第一話 魂昇天
「最近はほんと増えたよなぁ」
「ん? ああ、そうだな……。ほらみろよ、言ってるそばから魂昇天たぁ景気がいいねぇ」
「景気は関係ねーよ」
「なんでだよ! 昇天札は安くねーぞ!」
「そりゃそうなんだが。……にしてもあれで何回目だ?」
「わかんねえ。十を数えた時点でやめたからな……今日だけで、もう倍以上は昇天して来てそうだよな」
「そんだけやり直したい欲求が強いんだろ?」
「まあ、俺たちには関係のないことだな」
「だな、俺たちゃなんせ千年樹の門番てえ、名誉ある仕事についてるもんな!」
「おーよ! ガハハハハ!」
彼らの名前は左が「もん」、右が「ばん」という名で、千年樹に眷属として認められた由緒正しい白鬼であった。
空の色は灰汁を流したような濁った青で、どこか現実離れした硬質な光を放っている。その虚空を、まるで紙屑のようにひらひらと舞いながら、一つ、また一つと白い光の塊が千年樹へと吸い込まれていく。
それがいわゆる昇天札の力。現世のしがらみに疲れ果てた者たちが、一縷の望みを託して懐から取り出す八文銭代わりの特等席切符だ。
その光の塊の一つに包まれ、猛烈な風圧に顔面を歪ませていたのが元貧乏浪人の砌であった。
江戸の片隅、草鞋のすり切れた浪人街の長屋で、明日の米櫃の底を突っついていたはずの男である。
懐にあったのは、向こう辻に座る怪しげな行商人から「これ一枚で人生一発逆転、どこぞの剣客や貴族に生まれ変われる」と言い含められて買った木札が一枚。
借金の形に刀を取り上げられ、代わりにもらったのは錆と刃こぼれのひどい粗悪品。いよいよ明日は野垂れ死にという土壇場でやけくそになり、その札を割った途端であった。
視界が真っ白に染まり、気付けばこの奇怪な空の旅の真っ最中というわけだ。
「おい、また一匹流れてきたぞ! 今度のは消えずに落ちてくるみてーだ。こりゃ珍しい!」
「やけに古びた着物だな。おい、そこのお前! 着地はしっかりと受け身をとれよー!」
もんの親切なのかおちょくりなのか分からない野太い声が遠ざかり、砌の身体は重力を無視したスピードで地面へと激突した。
――ドスン、という面白みのない乾いた音。
衝撃はあったものの、不思議と骨の一本も折れていない。砌はあたり一面真っ白な地面に転がり、ゆっくりと上体を起こした。
「ぺっぺっ、口の中に土が入っちまった……って、これ塩じゃねえか! しょっぺえなおい、ぺっぺっ。……それにしても、ここは一体どこだ……?」
見回せば、見慣れた江戸の長屋の風景は微塵もなく、どこまでも広がる見知らぬ白い大地と、空を覆うようにそびえ立つ尋常ではない巨木の姿があった。よく見ると遠くには緑色の木々や山々も窺える。
「これが空を飛んでいる最中、頭に流れ込んできた着地点にある千年樹というやつなのだろうか」
千年樹を見上げながら身体を軽く動かしてみる。
浪人街で培った剣の構えをとってみれば、長年空腹で重かった手足が嘘のように軽い。それどころか、周囲の草木が揺れる音、遠くで小鳥が羽ばたく気配、土の下を這う虫の微かな足音までが、妙にはっきりと耳に流れ込んできた。
「なんだ、この感覚は……。まるで、周囲のすべてが手に取るようにわかるぞ」
これが異世界転生というやつの特典なのだろうか。
砌は腰に差されたままの、刃こぼれした太刀と錆びついた脇差に手をかけた。相変わらず切れ味は期待できそうにないが、不思議と己の肉体のキレは絶好調である。
貧乏浪人として泥水をすすり、夜盗の真似事すら一歩手前まで追い詰められていた、さっきまでの自分とは違う。ここが剣と魔法の巡り合わせというやつが支配する世界らしい。
「ふっ……。人生やり直しというには、少々荒唐無稽だがな。それより生まれ変わると聞いたからには赤子からかと思えば、変わらぬ我が身ではないか。騙されたか。そもそもあの怪しい行商人すら知らなかった節もあるな……まあいい、俺が俺ならそれでよいか」
砌は自嘲気味に笑い、あてどなく歩き出した彼の背後では、白鬼のもんとばんが、また次の昇天者を指差して腹を抱えて笑い声をあげている。
見知らぬ大地を踏みしめながら、砌はかつてないほどに研ぎ澄まされた意識に気を巡らせていた。風の流れ、草の匂い、そして遠く離れた場所で蠢く生き物たちの気配までが、頭の中で鮮明な地図として組み上がっていく。
これが自身の授かった力なのだとすれば、この荒野を生き抜くための武器としては十分すぎるものだった。長年の貧乏生活で培った忍耐力と、浪人街で磨いた剣術、そしてこの異常なまでの知覚能力。それらが一つに噛み合い、奇妙な高揚感を呼び起こす。
「なあ、この近くに人の集まる町はあるかい?」
砌は振り返り、次々やってくる昇天した魂を眺めている二人の白鬼に向けて声を張り上げた。
「それならこの道を道なりにまっすぐ進みな。四半刻も歩けば見えてくらあ」
もんが振り向き、指をさして教えてくれた。
「気長に風景でも楽しみながら行けばいいさ。達者でな。ガハハハハ!」
ばんが、もうお前には興味ないとでも言うように空を飛来する新たな魂を見つけて声高に笑い出す。
「あいつらほんとに懲りねえなあ。ワハハハハ!」
再び乾いた笑い声を背中に聞きながら、砌は前を向いた。一文無しで流れてきた元貧乏浪人の砌は、その鋭敏になった五感を頼りに、噂に聞いた剣と魔法の地平へと一歩を踏み出したのだった。




