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四川の焔  作者: 水前寺鯉太郎
横浜中華街編

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第11話:絶望の白濁(パイタン) ―散った長崎の友と、死の香辛料(スパイス)―

陳に連れられて江夏園に行ったのは、昼前だった。

 「劉に会わせたい」と陳が言ったのは朝だった。母の日記の話をしたら、陳は少し黙って、それから「劉を知っているか」と聞いた。蓮は知らなかった。

 老舗だった。表通りから一本入った路地に、年季の入った看板が出ていた。『江夏園』。ガラス戸の向こうに、昼の仕込みをしている人影が見えた。

 陳が引き戸を開けた。

「劉、来たぞ」

 劉は六十代だった。

 陳より少し年上に見えた。白いコックコートは古くなっていたが、清潔だった。蓮を見て、目を細めた。

「薫の子か。……大きくなったな。一度だけ会ったことがある。お前が五歳の頃だ。覚えていないか」

 蓮は覚えていなかった。しかし言わなかった。

「まあ座れ。ちゃんぽんを出す」

 陳と蓮はカウンターに並んで座った。

 厨房から音が聞こえた。鍋が動く音と、野菜を炒める音が重なって、それから豚骨と魚介のスープの香りが来た。白濁した、深い香りだった。四川でも広東でもない、別の種類の豊かさだった。

 蓮の胃が動いた。

 出てきたちゃんぽんは、器が大きかった。野菜、海老、貝、豚肉が白いスープの上に乗っていた。

「食え」

 蓮は食べた。

 一口目で、温かかった。旨みが複数の方向から来て、しかしぶつからなかった。海鮮の軽さと、豚の重さが、同じスープの中で別々に存在していた。どちらかがどちらかを消していない。

「……美味いです」

「そうか」

 劉は笑った。陳と同じ、料理人の笑い方だった。

 陳が母の話を切り出した。

 劉はしばらく、蓮を見ていた。

「薫さんがいなくなった頃のことは、覚えている。大陸に行く前に、一度だけこの店に来た。ちゃんぽんを食べて、『劉さんのこのスープ、好きです』と言っていった。それが最後だった」

「母さんがここに」

「うん。……あの頃、麒麟会の話は噂程度には聞いていた。食の業界に変なものが入り込んでいると。薫さんはそれを追いかけていたようだった」

 劉はカウンターを拭きながら、続けた。

「最近、うちの仕入れルートがおかしい。いつもの業者から来る食材の香りが変わった。微かだが、何かが混じっている」

 蓮は手を止めた。

「いつから」

「先月から。最初は気のせいだと思っていた。しかし昨日、仕入れた海老をスープに入れたら、香りが全然違った。お客さんには出せなかった」

 劉は厨房を見た。

「今日、もう一度試している。さっきから仕込んでいるのがそれだ」

 香りが変わったのは、二十分後だった。

 厨房から出てくるスープの香りに、何かが混じった。甘く、しかし不自然な甘さだった。蓮の鼻が反応した。翠景楼の鮑の戻し汁で嗅いだことのある系統の香りだったが、もっと複雑だった。複数のものが重なっていた。

「劉さん、火を止めてください」

 蓮はカウンターを出た。

 厨房に入ると、劉が鍋の前に立っていた。スープを確かめようとしていた。

「待ってください」

 蓮は劉の前に出た。氷心を抜いた。スープに包丁の腹を近づけた。包丁を通して、手のひらに振動が来た。魔睡花と同じ系統の何かだったが、層が多かった。単一の毒ではなく、複数が重なっていた。

「これは食べられない。外に出しましょう」

 劉は動かなかった。

 スープを見ていた。

「……俺のちゃんぽんが、こんな匂いになった」

 その声が、蓮に刺さった。

 怒りではなかった。長年作ってきた料理が、自分の知らないところで変えられていた、その静かな傷だった。

「劉さん」

「わかった。捨てよう」

 劉は鍋を下ろした。その手が、少し震えていた。

 陳が厨房に入ってきた。

 三人で、変質した食材を仕分けした。使えるものと使えないものを分けた。仕入れルートを変える必要があること、どこから混入しているかを調べる必要があることを、陳が劉に話した。

 劉は聞きながら、厨房を片付けた。

 蓮は食材の香りを確かめながら、考えていた。複数のスパイスを重ねて毒を作るとすれば、それを調合できる人間がいる。翠景楼の鮑の戻し汁、林の食材、そして今回の仕入れ食材——同じ方向性を持った誰かが、横浜の食材に手を入れている。

「陳さん」

「わかっている」

 陳は劉の背中を見ながら言った。

「麒麟会の中に、スパイスを専門にしている者がいる。林の件の時から気になっていた。……お前の母親の日記に、そういう人物について何か書いてあったか」

「一行だけ。スパイスのことが書いてあった。でも名前は出ていなかった」

 陳は少し考えた。

「劉、今夜はうちに来い。一人でいるな」

 劉は振り返った。笑った。

「大げさだな、陳は昔から」

「大げさに越したことはない」

 三人で江夏園を出た。

 路地の空気に、まだ微かな甘い香りが残っていた。どこかから来ていた。仕入れルートの問題だけではないかもしれない、と蓮は思いながら、その香りの方向を確かめた。

 特定できなかった。

 しかし確かに、この路地のどこかから来ていた。

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