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四川の焔  作者: 水前寺鯉太郎
横浜中華街編

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第13話:旅立ちの香味(シャンウェイ) ―三人の魚香肉絲(ユイシャンロウスー)と、不滅の灯火―

翠龍門に戻ったのは、夜の九時過ぎだった。

 江夏園から歩いて帰った。遠回りした。中華街の表通りを抜けて、人の少ない路地を選んだ。歩きながら、この一か月に起きたことを順番に思い出していた。

 翠龍門の暖簾が見えた時、初めて足が止まった。

 この暖簾を、次にくぐるのはいつになるかわからない。

 引き戸を開けると、香蘭が出てきた。おしぼりを渡してくれた。

「おかえり」

「ただいま」

 裕太郎が厨房にいた。鍋を磨いていた。蓮が入ってきたのに気づいて、手を止めた。

 三人で、しばらく何も言わなかった。

「……大陸へ行く。明日の朝、船に乗る」

 香蘭が少し黙った。

「わかってた」

「母さんの日記に、続きがある。麒麟会の本陣がどこにあるかも、まだわからない。ここにいたら、次に何が来るかわからないまま待つだけになる」

「うん」

 香蘭は返事だけした。それ以上は言わなかった。

 裕太郎が鍋を置いた。

「なら、今夜飯を食おう。三人で作って、三人で食べる」

 何を作るかは、すぐに決まった。

 母が好きだった魚香肉絲だった。裕太郎が「薫さんがよく作っていた」と言って、食材を出し始めた。

 豚肉、キクラゲ、筍。泡辣椒、砂糖、醤油、酢。

 三人が厨房に並んだ。

 裕太郎が豚肉を切り始めた。細切りにする作業だった。裕太郎の包丁の動きは、蓮が知っている中で最も誠実な動きだった。一本一本の厚みを揃えようとする、丁寧さだけで成立している動きだった。速くはないが、迷いがなかった。

 蓮は氷心を出した。

 筍とキクラゲを切った。この食材は食感が命だった。細胞を傷めると水が出て、炒めた時に締まらなくなる。氷心の温度が低いおかげで、断面が閉じたまま切れた。裕太郎の豚肉と並べた時に、食感が喧嘩しないように厚みを合わせた。

 香蘭は調味料を合わせていた。

 泡辣椒を砕きながら、酸味を確かめていた。砂糖を少し加えて、また確かめた。香蘭は料理を作る人間ではなかったが、味を判断する感覚は三人の中で一番鋭かった。母が生前、よく「香蘭の舌に聞け」と言っていた。

「これくらい?」

 香蘭が小皿を出した。蓮が味を見た。

「酢をもう少し」

「これ?」

「それでいい」

 蓮が鍋に火をつけた。

 油を入れた。温まったところで豚肉を入れた。広東の修行で覚えた火加減で炒めた。強すぎず、しかし素材を委縮させない温度だった。肉の表面が白くなってきたところで、泡辣椒を加えた。

 酸味の香りが来た。

 四川の発酵した辛みの香りだった。それと同時に、筍とキクラゲを加えた。食感が変わらないうちに仕上げる必要があった。香蘭が合わせた調味料を加えた。鍋を一度大きく煽った。

 香りが変わった。

 泡辣椒の酸味と、豚肉の脂と、筍の水分が合わさって、別の香りが生まれた。魚を使っていないのに、発酵した酸味と素材の旨みが重なると、魚に似た香りが生まれる。四川の料理の理屈だった。広東で素材の水分を活かす火加減を覚えたことで、その香りが今夜は以前より明確に出た。

 皿に盛った。

 三人でカウンターに並んで座った。

 香蘭が一口食べた。

 少ししてから、目から涙が出た。声は出なかった。

「……お母さんの味だ」

 蓮は何も言わなかった。

「でも、違う。蓮の分が入ってる」

 裕太郎が食べた。

「……うまい」

 それだけだった。裕太郎はそれ以上言わない人だった。

 三人で食べた。途中、誰も話さなかった。話す必要がなかった。

 皿が空になった。

 香蘭が洗い物を始めた。裕太郎が厨房を片付けた。

 蓮は遺影の前に立った。

 魚香肉絲の皿を一つ、供えた。

「行ってきます」

 遺影の中の母は笑っていた。

 翌朝、港に行った。

 裕太郎と香蘭が来ていた。

 何も言わなかった。蓮も言わなかった。

 乗船の時間になった。蓮は七つ包丁の鞄と、母の手帳を持って船に乗った。

 甲板に出た。

 港が遠くなっていった。中華街の方角に、朝の光が当たっていた。翠龍門のある路地は、ここからは見えなかった。

 中華街の灯りが、水平線の向こうに消えるまで、蓮はそこに立っていた。

          

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