表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
四川の焔  作者: 水前寺鯉太郎
横浜中華街編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

1/52

第1話:復讐の紅き一皿

横浜中華街の表通りから一本入った路地に、その店はある。

 『翠龍門すいりゅうもん』。

 かつてはこの路地の入口まで、八角と花椒と豚骨の混じった香りが届いていた。予約は三ヶ月待ち。常連の美食家たちが「あの路地に入ると、もう帰れなくなる」と笑った名店。今は、冷えた線香の煙だけが、ひっそりと漂っている。

 蓮は厨房に一人いた。

 炎焔ほむら蓮、十四歳。母の形見の漆黒の包丁を、砥石の上でゆっくりと動かしながら、遺影を見ていた。

 母は笑っていた。遺影の中でも、ちゃんと笑っていた。

 砥石に包丁を当てる角度を、蓮は少し変えた。手が、微かに震えていた。一か月経っても、まだ震えた。料理人の手が震えることが、母はいちばん嫌いだった。

 天皇陛下お抱えの中華料理人、特級厨師。

 それが母の肩書きだった。だが蓮が覚えているのは肩書きではない。腹を空かせて店に駆け込んだ夜、「五分待ってて」と言って出てきた賄いの温かさだ。花椒の痺れと、豆板醤の深みと、何より豆腐の柔らかさ。あの一皿の中に、母の全部があった。

 その母が、一か月前に死んだ。

 過労でも病気でもない。信頼していた一番弟子の阿久津あくつに門外不出の秘伝書を盗まれ、中華街の重鎮たちに「あの女はもう味覚が壊れている」という嘘を流された。根拠のない噂が老舗の看板を腐らせるのに、三ヶ月もかからなかった。母は最後まで厨房に立ち続け、その厨房で倒れた。

 蓮は包丁を砥石の上で止めた。

 路地に、低いエンジン音が響いた。

 黒塗りの車だった。降りてきた男を見た瞬間、蓮の腹の底で何かが固まった。白いコックコートを着崩した長身。胸元に刻まれた、紅い麒麟の紋章。阿久津は相変わらず、値踏みするような目で店の外観を眺めてから、引き戸を開けた。

「よう、蓮。まだここにいたのか」

 土足のまま入ってきた。カウンターに重箱を置く音が、静かな店内に響いた。

「俺の店の麻婆豆腐だ。食ってみろ」

 蓮は立たなかった。砥石の上の包丁を置き、静かに振り返った。

「……大麒麟楼、か」

「そうだ。梁山麒麟会の後ろ盾で作った。もう予約は二ヶ月待ちだぜ。死んだ師匠のレシピを、俺が完成させてやったんだ」

 阿久津の目が、一瞬だけ何かを避けるように動いた。遺影から、目を逸らした。

 その一瞬を、蓮は見た。

 蓮は重箱の蓋を開けた。

 湯気が上がる。深紅の油が揺れる。見た目は悪くない。だが、その香りが鼻に触れた瞬間、蓮の眉が僅かに寄った。スパイスの香りの奥に、何か別のものが混じっていた。甘ったるく、脳の奥に直接触れようとするような、不自然な芳香。

 蓮華で一口、掬った。口に含む。

 舌が、拒否した。

「……不味い」

「なんだと」

「これは料理じゃない。魔睡花ますいかだ」

 阿久津の目が細くなった。

「客の味覚を麻痺させて、美味いと思い込ませる。裏料理界が使う禁忌の香辛料だろう。あんた、本物の味で勝てないから、これに頼った」

 しばらく間があった。

 それから阿久津は笑った。

「バレたか。でも、これが結果を出してる。お前の母親みたいに、正直なだけじゃ食っていけないんだよ」

 蓮は立ち上がった。

「一つだけ作る。食え」

 阿久津が何か言うより先に、蓮は厨房に入った。

 コンロの火をつける。鉄鍋を乗せ、底が煙り始めるまで空焚きにする。その間に、大蒜と生姜をまな板に置いた。包丁を持つ。

 手の震えが、止まった。

 不思議だった。厨房に立つと、いつも止まった。母の言っていた通りだった。「料理が怖いのを治す薬は、料理することだけよ」。

 刻む。大蒜の断面から滲む汁の匂いが手に移る。生姜の繊維が包丁に吸い付く感触。薄く切った生姜を更に細く揃えていく。一本一本の太さが、指の感覚で均一になっていく。

 鍋が温まった。油を注ぐ。煙が立ち始める寸前で、豆板醤を入れた。

 油が豆板醤を抱いた瞬間、香りが炸裂した。

 辛みと発酵の匂いが混ざり合い、厨房の空気が変わった。阿久津がカウンターの向こうで、思わず鼻を動かすのがわかった。これは魔睡花ではない。本物の、地を這うような香りだ。

 挽肉を入れる。脂が弾け、肉の旨みが油に溶け出す。木べらで崩しながら火を通す。鍋を煽る。炎が鍋の縁を舐め、油と肉汁の混じった滴が一瞬だけ光る。

 豆腐を入れた。

 崩さないように、しかし臆さずに。豆腐は強火を怖がってはいけない、と母は言っていた。「優しく扱うのと、遠慮するのは違う」。

 最後に、自家製の花椒を振る。

 鍋を下ろした瞬間、香りの層が変わった。麻の痺れが、辣の熱の上に静かに広がった。

 皿に盛る。深紅の中に、白い豆腐が揺れていた。

「食え」

 阿久津は笑いながら蓮華を伸ばした。一口、口に入れた。

 何秒か、沈黙があった。

 阿久津の表情が、少しずつ変わっていった。

 笑みが消えた。眉間の皺が消えた。目が、どこか遠いところを見た。

 蓮にはわかった。阿久津が今、どこに戻っているかが。

 この麻婆豆腐は、母が阿久津に作っていた賄いの味だ。蓮が子供の頃、修行中の阿久津が腹を空かせて厨房に来るたびに、母が「五分待って」と作ってやっていた、あの一皿。蓮は隠れてその作り方を全部、目に焼き付けていた。

 阿久津の肩が、落ちた。

「……俺は」

 声が、掠れていた。

「梁山麒麟会に言われたんだ。師匠の秘伝書を持ってくれば、本物の料理人にしてやると。俺は……師匠より上に行きたかった。それだけだった」

 蓮は何も言わなかった。

「噂を流したのも俺だ。師匠の味覚が壊れているって。全部嘘だ。師匠の料理は、最後まで……最後まで、本物だった」

 阿久津は震える声で、麒麟会が中華街の地下で行っている実験のことを話した。魔睡花の製造。味覚の支配。街全体を「依存させる」計画。

 蓮は聞いた。全部、聞いた。

「わかった」

 蓮は阿久津から目を離し、遺影に向いた。

「出ていけ」

 阿久津は何か言いかけ、黙った。重い足音が遠ざかり、引き戸が閉まった。

 静かになった厨房で、蓮は麻婆豆腐をもう一皿よそった。

 カウンターを出て、遺影の前に置いた。

 湯気が、線香の煙と混ざりながら、ゆっくりと天井に消えていった。

 路地の外は、夜だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ