第一話
ふぅ……。
ようやく、肺を押し潰すような息苦しさが少しずつマシになってきた。
それにしても、年甲斐もなく大声をあげて泣いてしまうなんて。
三十路を過ぎた男として、全くもって情けない…
前世の激務のストレスが一気に爆発してしまったのだろうか
一通り涙を流し終えると、急速に頭が冷えていくのを感じた。
その時、遠くから重々しい扉がガチャンと開く音が聞こえた。
直後、ドタドタと地響きのような足音を立てて、一人の大柄な男がこちらへ駆け寄ってくる。
「生まれたのか……! この子も、ヴェルディアも、本当によく頑張ってくれた!」
大柄な男は、俺のすぐ隣で横たわっている女性に話しかけている。
「はい、あなた。私たちの新しい子が、無事に生まれてきてくれましたよ」
(へえ、誰か赤ちゃんが生まれたのか。そりゃあ、めでたいなぁ……)
のんきにそんなことを考えて、すぐにハッと我に返った。
いやいや、そんな他人の出産を祝っている場合じゃない。早く会社に行かなきゃ、真弓にどれだけ怒鳴られるか分かったもんじゃない。それに今日は、社運を賭けた大事なプロジェクトのプレゼンが控えているんだ。行かなきゃ、俺が穴をあけるわけには――
…
…
……おかしい、動けない
体に、全く力が入らない
(そっか……あの時、俺はホームから転落して、電車に轢かれたんだっけな……)
あの大惨事だ。運良く一命を取り留めたとしても、指一本動かせないほど重傷を負っていたとは…想像以上に酷くやられたみたいだ。
これじゃあ当分、有給休暇あるいは強制欠勤を認めざるを得ないだろう。
そんな絶望に浸っていると、先ほどの大柄な男が、ずいっと俺の視界を塞ぐように近づいてきた。
(ちょっと待ってくれ、俺は全身複雑骨折かもしれない大怪我人なんだぞ。)
おい、やめろ、触るな……と心の中で抵抗するが、声がうまく出せない。男は俺のそんな拒絶などお構いなしに、大きな両手で、壊れ物を扱うように慎重に俺の体を持ち上げた。
「ほう、元気な男の子か……。よし、名を『ユークリッド』としよう」
(産まれた子供はユークリッドっていうのか。ははっ、まるで日本じゃないみたいだなぁ。外国の病院か何かか?)
男は俺の顔をじっと見つめながら、優しく微笑んでいる
どうやら、俺が極限状態の中で浮かべた引きつった苦笑いが、男には笑ったように見えたらしい。
なんだか、俺の顔を見てその名前を付けたような、奇妙なタイミングだった
……まさか
脳の片隅で薄々嫌なことを、そして信じられないような仮説が形を成し始めていた。
動かない身体に、俺のことを軽々と持ち上げる男…
……まさか…俺は
そんな嫌な仮説を揃え始めた時、ドタドタドタッと足音に加え、賑やかな声が響き、部屋の奥から二人の子供がゾロゾロと駆け寄ってきた
(全く、複数部屋とは言え重病人を前にして騒がしくして……後で看護師さんに言いつけてやるぞ、部屋を個室に変えさせてもらうってね)
幸いなことに、ブラック企業に勤めていたせいで趣味に使う時間も気力もなく、少ない給料の割には銀行口座にそれなりの貯金が残っていた。
お金を使う場所がなかったあの不毛な日々が、まさかこんな形で役に立つとは思わなかった。こういう心の平安を取り戻す為にこそ、あの貯金を使うべきだ。
だから頼む…
誰か早く、俺にスマホと、看護師さんを連れてきてくれ……
しかし、希望はすぐに崩れ去ってしまった。
気がつくと、ベッドの横から2つの影が伸びてきた。
隣のベッドに横たわる女性――ヴェルディアによく似た、綺麗な顔立ちの男の子と女の子だ。二人はそれぞれ、俺の顔を覗き込もうとベッドの縁に身を乗り出してきた。
「母上、僕にも見せてください」
「母上、私にも見せてほしいです」
(おいおい、何でみんなして俺の顔を見るんだよ。俺は重病人だぞ、見世物小屋のペットじゃないんだからさ……)
これ以上覗き込まれてはたまらない。「シッシッ」とあしらうように、俺は拒絶の意味を込めて彼らに向かって右手を伸ばした。
……えっ
視界に入ってきた自分の「手」を見た瞬間、思考が完全にフリーズした。
えっ……え、えっ……
俺の手が、信じられないほど小さくなっている。白くて、ふにふにとしていて、大人の親指ほどしか長さがない。
(悪い夢だ。そうだ、これは絶対に悪い夢を見ているんだ。電車の衝撃で脳がバグってるんだ。早く覚めてくれ……!)
パニックに陥る俺の耳に、おっとりとした女性の声が届く。
「ルクス、クリスティ。ユークリッドは産まれたばかりなんですから、優しく触るのよ」
自分の小さな手に全精神を持っていかれていた俺は、近づいてくる二人の子供の手に気づかなかった。
不意に、ふにふにの頬や小さな頭に温かい手のひらが触れる。あまりの驚きに声が出そうになり――そのまま、情けなくも再び大音量の産声をあげてしまった。
「おんぎゃあ! おんぎゃあ!」
「あ……母上、泣かせちゃいました……」
男の子――ルクスが、申し訳なさそうに不安げな顔で母親を振り返る。
一方で、女の子――クリスティは、俺がじたばたさせた手がクリスティの指に収まるとパッとひまわりのような笑顔を咲かせた。
「お母様、見て! なんて可愛いの。私の手をぎゅって握ったわ!」
(違うんだ! これはただの把握反射! 赤ん坊の身体的な条件反射であって、俺の明確な意思じゃなくて――!)
必死の弁解も、ただの元気な泣き声として部屋に鳴り響くだけだった。
ベッドの上の母親は、愛おしそうに目を細めて子供たちを見つめる。
「ふふふ……。ルクス、クリスティ。あなた達は今日から、お兄ちゃんとお姉ちゃんになるのよ。この小さな弟を、力を合わせて守っていってあげてね」
「はい、わかりました!」
「任せて、母上!」
二人の幼い顔には、新しい家族を迎え入れた喜びがこれでもかと溢れ出していた。
そんなあたたかい、だけど俺にとっては絶望的なやり取りを聞いていると、急激に猛烈な、抗えないほどの眠気が襲ってきた。
(クソ……新手の睡眠障害か? 体力が、持たない……)
赤ちゃん特有の浅いキャパシティのせいで、小さな手からすとんと力が抜けていく。
俺は自分の置かれた異常事態に何ひとつ結論を出せないまま、抗う術もなく、再び深い意識の闇へと沈んでいった。
次に目を覚ました時も、やはり俺はベッドの上にいた。
一体どういう状況なんだ、目の前に広がる光景は、どう好意的に解釈しても現代日本ではない。
中世ヨーロッパの貴族の寝室のような、浮世離れした豪奢な空間が広がっている。状況証拠から導き出される答えは、ひとつしかなかった。
恐る恐る、先ほどの「手」をもう一度目の前に掲げてみる。
視界に現れたのは、やはり、ちんちくりんでふにふにとした、赤ん坊の小さな手だった。
夢じゃない…これは、現実だ。
俺は信じられない現状を、一つずつ咀嚼し、確認していった。
とはいえ、今の俺はまだ生まれたばかりの赤ちゃんだ…声帯も筋肉も未発達で、自分の意思通りに体を動かすことなんて到底できやしない。
(くそ……パニックになったら、なんだか無性にお腹が空いてきたな……)
そう思った瞬間、情けないことに、意思とは無関係に喉から情けない声が漏れ出た。
「あぅ……うー……」
すると、部屋の奥の暗がりから、衣擦れの音と共に誰かの声が響いた。
「ユークリッド坊ちゃま、おはようございます」
現れたのは、絵に描いたようなクラシカルなメイド服をまとった、若い侍女だった。彼女は恭しく一礼すると、俺の体を優しく、手慣れた手つきで持ち上げた。
「ちょうどお腹が空いてこられる頃合いだと思っておりました。さあ、お食事にいたしましょうね」
そう言うと、侍女――いや、乳母の女性は、手際よく衣服を少しずらし、自身の胸を露出させた。
至近距離に迫る、生命の源。
(な、何をするんだ君は! 破廉恥な! 警察を、警察を呼べ――!)
理性は大絶叫で拒絶を試みたが、限界を迎えていた赤ん坊の肉体は残酷だった。口元に乳首を押し付けられた瞬間、俺の身体は「本能」のままに、勢いよくそれを吸い始めていた。
(違う! これは不可抗力だ! これは生きるため、二度目の人生をサバイブするための純粋な栄養補給なんだ……! 決して邪な気持ちなどない、いいね!?)
必死に心の中で自分に言い訳のプレゼンを繰り返しながら、一通り温かい食事をいただいた。飢えが満たされ、お腹が膨れていく。
ふぅ、と一息ついたその時。
乳母の女性が、俺の身体を縦に抱き直し、手のひらでトントンと背中を叩き始めた。
(……あ、やばい。この、絶妙な強さと、一定の規則正しいリズムは……っ)
胃袋に溜まった空気を逃がすための、プロの技、抗う間もなかった。
「ゲプッ……」
容赦なく放たれた間抜けた音と共に、俺は「ああ、俺は本当に、全く知らない場所の、知らない家の子供に生まれてしまったんだな」と、心の底から実感させられた。
見事なまでに洗練し尽くされた乳母のタスク遂行能力により、心地よい睡魔が脳を支配していく。
抗う術を持たない無力な元社畜は、その完璧なホスピタリティに完敗し、再び深い意識の闇へと引きずり込まれていった。




