宗盛記0022 保元元年九月
保元元年九月長月
八月の末に、逃亡していた源為朝が捕らえられた。死罪を免れ伊豆大島に流罪になるという。これまで貴族の死罪は三百年の間なかったもので、先の処刑はさすがにやりすぎとの非難があがったらしい。これで忠正大叔父上が捕らえられても、死罪になる可能性はかなり低くなった。
為朝は、後世五人張りの弓で有名だが、当然そんな話は聞こえてこない。そこまでの弓は今の技術では作れないだろう。三枚貼りの合成弓、重籐の三枚打弓がようやく出だした頃である。倍ならともかく、五倍の張の弓など、握れないくらい太くなってしまうんじゃないだろうか。
だいたい、人の力には上限がある。人類は100mを9秒で走れないし、マラソンで2時間をきれない。鍛えている武士の中で、人の五倍の力は出せないのだ。重さ十貫(37.5kg)の弓を引くものは居ても、二十貫は聞いたことがない。矢の勢いで人を吹き飛ばすことはできない。
直接戦場で見た重盛兄上に聞くと、六寸(約18cm)程の長大な鏃を使っていたとのこと。F=mv^2は同じとして、質量が大きい分、初速は落ちるが抵抗減衰が抑えられるから、結局当たったときの力は大きくなるか。命中精度と貫通力はかなりのものだったらしい。ただ特注の矢となると、補給が大変だろうな。補給無しで最大戦力が発揮できるのは矢が尽きるまでか。普通二十数本。
まぁ、指揮官級にそれだけ攻撃が行くのは怖い。小規模な戦闘なら圧倒できるな。
「聞いたぞ。あの竹の盾はお前が考えたんだってな」
基盛兄上から尋ねられた。
「あぁ、俺の考えた最強の盾?」
最安の盾でもある。
「ぬかせ。しかしまぁ、結局為朝でも射抜けなかったそうだ。それで助かった者もいるぞ」
そりゃぁ良かった。
八日、基盛兄上が蔵人に任官、五位蔵人なので、位階も補任までについてくるとのこと。十七日に昇位。従五位下、貴族になられた。
六位は侍階級、下級官人の位だ。原則五位からが貴族。まぁ、貴族の家族は貴族扱いなんだが。
同日に経盛叔父上も安芸守に任官。七月に播磨守に就任した父上の後任である。
もちろん保元の乱の功績による。
秋といえば柿。俺の落ちた柿の木は切り倒されて切り株になってしまった。前に重盛兄上が寂しそうに見ていた。四郎が大きくなったら又植えて欲しいと頼んでみるつもり。ただ、柿と言ってもこの時代の柿は渋柿である。最初から甘い柿などないそうで、聞いて笑われた。渋い思い出だ。柿だけに。
まぁ、渋抜きのやり方は知っているんだが。
柿があると柿渋が取れる。扱いに気合の要る漆と違って、安く大量に手に入ってかぶれない柿渋は使えるところが多そうなのだ。作る時臭いが出るのと時間がかかるのが難だな。
とりあえず渋紙が欲しい。防水紙の需要はあると思うんだけど探したらあるのかな。
聞いてみたら普通にあった。というか、下級武士はそれを着ているとのこと。そうか、秀次が時々着てた焦茶の着物は渋紙か…。
柿渋も普通に買えるという。
こんな感じで思いついても空振りすることも多い。
厠紙の開発は続けている。
前世ではパルプを目の細かい金網に吹き付けて作っていた。その方法だとコンプレッサーから開発することになるが、高圧、密閉というのはかなり難しい技術だ。特にゴムが無いのがいたい。すり合わせの精度にも限界があるので、コンプレッサーは諦めて普通に簀で乾かす事にする。
使い心地がちょうどいい厚さにするとちょっと脆い。
適当な厚さに苦戦している。
父上から頂いた太刀を抜く。普通の稽古は木刀でもできるが、抜刀だけは本物でないとできない。模造刀なんて無いだろうし。
左手を軽く捻って刃を外に向け、切り払うように抜いて、刃を返して正面に切り下ろす。そして納刀。これを初太刀の向きを少しずつ変えながら百回。気を使うし、時間もかかるが、とっさに抜けることの大切さはわかる。体が覚えるまでは繰り返すしかない。そのうち馬上でも稽古しないとな。
なんでも真似したい四郎が、触りたそうにしているがこれは危ないからダメ。
あ、そうか、模造刀、無ければ作ってやればいいんだ。鞘だけでも手に入れられないか、秀次に頼む。できれば塗りのない、白木のものが良い。手に入ったら木で刀身を作ってやろう。
で、鞘の方はすぐに手に入った。なんせ戦の直後、折れた刀も多くあったようだ。
四郎が抜ける一尺程度の短刀の鞘を貰う。鞘は刀に合せて作るので、折れた刀の鞘は廃棄品らしい。ただ、塗りのない鞘はなかったとのこと。白鞘が多く出てくるのは後の時代なのか。
塗りがあると鞘が割れないので、刃と鎬の所の漆を少しだけ削って白木の地を出す。さて鞘はニ枚の板を貼り合わせて作っていることはわかっていたが、接着剤が何かは知らない。ただ、この時代の接着剤は、糊か膠か漆がほとんどだ。手入れを考えると糊か膠かだろうと考えて、茹でて割ることを考えていたが、とりあえず叩いてみると簡単に割れた。どうやら糊付けらしい。上から漆を塗れば固まるしな。
秀次が気を利かせて、折れた刀の方も買い取って持ってきてくれていたので、そっちもそのまま使うことにする。外出できるようになってからは、多少の小遣いもあるのだ。一応聞いて貰ったが、人を切った事もなく、相手の兜に当たって折れたそうで、まぁそれくらいなら良いだろう。鎺から刀身を外して、残っている刀身と茎を紙に置いて木炭で擦って型を取って写す。さやの裏の方にも紙を当て、木炭で擦って型を取っておく。後は板をこの形に切れば…というところで止まってしまった。
製材した板がない。理由を確かめてみると(鋸が無いので)板にするのが大変だそうで、普通すぐに手に入る様なものでもないらしい。丸太を割って、表は槍鉋か手斧で仕上げているとのこと。ああ、金剛組のビデオで棟梁が槍鉋を使ってたのを見た覚えがある…。それに鋸は鎌倉時代からだったか。鋸も平鉋も、そのうち作りたいと思うが、もっと自由になる金と伝手が無いと動きが取れない。その辺は任官後だなぁ。
結局、鉈で檜材を割って、フル削り出しで作った。製材の手間が圧倒的に楽なので、木材は針葉樹が好まれる。杉のほうが安いが、檜のほうが強い。工具が揃ってたら(広葉樹の)樫で作ってやりたかったんだがな。いずれ換えてやらないと。
最初は鞘から取った形に合わせて必要な厚みの板状になるまで削り、次は刀から取った型になるよう外形を整えて、最後に鞘に収まるように削りをいれていく。鞘の塗り直しも含めて雨の日の午後三日かかった。
でも、四郎が大喜びしたので満足。俺の真似をして抜いている。この歳から練習すれば、俺よりずっとうまくなるだろう。
表を少し酢で洗って殻皮をとってから、半年程天日に晒しておいた貝殻が、少し白くなってきたので、槌で叩いて砕き、乳鉢で摺る。天日に晒して固まったら又砕いて細かくする。繰り返した粉を水に入れてかきまわし、沈殿した上の方の粉を取り別ける。残った下の粉は乳鉢で摺って同じことを繰り返す。この作業を水簸という。上の粉を乾かしたら簡易胡粉の出来上がりである。この少しダマになった胡粉をもう一度乳鉢に入れてすりつぶし、膠を溶かした湯で溶いて、前と同じ様に作った紙の張子に塗る。そうして天日で乾かす。張子の中には土鈴が入っている。この塗り工程を四〜五回ほど繰り返すと、ちゃんとした張子ができる。これなら押しても潰れにくい。頑張って絵付けをする。今回は赤と緑も使う。赤は弁柄を使って、朱は使わない。子供が舐めちゃうと怖いから。胴にはブチとめでたい柄の松の枝を書く。緑は普通の緑青。口と首輪は赤。目は点。口は人の字。ちょっと法華寺の犬風。これを三つ。三の君と、四郎と、あとまぁ六の君の分。
張子のイメージ。ちょっとデザインが違います。
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