第一百話 王冠の置き場所
和平予備会談は、一日遅れで始まった。
会場は変更された。
旧法務省ではない。
巡航ミサイルの破片が残る共同調整室でもない。
アルシェール中央裁判所の第二法廷。
朝から細い雨が降っていた。
濡れた石段は鉛色で、玄関の回転扉が開くたび、冷えた街路の匂いが暖房の乾いた空気へ混じった。前夜まで窓へ貼られていた飛散防止フィルムは端が白く浮き、巡航ミサイル迎撃の衝撃をまだ忘れていない。
傍聴席百二十。
報道席四十八。
被告席は空だった。
帝国皇帝も、継戦委員会の主要人物も来ていない。
暫定政府代表団が持ってきたのは、人間ではなく降伏条件と引渡予定者名簿だった。
十四頁の停戦文書は、防湿封筒と鉛封印のぶんだけ重かった。書記官が机へ置くと、乾いた音ではなく、湿った革鞄を下ろすような音がした。
戦争の重さを紙で量れるとは、誰も思っていない。それでも、紙へしなければ次の砲弾を止められなかった。
「これは裁判ではありません」
議長が最初に確認した。
「本日は、停戦条件、証拠保全、被疑者の身柄移送手続を審議します。有罪・無罪を判断しません」
言葉にしておかなければ、法廷という部屋が先に結論を作る。
ヴォロディミルは公国席へ座った。
ペトレンコは隣。
ソフィアは二列目。
ボンダレンコ、シェフチェンコ、各軍代表。
向かいには帝国暫定政府。
その後ろに、被害国十一か国。
誰も同じ理由で平和を望んでいなかった。
それでも、砲撃を止めたい点だけは一致している。
*
帝国側提案は五項目だった。
皇帝退位。
占領地独立の承認。
重装備の国際監視下集積。
戦争犯罪捜査への協力。
賠償協議の開始。
公国側は、六項目目を求めた。
消失兵器と灰環市場へ流れた軍需品の完全開示。
「それは暫定政府の管理外です」
帝国代表が言った。
「管理外だから、開示が必要です」
ペトレンコが答える。
「把握していないものを提出できない」
「把握していない範囲を提出してください」
「矛盾しています」
「空欄の台帳、欠けた命令記録、連絡が取れない部隊名です。完全な答えを要求していません。不完全である場所を隠さないよう求めています」
帝国代表はボンダレンコを見た。
「兵士給与基金も条件ですか」
「条件ではない」
ボンダレンコが答える。
「武装解除を実行する道具だ。基金を拒否してもよい。その代わり、銃を持った失業者を自国で雇え」
「公国が帝国軍人の口座を管理することになる」
「三者監査だ。公国だけでは動かせない」
「実務はキミロフ」
「早く払える場所へ置いた」
「なぜ、あなた方だけが早い」
ボンダレンコは少し考えた。
「請求書が来る前に、人が死ぬのを何度も見たからだ」
帝国代表は視線を落とした。
その指先には、砲撃で爪を失った跡があった。敵国の代表も、文書だけでこの部屋へ来たわけではない。ボンダレンコはそれを見たが、慰めなかった。慰めは条件表へ記入できない。
*
午後の議題は、アルシェール市内同時作戦の審査だった。
和平会談の席で、会談を守った越権行為を審査する。
ヴァローニュ法務官は、四つの令状が個別には有効だったと認定した。
問題は、ペトレンコが市内全域の目標時刻を統合し、民間燃料を徴用し、共同回線へ事実上の優先順位を流したこと。
「あなたは指揮していないと主張しますか」
審査官が聞いた。
「形式上は」
ペトレンコが答える。
「実際には」
「各指揮官が、私の示した時刻に従いました」
「拒否できた?」
「法的には」
「実際には」
彼女は一度、言葉を止めた。
以前艦長が答えた言葉を覚えている。
統合室は、彼女の声で話した。
今回も同じだった。
「拒否するには、十九分以内に別の救命案が必要でした」
「それは拒否可能と言えますか」
「十分ではありません」
法廷が静かになる。
「違法だったと?」
「現行制度が想定した範囲を越えました」
「結果として、巡航ミサイル四発を撃破。死者はゼロです」
「結果は、権限の出所になりません」
「なら、なぜ実行した」
ペトレンコは傍聴席を見なかった。
負傷した警察官。
人質になった運転手。
燃料を受け取った病院。
全員が別室から証言を終えている。
「十二か国の承認を待って人を死なせるより、私が記録へ名前を残す方を選びました」
言い訳ではなかった。
謝罪でもなかった。
以前なら、その選択が必要だったことを悔やんだ。
今は、次も同じ条件なら同じことをすると知っている。
それが彼女自身にとって、一番不安な変化だった。
*
ソフィアは、証拠統合系の設計者として証言台へ立った。
「権限集中の回数を報告してください」
「緊急例外として四回」
「すべて成功?」
「主要目的は達成」
「失敗は」
「作戦中の戦死者一名。負傷者は参加国別集計で四十名を超えます。誤認に基づく突入準備二件。実行前中止一件。閲覧権限の失効遅延三件」
「成功率は高い」
「成功率だけを評価すると、例外を増やす結論になります」
「あなたは反対ですか」
「現行のまま恒久化することに反対します」
「廃止を?」
「廃止すれば、次の十九分へ対応できません」
「では、どうする」
「権限を明文化します。発動条件、対象、時間、監査、停止命令者を先に決める。成功後にも自動審査。指揮画面の操作履歴を全参加国へ複製」
「公国も監視される」
「最初に監視されるべきです」
証言中、鎖骨下の診断端末が振動した。
人工心臓の補助電源交換時刻。
人工肝臓の濾過負荷、正常域。
血中酸素、回復。
彼女は通知を消さず、休廷申請を出した。
「医療上の理由ですか」
「はい。人工心臓の電源系を交換します」
傍聴席がわずかにざわめく。
ソフィアは隠さなかった。
身体の一部が機械であることも、その機械が保守を要することも、判断能力の神話へ使わせない。
十分の休廷。
医官が診断端子へ接続し、補助電源を交換する。
主ポンプは止まらない。
交換コネクタが鎖骨下端子へ噛み合うと、冷たい圧力が胸骨の裏まで伝わった。生身の鼓動なら緊張で乱れる場面でも、人工心臓は設定された流量を守る。規則正しさは安心ではなく、機械が彼女の感情へ関心を持たない証拠だった。
ソフィアは法廷横の医務室で、胸元から伸びるケーブルと交換時刻を記録へ残した。
「非公開にできます」
書記官が言った。
「不要です」
「偏見を受ける可能性が」
「故障しない人間だと思われる方が危険です」
*
同じ休廷中、シェレメートは別の医療区画にいた。
左側人工腱群の交換。
胸郭フレームの再締結。
人工肺の出力校正。
診断画面には、身体の七割が項目として並んでいた。
残る三割は、痛い、怖い、帰りたい、という言葉でしか報告できない。
サンソンが人工腱の端子を固定する。
「締めすぎ〜」
「規定値だ」
「人間の三割が文句言ってる〜」
「三割は黙れ」
「ケルベロス、冷たい〜」
「昨日、命令を無視した」
「一割だけ働けって言ったのに、全部使ったこと〜?」
「それだ」
「でも三号を落とした〜」
「結果は、命令違反の修理部品にならない」
どこかで聞いた言い方だった。
シェレメートは診断台の上で笑う。
「ソフィアちゃんに似てきた〜」
「面倒だな」
「私に?」
「二人ともだ」
サンソンは校正を終え、人工肺の駆動音を聴いた。
左右の呼吸周期が揃う。
「次はいつ飛べる〜?」
「医官が決める」
「あなたは?」
「帰ってくるなら飛べ」
シェレメートは一瞬だけ黙った。
それから、いつもの調子へ戻る。
「じゃあ毎回帰る〜」
「毎回壊れるな」
「努力目標〜」
*
夕方、三つの文書が同時に採択された。
第一、ルーデニア帝国との停戦延長九十日。
第二、戦争犯罪特別法廷設置条約の起草開始。逮捕、証拠開示、弁護、上訴、被害者参加の手続を定める。今日の法廷は裁判開始ではなく、その入口と記録された。
第三、共同救命・証拠保全議定書を六か月延長。
名称は変わらない。
権限は増えた。
重大な越境事案、消失兵器、複数国へ同時に及ぶ攻撃について、キミロフ共同調整室が最長二十分の共通基準時刻を提示できる。
各国指揮官は拒否できる。
拒否理由は記録される。
発動者は四十八時間以内に公開審査。
停止権限は、参加三か国の共同署名。
公国一国では開けない。
公国一国では止められない。
「これは統合司令部ではありません」
各国代表は記者へ説明した。
文面上は正しい。
旗も、軍も、国境も残る。
ただ、危機の最初の二十分だけ、全員が同じ時計を見る。
その時計はキミロフに置かれた。
採択直後、実務者は法廷裏の陪審員室へ移った。
机の上に、停止鍵の配布先が三列で並ぶ。
参加国代表。
開催国法務官。
共同調整室監査席。
「三か国共同署名では遅い」
ヴァローニュの若い内務政務官が言った。
「二十分の権限を、止めるのに四十分かかります」
「だから、事前指定した当直者が署名します」
ソフィアが答える。
「当直者が寝ていたら」
「起床確認を交代時に」
「通信断は」
「一名断で二名署名。ただし、断線側の操作権限は自動凍結」
「二名とも公国寄りなら」
「組合せを毎日抽選します」
政務官は首を振った。
「制度が複雑すぎる。市民には説明できません」
「簡単な制度ほど、誰か一人の命令になります」
彼は再選を控えていた。前夜の迎撃で支持率は上がり、今日の反対で下がるかもしれない。賛成した議定書が暴走すれば、もっと下がる。保身と制度への疑念は、同じ口から出ても両立する。
「名称を《アルシェール議定書》に変えませんか」
彼は別案を出した。
「市民へ成果を返せる」
「今の名称では票にならない?」
ボンダレンコが聞く。
「票にできない制度は、次の政府に捨てられます」
露骨だった。
間違いとも言い切れなかった。
最終的に、正式名称は変えなかった。通称として開催地名を使うことだけが認められた。政務官は記者会見で、市民の協力が制度を作ったと説明する権利を得た。
見返りに、停止鍵の当直者名簿を議会監査委員会へ毎週提出する条項へ署名した。
彼は歓声を欲しがった。
歓声の代価として、鍵を一つ増やした。
*
最初の運用試験は、調印から四十一分後に行われた。
架空目標、二か国国境を横断。
発動者、ペトレンコ。
対象時間、二十分。
停止要求、ヴァローニュ当直法務官。
画面へ赤い帯が出る。
《停止署名、一名》
二人目はラトヴァ軍監査官。
認証端末が、古い証明書を理由に拒否した。
「更新済みです」
「端末側の失効一覧が古い」
ソフィアが閉域網の複製時刻を見る。
三時間遅れている。
「本番なら止まりませんでした」
室内が静かになる。
「代替署名者を」
呼び出しから二分十一秒。
二人目の署名が入り、架空作戦は停止した。
実戦なら、残り十七分四十九秒。
十分に見える。
その二分で死ぬ者がいなければ、という条件が付く。
ソフィアは失効一覧の複製間隔を一時間から五分へ変更した。通信量は増える。閉域網の保守費も増える。
ボンダレンコは追加費用を見た。
「承認」
「見積はまだです」
「上限を付けろ。停止できない制度より安い」
その日のうちに、停止試験は十二回行われた。
最短四十七秒。
最長三分二十二秒。
成功した法廷の外で、失敗するための訓練が始まった。
*
調印後、裁判所前には市民が集まっていた。
巡航ミサイルを止めた消防士、警察官、軍人、運転手の名を呼ぶ声。
その中へ、ヴォロディミルとペトレンコの名が混じった。
最初は少数。
やがて通り全体。
警備員が退避車両の扉を開ける。
ヴォロディミルは乗らなかった。
一段だけ階段を下り、市民を見た。
喝采は命令ではない。
だが、議場で反対者を黙らせるより速く、人間の迷いを消す。
彼はその力を恐れた。
同時に、ほんの少しだけ好んだ。
ペトレンコが隣へ立つ。
「予定外です」
「知っている」
「狙撃対策が崩れます」
「三十秒」
「十五秒」
「二十」
「十八」
「成立」
二人は十八秒だけ、その場に立った。
歓声の中で、ヴォロディミルは反対票を投じた代表三人の顔を覚えた。
排除するためではない。
次も反対してもらうためだと、自分へ言い聞かせた。
その理由が、いつまで本当でいられるかは分からない。
階段の下では、内務政務官が記者に囲まれていた。
「市民の勇気が《アルシェール議定書》を生みました」
通称は、採択から一時間で彼の演説になった。
同じ口で、停止鍵の週次監査も説明した。
記者が尋ねる。
「公国の権限拡大へ賛成したのですか」
「止められる権限として賛成しました」
「次の選挙で成果に使いますか」
「生き残った都市の制度を、選挙で話して何が悪い」
政務官は笑わなかった。
家族は前夜、北部病院の地下へ避難していた。票が欲しいことも、二度と同じ夜を迎えたくないことも、本当だった。
政治家が勝ち馬へ乗る時、馬がどこへ向かうかまで考えているとは限らない。
この男は、少なくとも手綱を一本持とうとしていた。
*
夜、キミロフ共同調整室の時計が更新された。
法廷では、最後の書記官が認証印インクの蓋を閉じた。インク、湿気を吸った上質紙、コピー機の熱。署名済み原本は耐火金庫へ入り、複製は三台の装甲車へ分けられた。
平和文書は信頼されていないからこそ、三つ作られた。
参加国、十四。
有効期間、百八十日。
同時作戦履歴、五件。
救出・保護者、四十六。
戦死者、一。
撃破巡航ミサイル、四。
武装解除兵、三千八百六十四。
押収誘導装置、二百十二。
誰も領土を差し出していない。
誰も国旗を降ろしていない。
王冠も増えていない。
それでも、異国の兵士へ給与を払い、異国の警察へ時刻を送り、異国の空へ迎撃線を引く場所が一つになった。
王冠は、まだ誰の頭にも載っていなかった。
時計と、鍵と、送金欄の間へ置かれていた。
*
同じ夜、キミロフ中央療養施設では、九歳のアレクセイが訓練用人形の胸を押していた。
胸骨圧迫。
一分間に百回から百二十回。
肘を伸ばし、上半身の重さを掌へ落とす。
小さな肩が上下するたび、硬い樹脂の胸郭が沈み、内部のばねが低い音を返した。
「七十七、七十八、七十九——」
「声を切るな」
ルツェンコは床へ片膝をつき、人形の首元に二本の指を置いていた。
「数が飛んだら、手も止まる。手が止まれば、頭へ血が行かなくなる」
「もう救急隊が来る時間だよ」
「訓練ではな」
「本当の時は?」
「代わる奴が来るまで。腕が動かなくなるまで。勝手に終わりを決めるな」
アレクセイは百まで数え、息を切らした。
「これも、勇者の訓練?」
「違う。救助者の訓練だ」
ルツェンコは少年の掌を人形の胸の中央へ戻した。
「勇者なんてのは、あとから暇な奴が付ける名前だ。お前は隣の奴を連れて帰れ。それだけ覚えろ」
アレクセイは、もう一度、一から数え始めた。
王冠が時計と鍵の間へ置かれた夜、小さな手は、まだ動かない誰かの心臓を押す練習をしていた。




