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四川の焔  作者: 水前寺鯉太郎
横浜中華街編

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第10話:遺された黙示録(アポカリプス) ―母の戦記と、禁断のレシピ―

翠龍門に戻ったのは、夜中だった。

 裕太郎と香蘭はもう寝ていた。店の鍵を閉めて、蓮は二階に上がった。着替える気にならなかった。船の上の空気がまだ身体についている気がした。

 母の居室に入ったのは、理由があったわけではなかった。

 ただ、引き寄せられた。

 神崎が最後に言いかけた何かが、頭から離れなかった。言葉にならなかったものが、この部屋のどこかにある気がした。

 文机の前に座った。

 引き出しを開けた。筆記用具、古い手紙、料理のメモ。一番奥に手を入れると、底が二重になっていた。指先で持ち上げると、薄い板が外れた。

 手帳があった。

 表紙に「翠」の一文字。金箔が擦り切れていた。何度も手で触れた跡だった。

 蓮はしばらく、その表紙を見ていた。

 開いた。

 母の字だった。

 蓮が知っている母の字よりも若い。少し角張っていて、しかし丁寧だった。日付があった。蓮が生まれる前の年だった。

 読み進めた。

 最初の数ページは、料理の記録だった。食材の産地、調理の温度、失敗した配合のメモ。母らしかった。几帳面で、自分に厳しい記録の仕方だった。

 ページが変わった。

 字が変わった。同じ人間の字だったが、書く速度が上がっていた。急いで書いた跡だった。

 蓮は読んだ。

 梁山麒麟会という名前が出てきた。母が大陸にいた頃の話だった。料理の話ではなかった。食材に混入させた毒の話、影響を受けた人々の話、母が何かを追いかけていた話だった。

 蓮の指が、あるページで止まった。

 一行だけ、他と違う書き方がされていた。墨が滲んでいた。急いで書いたのではなく、書くのをためらいながら書いた跡だった。

信じていた友が、向こう側にいた。

 それだけだった。名前は書いていなかった。

 蓮はその一行を、しばらく見ていた。

 読み続けた。

 母が七つ包丁を作り始めた経緯が書いてあった。それぞれの包丁に込めた意図が、短い言葉で記されていた。破軍については「素材の真実を出すため」とあった。流星については「濁りを取るため」とあった。

 残りの五本については、何も書いていなかった。

 ページが白紙になっていた。

 その白紙が続いて、手帳が終わった。

 母は途中で書くのをやめた。なぜかは書いていなかった。

 蓮は手帳を閉じた。

 机の前に座ったまま、しばらく動かなかった。

 母が大陸を渡り歩いていた時期のことを、蓮はほとんど知らなかった。父のことも知らなかった。翠龍門に戻ってきてから生まれた蓮には、その前の母の時間が空白のままだった。

 手帳の中にあったのは、その空白の一部だった。

 全部ではなかった。

 信じていた友が、向こう側にいた。

 その一文が、頭から離れなかった。

 蓮は七つ包丁の鞄を開けた。

 布を解いて、破軍を出した。

 今夜初めて使った包丁だった。母が「素材の真実を出すため」と書いた包丁だった。刃を見た。月の光が入ってきて、刃紋が浮かんだ。

 蓮は布で刃を拭いた。

 翠景楼で毎日、鮑の戻し汁の香りを確かめた。林の欠けた包丁を見た。陳の清湯が透明になっていく瞬間を見た。神崎が椀を手に取るまでの沈黙を見た。

 この二ヶ月間に起きたことが、順番に浮かんだ。

 母は一人で戦っていた。手帳に書いてあった。しかし蓮には裕太郎がいて、香蘭がいて、陳がいて、リンがいた。母が一人でやろうとして途中で止まったことを、蓮は一人でやらなくていいのかもしれなかった。

 そう思った。

 破軍を布に包み直した。

 七本を順番に鞄に戻した。残りの五本に、母は何も書いていなかった。なぜ作ったのか、何のためなのか、蓮にはまだわからなかった。

 しかし手に持つとわかることがあった。今夜の破軍がそうだった。使う時に、わかることがあった。

 蓮は手帳を机の引き出しに戻した。二重底を元に戻した。

 窓を開けると、夜の中華街の空気が入ってきた。どこかの店の換気扇から、油の匂いが漂っていた。この街はいつでも何かの匂いがした。

 蓮は窓を閉めた。

 明日、陳に話を聞こうと思った。母のことを知っているかもしれない。神崎も知っていたなら、陳も何かを知っているはずだった。

 布団に入った。

 天井を見た。

信じていた友が、向こう側にいた。

 その一文を最後に、蓮は眠った。

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