第3章 — アズリオン・ヴァルケン
第3章 — アズリオン・ヴァルケン
執務室の沈黙は、誰もが予想していたより長く続いた。
ネツロはまだ机の向こうに立っていた。
ザイレンはまだこちら側にいた。
そして――
**「私は君の父の親友だった」**
その言葉だけが、撃ち放たれた銃声のあとに残る煙みたいに、二人の間に漂っていた。
やがてネツロが小さく笑った。
明るい笑いじゃない。
長い間背負い続けた話を口にしようとする人が、それを軽く扱えないと知っていながら、それでもこぼしてしまうような笑いだった。
「君の父は……普通の男じゃなかった。」
ネツロはゆっくり首を振る。
「いや、正確に言えば――あいつを“普通”なんて言葉で表すのは無理だった。そんな枠に収まる男じゃなかった。」
ザイレンは静かに目を上げた。
数秒の沈黙。
何を話すか考える沈黙じゃない。
どこから始めるべきか選ぶ沈黙だった。
入り口が多すぎる物語の前で。
「十二年前――この世界の影の中で戦争が起きていた。」
ネツロは机の横へ歩き、腰を下ろす。
「忍び。魔導師。剣士。魔女。
誰にも知られないまま、互いを滅ぼし合っていた。」
ザイレンが眉をひそめる。
「……映画みたいだな。」
「私も最初はそう思った。」
ネツロが少しだけ笑う。
一瞬だけ。
本物の記憶がよぎるように。
そして表情が変わった。
「……あの黄金の瞳を見るまでは。」
空気が変わる。
音もなく。
ただ会話が“別の何か”になる時の、あの圧だけが満ちる。
「……ヴォルク。」
ザイレンの目が見開く。
その言葉。
今日、自分の目に現れたあれと同じ。
ネツロは手を見下ろした。
そこにない何かを見ているみたいに。
「アズリオンがそれを発動した時――」
声が低くなる。
「……怪物ですら恐れた。」
短い沈黙。
「君の父は、この世界で二つの名を持っていた。」
ネツロが顔を上げる。
「――“ヴァルケンの災厄”。」
「――“三脈の男”。」
ザイレンは動けなかった。
初めて聞くはずなのに。
知っていたような感覚。
本来なら知っているべき誰かの名前。
でも顔だけがない。
「そして、あの夜――」
ネツロの顔がゆっくり暗くなる。
「彼は何千もの命を救った。」
瞳がわずかに揺れた。
「……それなのに、誰一人知らなかった。」
---
数分後。
三人は学院の廊下を歩いていた。
ネツロが散歩を提案した。
こういう話は歩きながらの方が語れると知っている人の自然さで。
廊下は高く、広く、生徒で賑わっていた。
笑い声。
武器。
本。
窓の外では青や緑の魔法が弾ける。
剣の型を練習する者たち。
全部、ザイレンには遠い雑音だった。
ネツロが丸く金色の装置の前で止まる。
見たことのない文字が刻まれている。
カップを二つ取り出し、一つ差し出した。
ホットチョコレート。
ザイレンは受け取る。
また歩き出す。
「君の父は……あの戦いの前に。」
最初から声が重い。
「私に頼み事をした。」
そして。
前触れもなく。
記憶が蘇る。
遠くじゃない。
今そこにあるみたいに。
---
「俺が死んだら……メイと息子を守ってくれ。」
ネツロは固まった。
「……は?」
アズリオンは答えない。
上着から巻物を取り出す。
買い物メモでも渡すみたいな落ち着きで。
ネツロは開いた。
読んだ。
そして顔から血の気が引く。
「……ありえない。」
「これで分かっただろ。」
アズリオンの声は平坦だった。
沈黙。
鉛みたいに重い。
「よく聞け。」
本気の声。
見せるためじゃない。
本物の重さ。
「戦いが始まっても……絶対に介入するな。」
「アズリオン――」
「勝てない。近づくことも無理だ。」
ネツロの拳が自然に握られる。
アズリオンは止まらない。
「次の最高統治者になれ。」
「正気か。」
「そして……俺の息子が学院に来たら。」
目が柔らかくなる。
メイを語る時と。
まだ生まれきってもいない息子を語る時だけ見せた目。
「助けてやってくれ。」
沈黙。
空を見る。
遠く。
「……ザイレンは、この世界を救う子になる。」
ネツロは答えられなかった。
アズリオンが振り返る。
「たぶん俺は生き残れない。」
「くだらないこと言うな。」
「最後まで聞け。」
一言で遮る。
「メイの次に信じてるのはお前だけだ。」
疲れた声。
「だから……俺の死はお前から伝えてくれ。」
長い沈黙。
「そして奴には手を出すな。遠くから見ろ。それだけだ。」
---
記憶が消える。
ネツロはまた学院の廊下へ戻った。
歩幅。
手の中のカップ。
「……あのバカ。」
小さく笑う。
悲しい笑い。
「やめろって何度言っても……行った。」
沈黙。
「……そして私は言われた通りにした。」
目が暗くなる。
「遠くから見ていた。」
少し間。
「正直に言えば――」
カップを握る。
「人生で見た何よりも次元が違う戦いだった。」
ザイレンは無言。
歩く。
聞く。
飲めないまま持っている。
「君の父は強かった。」
ネツロが考える。
首を振る。
「……違う。」
真っ直ぐ見る。
「もっとだ。」
風が窓を抜ける。
「……伝説だった。」
そして。
映像が蘇る。
---
破壊された戦場。
煙の向こう。
アズリオンが敵を見て笑う。
「もうあいつらの心配はいらない。」
ネツロはその時、心から安堵した。
ほんの一瞬だけ。
敵が武器を上げるまで。
「最後まで人を守ろうとするとは。甘いな。」
アズリオンが剣を抜く。
「同感だ。」
同時に消える。
そして――
空が裂けた。
「ヴォルク忍法!!」
「火爆術・燦炎!!」
「黒水旋風!!」
衝撃波だけでネツロは吹き飛ばされる。
光。
影。
残像。
周囲の誰も追えない。
ネツロも。
そして夜明け。
アズリオンは地面に倒れていた。
信じられなかった。
血。
遠くに落ちた刀。
乱れた呼吸。
敵の刀が胸に向けられる。
「生き残れたはずだった。」
その瞬間。
アズリオンが目を開く。
そして――笑った。
痛みでも狂気でもない。
まるで。
そこが最初から自分の選んだ場所だったみたいに。
---
現実に戻る。
執務室。
ザイレン。
ユナエ。
沈黙。
「アズリオンの願い通り――」
ネツロの声が重い。
「私は全部、君の母に話した。」
間。
「……あの夜、メイは涙が枯れるまで泣いた。」
静寂。
「人生で初めて見た。」
「……あんな苦しみ方を。」
そして。
「だが本当に最悪だったのは、その後だ。」
空気が変わる。
「大陸中に噂が広まった。」
目が暗くなる。
「アズリオンは裏切り者だと。」
ザイレンは動かない。
「炎の国に加担したと。」
拳が握られる。
「死んで当然だったと。」
「……全部嘘だ。」
ネツロの声が歯の間から漏れる。
「全部。」
記憶。
村。
笑う男たち。
アズリオンの名を踏みつける声。
ネツロは拳を震わせながら通り過ぎた。
命令だったから。
沈黙。
そして気づく。
ザイレンが泣いていた。
音もなく。
ただ流れていた。
「……もうやめて。」
震える声。
「やめてくれ。」
そして壊れた。
「……ふざけんなよ!!」
ユナエが反射で立つ。
「なんでみんな簡単に父さんを疑えたんだよ!?」
涙。
止まらない。
「命を救ったんだぞ!自分から行ったんだぞ!それなのに世界は――」
声が詰まる。
息を吸う。
静寂。
「……誰なんだ。」
鋭い沈黙。
「……誰が。」
二人は答えない。
「誰が父さんを殺したんだよ!!」
声が部屋中に響いた。
壁。
窓。
廊下。
全部を揺らす。
ネツロが目を逸らす。
ユナエが手を伸ばす。
「ザイレン……」
「今まで話さなかったのには理由がある。」
ネツロ。
重い声。
「君の母も同じだった。」
ザイレンの目が見開く。
「じゃあ答えろ!!」
「なんで俺だけ知らなかった!?」
「なんで十二年間何も知らずに生きてきたんだ!!」
怒りだけじゃない。
足元にあったはずの地面が、今初めて現れた感覚。
穴に名前がついた。
理由ができた。
ネツロは静かに言う。
「……それは。」
執務室の圧が変わる。
風が強く吹き込む。
「アズリオン・ヴァルケンを殺した男が――」
絶対零度みたいな声。
「……まだ生きているからだ。」
……
ザイレンの涙が止まる。
感情が消えたからじゃない。
大きすぎた。
沈黙。
ゆっくり頭を下げる。
「……もう無理だ。」
壊れた声。
「今日は限界だ。」
ソファからバッグを取る。
扉へ向かう。
「ザイレン!」
ユナエが二歩前へ。
「どこ行くの!?」
止まらない。
「……家に帰る。」
壊れた声。
「今日だけで多すぎる。」
ユナエの拳が白くなる。
そして。
扉に手をかけたまま。
少しだけ横を向く。
「……ユナエ。」
彼女が固まる。
「全部知ってたんだよな。」
沈黙。
長い。
「……それでも俺に言わなかった。」
涙がまた落ちる。
静かに。
一滴ずつ。
「……こんな大事なことを隠してたなんて。」
声は平坦だった。
だからこそ深く刺さる。
「……一生許せない。」
ユナエの目が震える。
ドラマも叫びもない。
ただ本物の言葉。
「……さよなら、ユナエ。」
扉が閉まる。
音は小さかった。
でも。
その“静かさ”こそが。
ユナエの胸に現実を落とした。
ネツロは後ろで立ったまま。
何も言えなかった。
何一つ。
軽くできる言葉なんてなかった。
**第3章 — アズリオン・ヴァルケン 完**
作者:Takumi Camargo
読んでくれてありがとう。
また次の章で。




