205. 冷たい悪意(1/6) - 歪んだ愛情
ローゼスタット王都郊外の町、シュミフ。あまり規模の大きくないこの町にはとある貴族の屋敷があった。評議会に名を連ねる家だ。町が小規模ということもあって普段は静かな場所だったが、この日は人が多いせいでいつもの落ち着きは薄れ、代わりに物々しさが漂っていた。
その人手のほとんどが、王都からやって来た王族警護の騎士団だ。屋敷をぐるりと取り囲むように騎士が配置され、襲撃に備えて目を光らせている。彼らは王族――ローゼスタット王国王子・アルノーの護衛だった。目的地までの中間地点にあるこの場所が、アルノーの今日の宿。警備の都合上公にはしていないが、これだけ騎士団が守りを固めていれば、周りは嫌でも誰がいるのか分かってしまう。
そのため警護は襲撃を想定したものだった。王族の滞在が誰にも知られていないなどという楽観的な考えはない。
いつもどおりの移動だった。騎士団にとっても、アルノー本人にとっても。
だからアルノーも警戒していた。部屋に備え付けの浴室で身体を洗う際もすぐ傍に銃を置き、いつ襲撃が来てもいいように備えている。手伝いはいない。アルノー自身が好まないからだ。
手早く身支度を整え、銃を取る。その間、特に異変はない。一番近い護衛は部屋の外、しかし彼らが動いた気配もない。
これもいつもどおりのことだった。警戒はするが、実際にその身が危険に晒されることは滅多にない。護衛騎士は軍とは違った養成課程と選抜基準により選ばれているが、そのやり方に適応さえできれば、軍でも精鋭と呼ばれるような実力を持っているのだ。
アルノーは浴室を出て部屋の中を数歩進むと、ふと足を止めた。目の前にあるのは立派なベッド。そしてその奥にはリビングスペースがある。その二つのある空間は完全には仕切られておらず、扉はない。リビングスペース側にある部屋の外へと繋がる扉はここからでは見ることができないが、ほとんど死角なく部屋の全貌を確認することができる。
全体を見渡しても、異変はない。アルノーは腰の銃に手を当てながらベッドを通り過ぎ、リビングスペースへとやってくると、今まで死角となっていた部屋の扉の方へと歩いていった。
「異常は?」
部屋の外にいる護衛に問いかける。「異常ありません」扉越しに聞き慣れた声が返ってくる。「何か問題でも?」続いた問いに「いいや」と答えると、アルノーはそっと扉を開けた。
「何もないよ、見張りご苦労さま。朝までしっかり頼むね」
そう護衛に笑いかけ、扉を閉める。すっと笑顔が消える。銃から手を離し、ベッドスペースの方へと歩いていく。
「――使えない護衛だな」
「ッ!?」
突然の声にアルノーが振り向けば、そこにはソファに座る若い男の姿があった。状況を理解しきる前に咄嗟に銃を構える。つい今しがたまで誰もいなかったのに何故いるのか。この男は何者か――考えながら銃口を上げ、しかし男に狙いを定める直前に、アルノーは相手の正体を知った。
「兄上……? 兄上!」
そこにいたのはジルだった。厚着はしているが、顔は隠していない。四年ぶりに見る兄の姿にアルノーは心底嬉しそうに表情を明るくしたが、すぐにはっとしたように口を噤んだ。
「騒いじゃいけませんね。護衛が来てしまう」
片手で胸を押さえ、もう片方の手で銃をしまう。そんなアルノーの姿を見て、ジルは「来なくていいのか?」と問いかけた。
「だって邪魔じゃないですか。折角兄上が手間をかけて僕に会いに来てくださったのに」
喜びにアルノーが頬を紅潮させる。自分の記憶にあるとおりの弟の振る舞いに、彼の所業を知っているジルは眉を顰めた。何故ならアルノーはケイラの死に関わっているからだ。それも意図しないものではなく、恐らくは故意。その確信があるからこそこうしてやって来たのに、最後に会った頃と何も変わらない対応をされれば当然不快感がある。
だがアルノーはそんな兄の表情が目に入らないようで、「凄いなぁ……」と恍惚とした表情を浮かべていた。
「一体どうやってこの部屋までいらっしゃったんです? あの手配犯は一緒にいるんですよね。だとしても彼一人の力だけじゃどうにもならないはず……ならやっぱり兄上が凄いんだ」
満面の笑みだった。熱に浮かされた笑みだ。
「お前はもう少し自分の身を案じたらどうだ」
ジルが吐き捨てるように言えば、アルノーは不思議そうに首を傾げた。何も分かっていないようなその反応に、ジルの眉間の皺が深くなる。
「お前が姉上を殺したんだろう。キノクトベルで、ヒルデルと手を組んで。薬の輸送を阻むことで彼女を殺した」
唸るように、しかしはっきりと。曖昧な返事ができないよう言葉を選べば、アルノーは「ああ!」と思い出したと言わんばかりに声を上げた。
「……否定はしないんだな」
「だって事実ですから」
にこにこと笑って答えるアルノーに悪びれる素振りはない。それがまた、ジルの気持ちを逆撫でる。
「ならあの紛争が長引いていたのは、ヒルデルが手を回していたからか」
確認するように問えば、アルノーは「ええ」と頷いて話し出した。
「二、三週間引き延ばして欲しいと言ったらすぐにやってくれました。しかもしっかり兄上に怪しまれないようにやってくれるんです、なかなか良い取引ができましたよ」
「お前の小芝居に気付けなかったとはな……」
ジルは当時の状況を思い返して苦々しい顔をした。自分はただキノクトベルにアルノーを派遣しただけでなく、その対応の遅さに焦れて自らが直接出向くことまでしたのだ。それなのに弟の企みに気付けなかったのは、通常の思考ができないほどあの頃は余裕がなかったということ。もしくは、未熟だったせいか。
だがジルには理由などどちらでも良かった。結局自分の落ち度であることには変わりない。その事実を前に、当時の真相が分かって良かったなどとは到底思えない。
「無理もありません。兄上を騙すことは難しいと思ったので、僕は敢えて詳細を聞かないようにしていたんです。実際に奴らを追う動きもしてみましたしね」
「……連中の望みは?」
「兄上を弱らせたかったみたいです。弱味を聞かれたので、そういうことならと僕から提案しました。でも失礼しちゃいますよね、彼らは僕が兄上を裏切ると思っていたんですから。『邪魔な兄を排除してやるぞ』だなんて、兄上が邪魔なわけがないのに」
「どの口が言っている」
ジルの声に怒りが滲む。平静でいようとしているのに、元凶の態度がその努力を嘲笑う。それでもジルは剣に伸びそうになる手を制しながら、未だ機嫌良さそうにしているアルノーを睨みつけた。
「姉上を殺そうとした時点で、お前は俺を裏切っている」
お前の態度は矛盾しているぞと言葉に込めて。しかし、アルノーの反応はジルの期待したものではなかった。
「何を仰ってるんです?」
きょとんと、まるで無垢な子供のように。甘い顔立ちはより幼く、誰が見ても悪意なんて微塵も感じ取れないような表情でアルノーが首を傾げる。
「あの人は兄上の邪魔になっていました。だから殺して差し上げたんですよ」
「ッ……お前……!」
その瞬間、ジルの全身を怒りが走った。身体中が熱くなり、今にも武器に手をかけてしまいそうな自分を必死に押し留める。
アルノーが罪悪感を抱いている様子はない。それどころか善意でやったのだと信じているようにしか見えない。それが一層、ジルから理性を奪う。怒りと、そして混乱と。悪意のある相手とは違って、自分のしたことが悪いと一切感じていないアルノーに気持ち悪さを感じる。
更には、今の表情も。ジルが怒っていると理解しているはずなのに、アルノーは心底幸せそうに顔を蕩けさせているのだ。
「ああ、嬉しいなぁ。兄上がそんなふうに僕を見てくれるだなんて」
表情どおりの言葉。思い出すのは弟の歪んだ性格。だが見誤っていたと、ジルの口中が苦くなる。
アルノーが兄である自分に心酔しているのは知っていた。自分が姉に依存したように、弟もまた自分に依存しているのだと思っていた。
しかしそれは、自分がアルノーよりも優位な存在だと周りに認識されることで成り立っているものだと考えていた。アルノーは周囲に認められることを望む。そのために自分のことも利用しているのだと、優秀な兄を支える謙虚で出来た弟だと思われるためだと、そう考えていたのだ。
だから兄の価値を下げる姉を嫌った。兄の周りからの評価がそれ以上悪くならないように、姉を排除した。兄が優秀であればあるほど、自ずとそれを支える自らの価値も上がるとアルノーは信じているはずだったからだ。
それが、兄の陰に隠れてしまった弟の取れる唯一の方法だと。評議会が次の王にと望む兄を貶めることなく、自分の存在価値を周りに証明する方法なのだと。自分を見ない両親を、母親を振り向かせる方法なのだと、そう考えていたから。
だがこれは、それだけではない。目的のために利用しているだけであれば、こんなふうに自分の一挙一動に興奮することなどない――考えていたよりもずっと歪んでいた弟の姿に、ジルは薄ら寒いものを感じた。
ただ、ジルのその感情はやはりアルノーには伝わらない。見ていないのだ。相変わらずうっとりとしたアルノーの目は、ジルに向けられているのに別の場所を見ていた。
「僕、ずっと後悔していたんです。やり方を間違えてしまったって。本当ならあの後の兄上は何の行動も起こせないほど憔悴しきっているはずで、僕がそれを傍で支える予定でした。だけど兄上は去ってしまった……探したかったんですが、評議会に邪魔されてしまって。だからフィーリマーニに兄上らしき人が現れたと聞いた時は天にも上る気持ちだったんです! しかもこうして会いに来てくれた……ここまで来るのは大変だったはずなのに、そんな手間暇をかけてまで僕に会いに来てくれた! やっぱりあの時姉上を排除したのは間違いじゃなかった!」
歓声がジルの鼓膜を引っ掻く。
混乱はもう収まった。胸にあるのは嫌悪と憎しみ、それから憤怒。きつく拳を握り締め、その場に留める。今は感情のままに動くべきではない。この感情に身を委ねてしまえば、ケイラの大事にしていたものが帰らなくなる――ジルはどうにか感情を抑え込むと、「俺にはお前が理解できない」と静かに口を開いた。
「兄上……」
「だがお前は、俺を敵視してはいないんだな?」
「勿論です! だって僕が今やっていることは全部兄上のためなんですから! 国が豊かになった時、全部兄上の指示だったとすれば兄上は戻って来ることができる! 今すぐには難しくとも、より良い方法が兄上には思いつくはずです!」
それが最善だとばかりにアルノーが言う。その態度に、内容に、ジルはただただ不快なものだけを感じていた。
自分ができた為政者だとは思わない。それどころか状況によっては悪と断じられかねないことをしてきたと自覚している。しかしそんな自分にも、今のローゼスタットの状況はろくなものではないと感じることができていた。自分の選択でそうなってしまう可能性があるのなら、きっと避けていただろうと想像もできる。
そんな愚策も、孤児院の子供達の失踪も、全てが自分のためだと言われてジルは腸が煮えくり返るような気持ちになった。
「……俺のためか」
苦々しく呟けば、アルノーがうんうんと頷く。まるで褒められるのを待っているかのようだ。ジルはそれを見なかったことにして、「だったら俺の言うとおりにしろ」と低い声で唸った。
「何か考えが?」
「ヒルデルに渡した孤児院の子供達を全員連れ戻せ。連中は彼らを使い捨ての道具にするつもりだ」
「孤児院……ああ、管理区の!」
アルノーにとっては取るに足らない問題なのだと、その態度が物語る。しかしジルが何も言わずに睨み続ければ、アルノーはこてんと首を傾げた。
「何のためですか?」
「何?」
「だって管理区の子供達なんて別にどうでもいいじゃないですか。いてもいなくても同じなんです。国の金で養い続けるくらいなら、ヒルデルに有効活用してもらった方がいいでしょう。そんな存在を連れ戻すことに何の意味があるんですか?」
全く分からないとばかりにアルノーが問う。
「自国民を余所に取られることが問題ないと?」
「そうは思いません。ですが彼らは国民ですか?」
思ってもみなかった発言に、ジルは僅かに目を見開いた。
「国は民を守りますが、民はその対価を支払わねばなりません。税であれ兵力であれ、その対価を支払っている者のみ国は守る義務を負うべきです。しかし管理区にいるのは税も収められず、兵力にもなれない者達だけ。国が一方的に養っているだけの存在は、果たして国民と言えるのでしょうか」
「お前……本気で言っているのか? これまではともかく、最近管理区にやってきた者達はお前の政策のせいで職を失ったんだぞ」
「メッキが剥がれただけでは? 管理区に増えた人間は代替製品の流入で簡単に職を失ってしまう程度の能力しか持たない者達です。役に立たない人間は必要ない――兄上の考え方でしょう? そんな人種の子供達がいなくなったところで別に困ることなんてないかと」
その言葉は、アルノーが国民を篩にかけたことを意味していた。ヒルデル製品の流通をどんな意図でやったかは定かではないが、それによって起こりうることは事前に予想できていたはずで、そしてその結果に彼は満足している。自分に不要な人間のことを全く気にしない弟の考え方に、その犠牲者の一人にケイラがいることを思い出し、ジルの拳が震える。
「お前にとっては姉上も同じか」
地を這うような声で、ジルがアルノーを責める。
「国に邪魔者扱いされたあの人には何の力もない。他国に嫁いだところで、当初の相手だったら姉上が力を持つことはなかった。ルーデシアに嫁いでいたら違ったかもしれないが、氷の病に罹った彼女にその未来は訪れない……だから姉上を排除したのか」
アルノーにとって姉とはその程度の存在なのだ。国民と見做していない者達と同じ、生かしておいても何の役にも立たない人間。姉弟としての情がないだけではない、そもそもアルノーは姉を同胞だと、人だと考えていなかったのだ。
そうジルは理解したが、しかしまだ納得はいかなかった。
「だが何故殺す必要があった? 姉上が回復していたとしても、国を追われることは確実。その上評議会も人知れず姉上を消そうと動いていたはずだろう? だったらお前が何もせずとも姉上は死んでいたかもしれない。それなのに何故わざわざ治療を阻む真似をした」
ジルの語気が強まる。声に怒りが、無念が滲む。するとアルノーはほんの少しだけ悲しそうな顔をして、「だって兄上がいらっしゃるじゃないですか」と首を振った。
「兄上ならきっと、あの人を守れるように手を回していたでしょう? だったらあの人は死なない。それじゃあ駄目なんです。国からいなくなるだけじゃ、何の意味もない」
「お前の邪魔にはならないだろう」
「なりますよ。だってあの人がいたら、兄上は僕を見てくれないじゃないですか」
「何?」
アルノーの言葉にジルが顔を顰める。そんな兄の姿を見たアルノーはうんと眉根を寄せ、「兄上はずっとあの人しか見ていなかった……」と切なげに話し出した。
「僕がどれだけ頑張ってもどうでも良さそうで、それなのにあの人のことばかり気にかけて……! 僕には笑いかけてくれないのに、あの人の前ではいつも笑っていた! だからあの人がいなくなれば僕を見てくれると思ったんです。でもそれには生きていては駄目なんですよ。あの人が生きている限り、たとえ会えなくても兄上はあの人を想い続けると分かっていたから。だからあの人が氷の病に罹ったと聞いた時はもう本当に嬉しかったんです。これで彼女の存在価値は完全になくなる、もう国のために彼女を生かしておかなくていいんだって!」
外から声が聞こえる。アルノーの安否を確認する声だ。一人で部屋にいるはずの彼が大声で話し始めたせいで、護衛達が何かあったのではと警戒しているのだ。
だがジルは、そこから動くことができなかった。激情が全身をのたうち回るせいで身体の自由が効かないのだ。
「――ねえ、兄上。僕のために笑ってよ」
歪んだ笑みだった。愛らしく、そして禍々しい。その顔を見た瞬間、やっとジルは身体の制御を取り戻した。身の危険すら感じさせるアルノーの姿が、ジルの身体に染み込んだ防衛本能を刺激したのだ。
ジルが右腕で剣を引き抜き、アルノーに飛びかかる。狙うは相手の眉間、いびつな笑みの中心。
と同時に部屋のドアが開け放たれた。銃声が響き、ジルの頬に傷を作る。それでもジルは止まらない。剣の切っ先がアルノーの肌に触れる――しかしその瞬間、ジルの身体が後ろに引っ張られた。彼がいた空間は無数の銃弾によって貫かれ、その先にあったソファにいくつもの穴を穿つ。
家具の破片が散らばる。綿や羽毛が煙の中をひらひらと舞い、アルノーとの間に壁を作った。
「もう引きましょう!」
後ろからの声にジルははっと冷静さを取り戻した。グレイだ。部屋の中に隠れていたグレイが、我を忘れたジルをアルノーの護衛から救ったのだ。
「やめろ、撃つな!」
状況を把握したらしいアルノーが護衛を止める。「しかし……!」混乱する護衛達を尻目に、アルノーは「兄上!」とジルに手を伸ばした。
しかし、その手がジルに届くことはなかった。グレイと共に窓へと向かっていたジルはアルノーを一瞥することもなく、その場から姿を消した。