞いてきた音と違った。毎朝、仕込みが始まると厨房は慌ただしくなった。包丁の音、鍋の音、業者と陳のやり取りの声。しかし今夜の厨房には、その鍋の音だけがあった。

 香りが変わっていた。

 紹興酒の香りが最初に来て、それが落ち着くと醤油の深みが出てきた。生薬の香りは主張しなかった。全体の底で支えている感じだった。

 裕太郎が翠龍門で作った東坡肉を、蓮は覚えていた。あの時の香りは前に出てくる香りだった。今夜の香りは違った。引いていた。素材の方から香りが来ていた。

「陳さん」

「なんだ」

「どのくらいかかりますか」

「二時間以上かかる」

 出航まで四時間あった。

「見ていろ」

 陳はそれだけ言った。

 二時間半後、陳が鍋を止めた。

 皿に盛った。

 箸を蓮に渡した。

 蓮は肉に箸を当てた。抵抗がなかった。自重で沈んだ。皮の部分が黄金色になっていた。

 一口食べた。

 脂身が口の中で消えた。溶けた、ではなく消えた。脂の重さが残らなかった。その後から肉の旨みが来た。静かな旨みだった。主張しなかったが、消えなかった。しばらくしてから、生薬の滋味が追いかけてきた。

 蓮は箸を置いた。

 何か言おうとして、言葉が出なかった。

 陳が言った。

「薫から預かっていたものがある」

 引き出しから、折りたたまれた紙を出した。広げると、地図だった。大陸の地図で、いくつかの場所に母の筆跡で書き込みがあった。

「薫が大陸を回っていた頃に作ったものだ。麒麟会に関係する場所と、彼女が訪れた場所が書いてある。……渡すなら大陸に行く前にと思っていた」

 蓮は地図を受け取った。

 母の筆跡だった。手帳の字と同じだった。書き込みは多くなかったが、一つひとつが丁寧だった。

「……ありがとうございます」

「礼はいい」

 陳は東坡肉の残りを小さな容器に入れた。

「持っていけ。船の上で食べろ」

「はい」

 翠景楼を出たのは、出航一時間前だった。

 霧が出ていた。港の方向に向かって歩いた。

 口の中に、東坡肉の味がまだ残っていた。消えなかった。喉を通った後も、身体の中に何かが残っている感じがした。

 陳は見送りに来なかった。

 翠景楼を出る時、陳は厨房に戻っていた。それでいいと蓮は思った。

 港に着くと、裕太郎と香蘭がいた。昨日と同じように、何も言わなかった。乗船の時間になって、蓮は船に乗った。

 甲板に出た。

 霧で、港が見えにくかった。中華街の方角に目を向けたが、灯りが霧の中に滲んでいた。翠景楼がどこにあるかも、翠龍門がどこにあるかも、わからなかった。

 汽笛が鳴った。

 船が動き始めた。

 蓮は甲板に立ったまま、霧の中を見ていた。灯りがあった場所が、やがて霧と同じ色になった。

 それでもしばらく、そこを見ていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ