第二話 レベルのインフレ半端じゃない
「くそっ、次から次へと……!」
人類未踏破ダンジョン【深淵の奈落】。
その十階層で、俺は押し寄せる絶望の群れと対峙していた。
目の前に立ちはだかるのは、第十階層のボス【死霊の幻鳥】。
「ん、なんだあれ?」
俺はその怪物の頭上に浮かぶ、光で書かれた【神聖古代文字】を見つける。
『Souvenir de World』
「フランス語と英語、直訳すると、記憶の世界……いや、世界の記憶、か」
その瞬間。
「ギ、ジ、ガガガガガガガガッッッ!!!」
幻鳥の頭上の文字が深紅に染まり、空間そのものが処理落ちしたように激しく明滅する。
ボスの巨体が内側から急膨張を始めた。
パツパツに張り裂けた皮膚の隙間から、苦悶に歪む人間の顔と、ドロドロに溶けた黒い呪詛の濁流が、凄まじい圧力で噴き出す。
文字の意味を認識されたことで、システムの安全弁が壊れ、埋め込まれた過去の記憶がリミッターを解除して暴走を始めたのだ。
逃げ場のない十階層の部屋を、腐肉と強酸の津波が埋め尽くしていく。
掠れば災厄級の魔獣ですらも寝言解ける絶望の奔流。
だが、その破滅的な光景を前に、俺の脳はかつてない程冷徹に冴え渡っていた。
世界の記憶……。つまりこの目の前のバケモノは、それ自体が一つの『世界』そのものってわけだ。
だったら、俺がやることは一つだけだ。
目前まで迫るグロテスクな肉の津波に向け、俺は無防備に右手を突き出す。
その手のひらに、触れたもの全ての命を腐らせ、絶やす、絶対的な終焉の力を宿して。
パサッ、と拍子抜けするほど静かな音が響いた。
俺の右手が、迫り来る腐肉の津波の先端に触れた瞬間。
ドロドロとした肉塊の津波は、触れられた場所から一瞬にしてドス黒く壊死し――次の瞬間には、さらさらとした灰へと変貌した。
腐絶の呪いは、津波を逆流するように幻鳥の巨体へ一瞬で伝播していく。
「ガ、ア……ア……」
形を保てなくなった【死霊の幻鳥】が、肉の一片、血の行ってきすら残さず、ただの灰の山となって床に崩れ去った。
あとに残ったのは、静寂と、部屋の床を真っ白に染める、夥しい量の灰だけだった。
「これで終わ――」
その瞬間、視界が真っ赤に染まった。
「ぐ、あ、ガッッッ……!?」
脳髄に、直接ドス黒い高電圧を流し込まれたような激痛。
頭蓋骨の内側から脳みそを容赦なく搔きむしられる感覚に、俺はその場に両膝を突き、自身の頭を壊れるほどの力で搔き抱いた。
耳鳴りなんて生易しいものじゃない。
何千、何万という生物の、生々しい断末魔の絶叫が脳内で一斉に爆発しているのだ。
――熱い、痛い、死にたくない、なんで俺が、体が、魂が、奪われる――
鼻の奥にツンと酸っぱい血の匂いがこみ上げ、ポタポタと床の灰に赤黒い液体が滴る。
あまりの苦痛に眼球が裏返り、過呼吸で灰が引き裂けそうだ。
これは目の前のボス――かつて死んでいった者たちの『怨念』を無理やり詰め込まれていた【死霊の幻鳥】が保持していた記憶。
「はっ、ガハッ……ふぅ、う、あ……」
どれだけの時間が経っただろうか。
滝のような冷や汗を流し、地交じりの泥のような唾を吐き捨てながら、俺はなんとか立ち上がった。
頭痛の残滓に顔を歪めながらも、俺は確信する。
……なるほど。そういうシステムか。
確信は、その後の探索で証明へと変わっていった。
二十階層ボス【悪魔の巨像】を灰に変えた時。
脳内に流れ込んできたのは、世界の『悪意』の記憶。
他者を裏切り贄にして生き延びようと人間の話。「君を守る」と誓った直後に仲間の膝を踏み抜き、自分が逃げるための動く餌にした戦士。「あいつは自ら犠牲になった」と涙ながらに嘘を吐き、遺族から感謝されながら口元を歪ませる男の話。見捨てた仲間が完全に息絶えるのを物陰から見届け、安堵する裏切り者の記憶。
――そんな吐き気を催すような無数のエゴと裏切りの光景が、終わりのない濁流となって脳内を埋め尽くしていく。
そのどれもが人間だった。
三十階層ボス【瞬雷の魔動躯】を灰に変えた時。
流れ込んできたのは、世界の『技術』の記録。
かつて神の領域に触れようとし、システムの逆鱗に触れて滅ぼされた超古代文明の全貌。天をも穿つ魔導タワーの建造。星の命を吸い上げて稼働する禁忌の永久機関。空を埋め尽くす鉄の軍勢と、それらが一瞬で塵へと還された神罰の光景。
――そんな、傲慢な進化と破滅の歴史が、終わりのない濁流となって脳内を埋め尽くしていく。
そのどれもが人間だった。
◇ ◇ ◇
最下層(一千階層)ボス【終焉の神殺し】を灰に変え、世界が隠し持っていた全ての悪意、絶望、歴史をその脳内へ完璧に記録し終えた時。
俺のレベルは『Lv.13829045』となっていた。
その莫大過ぎる情報量と質量に、人間の器が耐えられるはずもなかった。
みしり、と頭蓋の奥で悍ましい破壊音が響く。
耳や目、鼻、あらゆる皮膚の隙間から、ドロドロとした黒い血が噴き出した。
脳漿が沸騰し、頭骨を内側から押し広げていく。
バキバキと音を立てて全身の骨が歪に折れ曲がり、肉を引き裂いて鋭い漆黒の結晶が突き出す。
内臓はドロドロに融解して沸き立ち、世界中のドス黒い記憶と混ざり合いながら、人間のものではない禍々しい偉業の器官へと再構築されていった。
やがて吹き出した血は乾き、突き出た決勝は肉の内側へと静かに沈んでいく。
歪んだ骨も、融解した臓物も、全てが腐絶の魔力に均され、グズグズと元の形へと戻っていく。
あとに残されたのは、傷一つない、恐ろしいほどに滑らかな人間の肌。
あれほどの狂気的な破壊を経てなお、外見はかつての自分の姿のままだった。
見かけは、何一つ変わらない。
ただ、その皮の下にある中身だけが、世界の全てを終わらせる『絶望』に変わっていた。
俺は静かに目を瞑り、脳内に流れ込んできた全ての世界の記憶を見つめる。
そこに映っていたのは、保身のために仲間を突き落とし、果てなき欲望のために命を弄び、嘘と裏切りを積み重ねてきた人間の本性。
そして、その人間どもを展から見下ろし、全ての生物を生きた粘土細工のように捏ねくり回す、神の悍ましい本性。
都合が良ければ繁殖を煽り、虫のように群がらせて生かす。
都合が悪くなれば、気まぐれに世界ごと肉のスープのようにドロドロに溶かし、何億もの絶叫ごと呆気なく抹殺する。
命を玩具として消費し、その苦悶の汁を啜りながら世界を操作し続ける神の、
底知れない悪意。
千の階層を巡り、隠された全ての真実を把握し終えた今、確信した。
「――ああ、本当に、クズばっかりだ。……人間も、世界も、神さえも」
救う価値など、最初からどこにもなかったのだ。
呟いた声には、怒りも憎しみもなかった。
ただ、害虫を駆除するかのような、絶対的な冷徹さだけがあった。
全人類を、そしてこの世界を操作する神さえも、独り残さずこの世から消し去る。
そう決意した俺の足元から、全てを滅ぼす絶望の魔力が、世界を揺るがすように溢れ出ていた。




