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四川の焔  作者: 水前寺鯉太郎
横浜中華街編

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第12話:香りの迷宮(ラビリンス) ―氷心の刃と、浄化のちゃんぽん―

劉が倒れたのは、昨夜の夜中だった。

 陳から連絡が来た時、蓮はまだ起きていた。急いで江夏園に向かったが、劉はすでに意識がなかった。救急車が来て、病院に連れていかれた。陳がついていった。蓮は店に残って、厨房を確認した。

 仕込みの途中だった。ちゃんぽんのスープが、火を止めたままコンロの上にあった。近づくと、あの甘い香りがした。昨日より強かった。劉が気づかないうちに、もう一度食材に手が入っていた。

 朝になって、陳から連絡が来た。劉は意識を取り戻したが、当分は動けないと言った。

 夕方、江夏園に戻ると、店の様子が変わっていた。

 看板が外されていた。引き戸を開けると、百合の花の香りが来た。強い香りだった。その奥に、別の香りが重なっていた。複数のスパイスが混ざった、甘く鋭い香りだった。

 店の奥に、女がいた。

 テーブルの前に座って、扇子を手に持っていた。年齢はわかりにくかった。着ているものが上質だった。テーブルの上に、小さな瓶がいくつか並んでいた。

「来たわね、蓮くん」

「……誰だ」

「明蘭。……この街の食材に少し手を加えさせてもらった者よ」

 陳が蓮の隣に立った。陳の表情が変わっていた。

「お前か。劉の食材を変質させたのは」

「変質とは失礼ね。改良よ。劉先生のスープに私のスパイスを加えれば、もっと豊かな味になった。でも彼は断った。頑固な方だったから」

 明蘭は扇子を閉じた。

「蓮くん、あなたと勝負したい。江夏園の再興を賭けて。あなたが負ければ、この街の仕入れルートは私のスパイスに変わる」

 中華街の長老が三人、呼ばれていた。

 審判として座っていた。蓮は長老たちの顔を見た。普段から街を知っている人たちだった。

 明蘭が先に始めた。

 胡麻を擂る音がした。辣油の香りが来た。それだけなら普通の担々麺の工程だった。しかし香りの層が増えていった。一つではなく、複数のスパイスが重なっていく。それぞれが干渉し合って、新しい香りを作っていた。

 蓮は自分の食材を確認した。

 劉が昨日仕込んでいたものの中で、まだ使えるものがあった。キャベツ、海老、豚肉。それから、昨日の鍋に残っていた白濁スープの素。劉が何時間もかけて取ったものだった。

 氷心を抜いた。

 この包丁を最初に使った時、断面の滑らかさが違うと感じた。切った食材の水分が逃げなかった。旨みが閉じていた。それは包丁の温度に関係していると、蓮は考えていた。刃が冷たいほど、細胞への衝撃が少ない。細胞が傷まなければ、素材の持っているものが損なわれない。

 野菜を切った。

 断面を確かめた。昨日より滑らかだった。

 豚肉を切った。海老の殻を剥いた。それぞれを別々に確認した。劉のスープに入れた時に、それぞれが干渉し合わないかどうかを確かめた。

 明蘭の担々麺が長老の前に出された。

 長老の一人が食べた。

 表情が変わった。目が開いた。それから焦点がずれた。

「……香りが、重なっている」

 声が変わっていた。普段の声ではなかった。

 もう一人が食べた。同じだった。三人目も食べた。三人とも、同じ状態になった。

 明蘭は蓮を見た。

「あなたの番よ」

 蓮は劉のスープを温めた。

 白濁していた。何時間もかけて引いたスープの白さだった。そこに野菜と肉と海老を入れた。順番は、劉がカウンターで話していた手順を思い出しながら決めた。

 仕上げに、蒼い山椒を少量入れた。

 蓮が翠景楼の修行中に、陳の棚で見つけたものだった。「これはどう使うのか」と聞いたら、「使い方は自分で考えろ」と言われた。今夜、初めて使うことにした。

 香りが変わった。

 明蘭のスパイスとは違う方向だった。重なるのではなく、整理される香りだった。それぞれの素材の香りが、干渉せずに並んでいた。

 椀に注いだ。

 長老の前に置いた。

 長老の一人が、椀を手に取った。

 スープを一口飲んだ。

 しばらく、何も言わなかった。

 目の焦点が、戻った。

「……劉くんのスープだ」

 小さい声だった。

「この白さ、この重さ。……ずっとこの味だった」

 もう二人も飲んだ。三人とも黙っていた。

 明蘭が蓮を見ていた。

「……どうやった」

「劉さんのスープが、もともと全部持っていた。俺はそれを壊さないようにしただけです」

 明蘭は少し間を置いた。

「私のスパイスは否定される必要はなかった。……ただ、この店には合わなかった、ということ?」

「そうだと思います」

 明蘭は扇子を開いた。それから閉じた。

「……負けよ」

 立ち上がった。瓶を一つずつポケットにしまった。

「一つだけ言っておく。大陸に来る時は、気をつけなさい。私よりずっと複雑な人たちが待っている」

 それだけ言って、出ていった。

 長老たちが帰った後、陳が劉の遺影の前にちゃんぽんを供えた。

 蓮は厨房を片付けた。

 劉が使っていた鍋を洗いながら、劉が昨日言っていた言葉を思い出した。「俺のちゃんぽんは、素材同士が手を取り合う味だ」と言っていた。

 鍋は年季が入っていた。底が少し変形していた。長年使った跡だった。

 蓮は鍋を棚に戻した。

 陳が振り返った。

「大陸へ行く準備をしろ」

 短い言葉だった。

「はい」

 江夏園の夜が、静かに更けていった。

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