最終話
リズミカルな蒸気エンジンの音が心地よい。
パックはムカデを走らせ、山道を登っていた。傾斜はきついが、ムカデの六対の足はそれをものともせず、快調に登っていく。
空気が冷たい。吐く息が白かった。
ためらい山脈──。
まさにその名の通り、登山そのものをためらわせるような急峻な険しさである。
見上げると、山肌はまるで垂直に切り立っているようであり、山頂には万年雪が白く日光を反射している。
こんなところに人が住んでいるのだろうか。
樹木に変身したファングという少女も、また法務官もそのことを言っていたからには、この山脈のどこかに住んでいるのだろう。
謎の男爵にはおおいに興味を抱かせられたが、パックの目的はそれにはない。ただただ、この山道を越え、ミリィを探す、その一点に絞られていた。
高度があがるにつれ、まわりには緑がとぼしくなっていく。森はとうに消え、生えているのは背の低い潅木と、岩にへばりつくようにしている苔類だけだ。だが、それでもまだこのあたりには生命の気配があった。
パックは眉を寄せ、行く手を見わたした。
赤茶けた岩がそそり立ち、下界からの湿気を帯びた空気が上空で急激に冷やされ、雲をつくっている。その姿は真っ青な空にねじれ、たなびき、まるで伝説の竜のようである。
「パック様、大丈夫ですか?」
隣に座るマリアが、心配そうな声で、パックに話し掛けた。
「心配するな……」
パックはマリアに向かって、言葉を絞り出した。無理やり、笑顔を作って見せる。
マリアには強がってみせたが、事実、パックは高度が上がるにつれ、体調の異常を感じていた。
頭が重い。
背中から首にかけ、ずしんと鉛のような重みを感じていた。目の前の景色が、ぼんやりと霞の向こうのように揺れている。
実はパックは、高山病にかかっていた。
ムカデを、全速力で動かしていたせいだ。
もっと高度に体を慣らすため、ゆっくり高度を上げるべきだったが、登山の経験がないため、無我夢中に突き進んでしまった。
もともとパックは山育ちだが、故郷のロロ村と、この山脈を越える高度は、段違いだった。ロロ村など、ここと比べれば、平地といっていいほどだ。
もっとも、高山病の知識があっても、パックは自分を抑えられたかどうか、疑問だが。
ひゅっ、と一陣の風が吹き上げ、パックの目の前で白い花びらのような雪片が踊った。
気が付くとあたり一面、真っ白な霧におおわれている。いや、霧というか、これは雲だ。いつの間にか、ムカデは雲の中に突っ込んでいた。
びゅうううう……。
刃物のように冷たい風が真正面から吹き付け、無数の雪片が襲ってきた。本格的な雪になってきた。周囲を見回すと、すでに完全に雪景色だ。
ざく、ざく、ざく、と、ムカデの六対の足が、単調に雪面を踏み分けている。
「これじゃ、迷ってしまうな」
パックはつぶやいた。
真っ白な霧、白い雪面、どちらを向いても、白い闇がひろがっている。
パックはムカデの動きを止めた。
とたんに、静寂が覆いかぶさる。
聞こえるのは風の音のみ。
かちかちかち……。
何の音だろうと思ったら、あまりの寒さに、パックの歯が鳴っているのだ。
寒い!
しんしんとした冷気が、パックの全身を掴んでいた。
パックはぶるっと震え、両腕でじぶんの体をぎゅっと抱きしめた。
マリアがパックに身を寄せてきた。
「このままではパック様が死んでしまいます!」
マリアの口調には、懸念がふくまれていた。マリアの体の表面から、熱が伝わってくる。蒸気を使っている。
「やめろ……マリア……。蒸気を無駄遣いするな……!」
パックはマリアを押しのけようとしたが、マリアはますます体を密着させてきた。パックの耳にマリアはささやいた。
「ムカデの蒸気を、わたしに注入なさい! ムカデの蒸気機関の熱を、わたしを通して、パック様を暖めますから」
パックは驚いて、近々と顔を寄せてきたマリアの顔を見詰めた。
「そんなことしたら、きみが壊れてしまう!」
マリアは顔を横にふった。
「大丈夫です! わたしの機構で、ムカデの蒸気を処理できます。早く!」
必死の説得に、パックはしぶしぶ従った。
「わかった……でも、無理はするなよ」
ムカデのボイラーから、マリアの体に注入管を接続する。火炉に燃料をありったけくべると、ボイラーの圧力が高まってきた。
「さあ、いまのうち、この山を越えましょう!」
マリアに励まされ、パックはふたたび、ムカデのアクセルを踏み込んだ。
がしゃ、がしゃ、がしゃ、とムカデの六対の足が、逞しく雪面をかき分けていく。
「どっちへ行けばいいんだ?」
風音に負けないよう、パックは大声を上げた。
するとマリアがすっ、と腕を上げ、前方を指さした。
「こちらの方向です。霧が出る前、周囲の地形を記憶しておきました」
マリアの指示に従い、パックはムカデの鼻先を向けた。ムカデの足の感覚から、確かに山肌を登っていることがわかる。
ぎゅっと密着しているマリアの体から、温かみが伝わってくる。ムカデの蒸気が、マリアの体を熱しているのだ。
大丈夫かな?
パックは心配だった。
マリアの体には、いままでないほど高い圧力の蒸気が充満している。マリアは平気な様子だが、その体内の機械には、二コラ博士も計算していないほどのストレスがかかっているはずだ。
どうかこの山を越すまで、マリアの内部が保つように……と、パックは祈っていた。
がくり! とムカデの足が止まり、パックは急停止の反動で、前方に投げ出された。
「パック様!」
マリアが腕を伸ばし、投げ出されたパックの襟首をつかんで支えた。
「ムカデの蒸気が止まった……」
パックは唇をかんだ。
ついにムカデの燃料が尽きたのだ。
火炉にはもう、熱は1カロリーも存在しない。触ってみると、すっかり冷え切っていた。
すでに夜が迫っていた。
パックは絶望的に辺りを見回した。
試しにムカデの照明を点灯してみる。
が、反応はない。
蓄電池の電気も、残量はゼロだった。
立往生だ。
「野営しましょう」
マリアは冷静に提案してきた。
「そうだな。明るくならないと、ムカデの燃料も探せないからな」
パックはうなずき、ムカデから地面に降り立った。暗いが、足元くらいはなんとか判別できる。降りると、ざく! と固くしまった雪面に靴がめりこんだ。
手探りでムカデから荷物を降ろすと、野営の準備を始めた。風がやんでいるのがありがたい。
パックを手伝おうとしたマリアが、ふらっ、とよろめいた。
「マリア!」
パックは驚いて声を上げた。
マリアがこのような様子を見せたことは、いままでただの一度もない。
「大丈夫です」
マリアは単調な声で返事をした。
が、言葉と裏腹に、マリアの足元は覚束なく、一歩、踏み出すたびに、ぎぎぎ……と微かに軋み音が聞こえてくる。
ついに、どた! と、マリアは前のめりになって倒れ込んだ。
「マリア!」
パックはマリアの体に屈みこんだ。
彼女の背中に耳を押し当てると、微かなモーター音が聞こえ、時計のようなカチカチカチ、という規則正しい歯車のたてる音がしている。
パックは首をひねった。
二コラ博士なら、マリアの今の状態について判別ができるのだろうが、パックはお手上げだった。これが異常なのか、正常なのかさっぱりわからない。
耳を押し当てているマリアの表面が、じょじょに冷えてきた。
パックは愕然となった。
マリアの蒸気が消えかかっている!
絶望に、ムカデを振り仰いだ。
ムカデの燃料はゼロだ。
マリアに充填しようにも、方法がない。
「マリア、死ぬなーっ!」
暗闇に、パックは叫んでいた。
蒸汽帝国第一部完