北の森調査へ
「坊ちゃん! 帰ってきたら、また剣を交えましょうぞ!」
「はい! 次こそ一本取りますからね!」
「がっはっは! 楽しみにしておりますぞ!」
屋敷の前庭に、ガルドさんの豪快な笑い声が響いた。
今日は、北の森への調査隊が出発する日だ。
前庭には十数人の騎士や兵士たちが集まり、馬の背には食料や野営道具が積まれている。
今回の調査を率いるのは、アルベルト兄上。
そして、ガルドさんも同行する。
「兄上、気をつけてくださいね」
「ああ。レオンも元気でな」
兄上はそう言って、俺の頭を軽く撫でた。
「今回は少し長くなるかもしれないが、必ず戻る」
「はい!」
俺は大きく頷いた。
ガルドさんも兄上も、俺が知っている中では特に頼りになる人たちだ。
きっと、北の森の異変の原因も見つけてくれるだろう。
「アルベルト様、出発の準備が整いました!」
騎士の一人が声を上げた。
「分かった。では、出発する!」
兄上が馬に乗る。
ガルドさんも大きな身体を軽々と馬上へ運んだ。
「行ってらっしゃい!」
「行ってくる!」
「坊ちゃんも達者で!」
馬の蹄が石畳を打つ。
調査隊はゆっくりと動き始め、やがて屋敷の門を抜けていった。
俺はその姿が見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。
「……よし!」
二人の姿が見えなくなったところで、俺は勢いよく振り返った。
ガルドさんが帰ってくるまでに、もっと強くなっておこう。
特に《収集》だ。
今はLv2だけど、使い続ければきっと次のレベルへ成長するはず。
以前、Lv2になったときは、瀕死の魔物からもスキルを奪えるようになった。
ならば、Lv3では何ができるようになるんだろう?
「楽しみだなぁ!」
俺は腰の《蒼牙》を軽く叩き、訓練場へ向かって歩き出した。
◇
グランフェルト領、北部。
屋敷を出発した調査隊は、街道を抜け、北の森へ続く山道を進んでいた。
「ガルド、今回の異変をどう見る?」
馬を進めながら、アルベルトが尋ねた。
「まだ何とも言えませぬな」
ガルドは周囲の森を見渡した。
「ただ、魔物の移動がこれほど広範囲に及ぶとなれば、単なる縄張り争いではありますまい」
「やはり、そう思うか」
「ええ。グランボアのような魔物まで、本来の生息域を離れておりますからな」
アルベルトは小さく頷いた。
東の林に現れた黒鎧猪グランボア。
あれは、本来もっと北に生息しているはずの魔物だった。
しかも、それだけではない。
ここ最近、森の浅い場所で目撃される魔物の種類が明らかに増えていた。
普段は遭遇することのない大型の魔物。
縄張りを捨てて移動する群れ。
そして、北の森の奥から南へ向かって伸びる足跡。
個々の報告なら、珍しい出来事で済むかもしれない。
しかし、それらが同じ時期に重なっている。
「何かが、森の奥から魔物を追い出している……」
アルベルトが呟いた。
「その可能性は高いでしょうな」
ガルドは静かに答えた。
「ですが、何が原因なのかは実際に確かめねば分かりませぬ」
「ああ。そのための調査だ」
アルベルトは前方へ視線を向けた。
目の前には、鬱蒼とした森が広がっていた。
◇
北の森へ入って二日目。
調査隊は、最初の異変を発見した。
「アルベルト様! こちらを!」
先行していた斥候の声に、アルベルトとガルドが駆けつける。
そこには、大きな木が一本立っていた。
いや、正確には、立っていたはずだった。
「……何だ、これは?」
アルベルトが眉をひそめる。
木の幹が、途中から不自然に欠けていた。
獣にかじられたような跡ではない。
斧で切り倒されたわけでもない。
まるで、幹の一部だけが溶けてなくなったようだった。
「周囲を調べろ。何か痕跡があるはずだ」
「はっ!」
兵士たちが散っていく。
ガルドは木の根元に膝をついた。
地面には、黒ずんだ液体がわずかに残されている。
「……ふむ」
小枝の先で触れてみる。
すると、液体に触れた部分がじわりと変色した。
ガルドはすぐに枝を手放した。
「アルベルト様。これをご覧くだされ」
「……液体か?」
「何かを溶かす性質があるようですな」
アルベルトの表情が険しくなった。
「魔物の仕業か?」
「おそらくは。ただ、このような痕跡は見覚えがありませぬ」
ガルドは周囲を見渡した。
異変は、それだけではなかった。
少し先の地面には、大型の魔物の足跡が残っている。
しかし、その足跡は途中でぷつりと途切れていた。
飛び去ったような形跡もない。
争った跡もない。
ただ、そこから先の地面には、同じ黒ずんだ液体が残されていた。
「……妙ですな」
ガルドが低く呟いた。
「ここで、何が起きたのでしょうな」
◇
さらに調査を進めた翌日。
森の様子は、一変していた。
「……静かすぎる」
アルベルトが足を止めた。
周囲には、大木が何本も立ち並んでいる。
しかし、鳥の鳴き声が聞こえない。
小動物の姿もない。
北の森には、本来なら数多くの魔物が生息している。
それなのに、ここへ来てから一度も遭遇していなかった。
「斥候を戻せ。これ以上、隊を広げるな」
アルベルトの命令に、兵士たちが素早く動いた。
ガルドも剣の柄に手を添える。
そのときだった。
「アルベルト様!」
前方を確認していた騎士が駆け戻ってきた。
「この先に、奇妙な場所があります!」
「奇妙な場所?」
「はい。森が……ありません」
「……何?」
アルベルトはガルドと顔を見合わせた。
二人は兵士たちを率い、慎重に前進した。
そして、木々の間を抜けた瞬間――。
「…………」
誰もが言葉を失った。
そこには、広大な沼地が広がっていた。
黒く濁った水面。
ところどころに突き出した枯れ木。
岸辺には、溶け崩れたような木の根がいくつも残されている。
「……こんな沼が、北の森にあったのか?」
アルベルトが呟いた。
「いいえ」
ガルドが静かに答えた。
「少なくとも、以前ここを通ったときにはありませんでしたな」
アルベルトは周囲を見渡した。
沼はあまりにも広い。
対岸は見えるものの、その距離は相当なものだった。
しかも、周囲の木々は不自然な形で途切れている。
まるで、何かが森そのものを飲み込んでしまったかのようだった。
「……自然にできた沼ではなさそうだな」
「ええ。わしもそう思います」
ガルドは腰の剣に手を添えた。
「アルベルト様。兵を少し下げてくだされ」
「何か感じるのか?」
「……妙な気配がしますな」
ガルドの視線は、沼の中央に向けられていた。
黒く濁った水面。
風もないのに、そこだけがわずかに揺れている。
ぽこっ。
小さな泡が、一つ浮かんだ。
続いて、もう一つ。
ぽこっ。
ぽこぽこぽこ……。
「……何だ?」
アルベルトが目を細める。
次の瞬間。
ゴボッ!
沼の中央で、巨大な泡が弾けた。
黒紫色の液体が水面を跳ね上がる。
「全員、下がれ!」
アルベルトの命令に、兵士たちが一斉に後退した。
ガルドは剣を抜き、前へ出る。
その目は、沼の中央を鋭く見据えていた。
ズズズズズ……。
地面が、低く震え始めた。
沼の水面が盛り上がっていく。
最初は小さな丘ほど。
しかし、それは止まらなかった。
さらに高く。
さらに大きく。
やがて、水面から現れた部分だけでも、屋敷ほどの大きさになった。
「……馬鹿な」
騎士の一人が呟いた。
黒紫色の巨体。
半透明の身体の奥では、何かの骨らしきものがゆっくりと沈んでいく。
そして、そのさらに奥。
赤黒い光が、わずかに揺らめいていた。
まだ、全身が現れたわけではない。
沼の底には、さらに巨大な何かが潜んでいる。
ガルドは剣を握り直した。
「……アルベルト様」
その声には、いつもの豪快さはなかった。
「全員、戦闘態勢を」
巨大な塊が、ゆっくりと調査隊の方へ動き始めた。




