第一話 紐の見える子
一 紐の向く先
人から伸びる紐を見る者は、乱世に現れる。
紐は、その人間がもっとも強く信頼する相手へ、一本、太く伸びているように見える。普通の者には見えないが、古い王や、大陸を統一した初代皇帝には見えていたという。
ゆえに、紐を見る者には天下を治める天命がある。
少なくとも、世間ではそう信じられていた。
リュウにも、幼いころから紐が見えた。
反乱の知らせが届いた朝、そのリュウは誰より早く家を出ようとしていた。
逃げるためである。
着替えと銭、干し肉を詰めた袋を背負い、音を立てないよう戸を開ける。
町の男が三人、外に並んでいた。
「リュウ殿。お迎えに上がりました」
リュウは戸を閉めた。
「遅かったわね」
背後で妻が言った。
レイカは、寝床の脇に外着を置いていた。帯も履物も揃っている。
「いつからいた」
「あなたが干し肉を詰めているころには」
戸の外の男たちは帰らなかった。
朝早く人の家まで迎えに来るだけあって、辛抱強かった。
「町の人たちが集まっているわ。近くの村からも来ているそうよ」
「何があった」
「東の県城で反乱が起きたの。討伐に出た兵も敗れたそうよ」
「こっちへ来るのか」
「敗れた兵が西へ向かってる」
東の県城から西へ進めば、この町がある。
敗れた兵には、十分な食料も、帰る場所もない。
武器だけは持っていた。
「役所は?」
「主だった役人は、昨夜のうちに逃げたそうよ」
リュウは背負った袋を見た。
「では、この支度は正しかった」
「出遅れたのよ」
袋を下ろした。
銭を壺へ戻し、着替えを棚へ戻す。
干し肉を袖へ入れた。
レイカが手を差し出した。
リュウは干し肉を一つ渡した。
「両方」
もう一つも渡した。
*
「兵はどれくらい来る」
「百とも、三百とも」
「違いすぎないか」
「立ち止まって数えた人はいないもの」
百なら、防げるかもしれない。
三百なら、戦う前に逃げたほうがよさそうだった。
今のところ、どちらなのかは分からない。
窓の外を人が駆けていった。
役所の方角へ向かったが、間もなく戻ってきた。
戻りのほうが速かった。
レイカがリュウの襟を直す。
「集まりでは、紐について聞かれるでしょうね」
「そのために呼ばれたんだろう」
「見えたことを、何でもそのまま言わないで」
「必要なことだけ言う」
レイカの手が止まった。
「あなたが必要だと思ったことではなく?」
「違うのか」
「違うと思っていてほしい」
以前、酒屋の主人から、妻の紐が誰へ向いているかと聞かれたことがあった。
リュウは隣の米屋だと答えた。
妻は、米の仕入れを米屋に任せていただけだった。
その説明をする前に、酒屋の主人が走っていった。
「最後まで聞かなかったのが悪い」
「聞かない人もいるの」
その日の夕方、酒屋と米屋はそろってリュウの家へ来た。
二人とも怒っていた。
酒屋の妻も来ていた。
「でも、だいたい合っている」
そう言って、少し頬を赤くした。
酒屋が妻を見た。
米屋は目をそらした。
話は余計にこじれた。
以来、リュウが酒屋で飲むときは、紐について話さないことになっている。
「今日は黙っている」
「迷ったら?」
「言わない」
レイカはうなずいた。
戸を開ける。
三人はまだいた。
「お待たせしました」
レイカが詫びた。
「いえ。出てきていただければ」
待たされたことより、出てきたことを喜ばれていた。
*
通りには人があふれていた。
兵はどこまで来ているのか。
穀物を隠すべきか。
逃げるなら山か、川向こうか。
誰もが話していた。
答えを持つ者はいなかった。
リュウの目には、人々の間に紐が伸びているのが見えた。
家族から家長へ。
若者から、腕の立つ者へ。
商人から、町の有力者へ。
昨日まで役所へ向いていた紐の多くが、今朝は頼りなく揺れていた。
役所には大勢の人がいた。
役人だけがいなかった。
道端の老人がリュウを見た。
老人から伸びる紐が揺れ、その先がこちらを向く。
リュウは一歩、横へずれた。
紐もついてきた。
元へ戻った。
「どうしました」
「何でもない」
こういう紐を見ると、幼いころのことを思い出す。
*
六歳のとき、家の牛が逃げた。
柵を壊し、隣の畑を踏み荒らし、林へ入った。
父や近所の者が集まった。
「まず牛を追え」
「先に畑へ謝るべきだ」
「柵を直さなければ、残りも逃げる」
「林へ入ったのを見たぞ」
大人たちは、よく話し合った。
牛はその間も逃げていた。
リュウは軒下で団子を食べていた。
集まった者たちから伸びる紐のほとんどは、後ろに立つ猟師へ向いていた。
「その人に頼めばいいだろ」
皆が黙った。
猟師が自分を指す。
「俺か」
「皆、お前を頼りにしてる」
「誰が言った」
「誰も」
「じゃあ、なぜ分かる」
「紐が出てる」
全員が猟師を見た。
何も見えなかった。
父がリュウの前へしゃがんだ。
「俺からも出ているのか」
「出てる」
「誰へ向いてる」
リュウは母を指した。
父は黙った。
「今は牛の話だ」
牛は夕方までに見つかった。
その日のうちに、今度はリュウの家へ人が集まり始めた。
紐を見る子が現れたのである。
「紐を見る者は王になる」
「初代皇帝にも見えていた」
「この子には天命がある」
翌日から、リュウの教育が始まった。
剣を習った。
才はなかった。
弓も習った。
こちらにもなかった。
馬には乗れるようになった。
速くすると落ちた。
兵法の教師が尋ねた。
「敵がこちらより多いときは、どうする」
「戦わない」
「戦う場合を聞いている」
「なぜ戦う」
教師は次へ進んだ。
法を教えられたときは、覚えるべき条文の多さに驚いた。
「全部覚えるのか」
「国を治める者には必要だ」
「覚えている者をそばに置けばいい」
「今はお前が覚えるのだ」
教師たちは、それぞれ自分の専門にリュウの才能がないことを確認した。
教育としては、大きな成果だった。
その代わり、リュウは自分にできないことを認めるのが早くなった。
できる者がいるなら、その者に任せればよいとも考えるようになった。
教師たちが期待した成果ではない。
*
集会所には、町と近隣の村から数十人が集まっていた。
奥の卓に地図が広げられている。
その前に立っていたのは、役所で戸籍と倉を扱うハクヨウだった。
「お前は逃げなかったのか」
「倉が歩きませんので」
リュウは戸口に近い席へ向かった。
「リュウ。こちらです」
ハクヨウは卓の一番奥の椅子を示していた。
諦めて座った。
*
県城で反乱が起きた。
討伐軍は敗れた。
敗兵の一部が西へ流れ、街道沿いではすでに穀物を奪われた村もある。
「こちらへ来るのは明日。早ければ今夜です」
集会所がざわめいた。
「門を閉じよう」
「外壁が壊れている」
「山へ逃げる」
「荷はどうする」
「捨てればいい」
「では、まずお前の倉から捨てよう」
「別の案を考えよう」
話はよく進み、すぐ元へ戻った。
「リュウ」
年長者が呼んだ。
「紐は誰へ集まっている」
「集まってない」
「誰にもか」
「皆、ばらばらだ」
「それでは町がまとまらん」
「俺に怒るな。紐に言え」
「どうすればまとまる」
「信じる相手を決めればいい」
「それを誰にするかを聞いている」
そこから先は、紐を見ても分からなかった。
外から蹄の音が聞こえた。
若者が一人、駆け込んでくる。
「北の村が襲われました」
息を切らしたまま続けた。
「帝国兵です。倉の穀物を奪って、逆らった者を斬ったそうです。こちらへ向かっています」
部屋が静まった。
帝国へ伸びていた紐が、一本、外れた。
次にもう一本。
行き先を失った紐が、町の年長者へ向く。
ハクヨウへ向く。
そして一本が、リュウへ向いた。
もう一本。
人々もこちらを見た。
紐を見る者。
乱世に現れ、王となると伝えられる者。
もっとも、リュウの剣も弓も兵法も、町の者はだいたい知っていた。
そのうえで見ていた。
それがいちばん困った。
紐が増えていく。
期待は、言葉より先に見える。
年長者が立ち上がった。
「リュウ殿。皆をまとめていただきたい」
「俺が?」
「町と村を守る旗頭になってほしい」
「俺は戦えないぞ」
「知っている」
「兵法も分からん」
「それも知っている」
リュウは周囲を見た。
「そこまで知っていて、なぜ頼む」
「戦える者なら、ほかにもいる」
年長者は言った。
「だが、皆が集まるのはお前のところだ」
その男から伸びる紐も、まっすぐリュウへ向いていた。
ハクヨウの紐も同じだった。
「俺に何をさせる」
「まず皆の前に立ってください」
「立つだけか」
「まずは」
「先があるのか」
紐がまた一本増えた。
断るなら、もう少し早いほうがよかった。
「俺は戦えないぞ」
もう一度言った。
「皆が戦います」
ハクヨウは答えた。




