プロローグ
「仕事は何とか終わった……。今日は、日付が変わる前に家に帰ることができそうだな」
深夜の静まり返ったオフィスで、俺は小さく息を吐いた。
パチリとノートパソコンを閉じ、重い身体を引きずるようにして帰り支度を始める。周囲を見渡せば、かつては活気のあったフロアも、今やいくつかのデスクに力ない明かりが灯っているだけだ。
「村山先輩……」
背後から掛けられた、消え入りそうな声に振り返る。そこに立っていたのは、後輩の平山だった。目の下に濃い クマを浮かべ、書類を抱きしめる彼女の目には涙を溜めていた。
「いつも私が不甲斐ないせいで、先輩にばかり迷惑をお掛けしてしまい……本当にすみません」
平山はこのブラック企業に耐えかねて同期が次々と去っていく中、必死に踏みとどまっている数少ない大切な後輩のひとりだった。
「気にするな。先輩が後輩の尻拭いをするのは世の常だろ。ほら、平山もキリのいいところで早く切り上げて寝ろよ。お疲れ様」
俺は努めて明るい声を意識しながら、俯く彼女の肩をポンと優しく叩いた。自分のことで手一杯なはずなのに、こんな時だけは「頼れる先輩」の仮面が剥がれない。それが俺の悪癖だった。そのまま、逃げるようにその場を後にする。
「いつか、私も……」
背後から平山のか細い声が届いた気がしたが、俺は足を止めなかった。振り返ってしまえば、彼女の仕事をまた抱え込んでしまいそうで怖かったのだ。
――――――――――――――――――
時計の針は午前0時を回ろうとしている。
駅のホームへと滑り込むと、熱を帯びた夜風が頬を撫でた。
「……今日は終電がある。4時間は、いや、まとまって3時間は寝られるかな」
スマートフォンの画面に映るアラームの設定画面を見つめながら、ぼんやりと黄色い線の内側で電車を待つ。
こんな泥をすするような生活を、一体いつまで続けるのだろう。
入社した最初の頃は、尊敬できる上司と、気心の知れた優秀な後輩たちに恵まれていた。プロジェクトが成功するたびに美味い酒を飲み、自分の成長を実感できる、まさに順風満帆な社会人人生を送っていたはずだった。
それが一変したのは、創業社長が退き、その娘である真弓が現場のトップである上司の座についてからだ。
彼女が持ち込むのは、現場のキャパシティを完全に無視した無理難題なスケジュールと、理不尽な思いつきの数々。仕事量は瞬く間にそれまでの倍へと膨れ上がった。
タチが悪かったのは、俺が「そこそこ仕事ができてしまった」ことだ。
自分の担当分だけでなく、キャパオーバーを起こした周囲のカバー、さらには上司の真弓から直接丸投げされる特大のタスクが、まるでゴミのように俺のデスクへと積み上がっていった。
やがて、個人の限界を遥かに超えた激務に耐えかね、目をかけていた優秀な後輩たちが一人、また一人と静かに会社を去っていった。俺に仕事を教えてくれた、恩師とも呼べる先輩も精神を病んで辞めていった。
そして、彼らが遺していった膨大な未処理のタスクは、すべて、残された俺の肩へと雪崩のように降りかかってきたのだ。
最初は、俺だってすぐに辞めるつもりだった。
しかし、日々の業務を消化することだけに全神経を奪われ、転職活動の目処を立てる余裕すら失っていく。思考力は奪われ、泥沼に沈んでいくように、段々と辞める気力そのものが削ぎ落とされていった。
あぁ、苦しい…胸の奥が、ずっと熱い
心臓がバクバクと、壊れた時計のように嫌な不協和音を立てて拍動している。
明日の出社を、真弓のヒステリックな声を想像するだけで、胃がキリキリと音を立て、逆流した胃酸が食道を伝って酸っぱい吐き気が口元まで込み上げてくる。
最近の睡眠は、もう「眠る」という健やかな行為ではなかった。毎晩、自宅のベッドに倒れ込み、気絶するように意識を失っているだけだ。
キィィィィィィン――
レールがきしむ不快な金属音と共に、遠くからヘッドライトの光が迫ってきた。激しい風を巻き起こしながら、鉄の塊がホームへと滑り込んでくる。
腰をかけていたベンチから、重い腰を上げた。
その、瞬間だった。
ぐにゃり、と世界が反転した。
三半規管が機能を失い、強烈な目眩が視界を襲う、重力の方向を見失い、身体が大きく前方に傾いた。
あ、やばっ――
足に力が入らない、まるで線路の底から巨大な磁石で引っ張られているかのように、俺の身体は吸い込まれるようにホームから転がり落ちていく。
ブゥゥーーーーーーン!!!
鼓膜を破らんばかりの、電車の警笛が駅のホームに鋭く鳴り響いた。
直後、生々しい金属の質量が俺の肉体を捉える。
グシャッ――
鈍い衝撃の後、視界一面が真っ赤な血飛沫で染まった。
不思議と痛みはなかった。ただ、半ば中途半端に残る意識のせいで、肺が押し潰されるような猛烈な息苦しさだけが俺を支配している。
(あぁ……これで、ようやく解放されるんだな……)
押し寄せてきたのは、冷たくて心地よい、安堵だった。
それと同時に、暗転していく意識の端で、オフィスに残してきた平山の寂しげな背中がよぎる。まともな親孝行すら一度もできなかったなという、親への申し訳なさが濁流のように入り混じる。
それを最後に、俺の思考は、完全に深い闇へと沈んでいった。
……うるさい
周囲から、ガヤガヤとした妙な雑音が聞こえる。
それは次第に、若い女性の悲鳴のような、陣痛に耐える緊迫した叫び声へと変わっていった。同時に、信じられないほどの強烈な眩しさと、肺を無理やりこじ開けられるような息苦しさが容赦なく襲いかかってくる。
(あぁ、俺……まだ生きてたのか。最悪だ……。今日のプレゼン、どうしよう。真弓への報告書も、終わらせなきゃいけないタスクが山ほど残ってるのに……っ!)
死に瀕してなお、脳を支配するのは会社と仕事のことだった。
泥を拭うように、ぼやける視界をどうにか開く。
そこに広がっていたのは、見慣れた天井でも、オフィスの蛍光灯でもなかった。見たこともない、中世の城を思わせるような重厚で美しい木の天井であった。
知らない、天井だ……
ここはどこだ…、俺はどうなった…と、口にしようとした瞬間。
俺の喉から飛び出したのは、情けないほどに高く、透き通った産声だった。
「おんぎゃあ! おんぎゃあ!」
自分の意志とは無関係に、小さな身体が激しく泣き声をあげる。
こうして、日本のブラック企業で魂まで摩耗させて過労死した男・村山は――剣と魔法の異世界、アレクサンド公爵家の次男「ユークリッド」として、全く新しい第二の生を受けたのであった。
初めまして、ネムイといいます。
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