戦場から帰らぬ英雄に代わり、姫様に恋文を送ることになりました
本作は『 戦場から帰らぬ夫は、隣国の姫君に恋文を送っていました』のクーヘン国サイドに焦点を当てたスピンオフです。
前作をお読みいただくと、より物語の背景や人物の関係が伝わるかと思います。
鐘の音が遠くで鳴っていた。
勝利を告げる鐘だ。
帝国軍の侵攻を押し返したと伝令が駆け、街では歓声が上がっている。
一方で、その報告を清書している僕の机の上には、泥に塗れ、血の染みた羊皮紙がいくつも積み上がっていた。
王城に勤める僕の仕事は、戦場で書かれた報告書を『国の記録』として整えることだ。滲んだ文字を補い、言葉を整え、勝利の戦果をより鮮やかに飾る。それらが翌朝の城下国報として街に貼り出され、人々は勝利の言葉を口にするのだ。
陽は斜めに傾き、書庫の窓から射し込む光が金色に染まる。季節の移ろいとともに空気は澄み、筆先からこぼれる細い擦過音までもいつもよりよく耳に届く。
それは、僕の一番好きな音だった。
夕暮れ時、上司であるグノーさんが書庫に戻ってきた。
ただでさえ幸が薄い顔だと揶揄されているのに、今日は一段と悲壮感が漂っている。
席に着くなり、これ見よがしに深いため息。どうしましたか、と一応の礼儀だけは尽くして尋ねると、彼はどこか気の毒そうな顔をこちらに向けた。
「……特命を受けたよ。君は姫様への手紙を拵えてくれないかな」
「手紙を、ですか? ……姫様へ?」
「ああ。バルシアの聖騎士ジェイミー・フォルン卿から、という体裁でね。……実際にはそんなもの、まったく届いていないけどさ」
聖騎士ジェイミー・フォルン――同盟国バルシアの第三騎士団副団長。
この国が落城寸前に追い込まれた折、颯爽と駆けつけて帝国軍を追い払った英雄であり、今も最前線で戦果を挙げ続けている。彼らの活躍を記した国報は王都でも群を抜いて人気だった。
ただ、僕個人としては正直あまり良い感情を抱いてはいない。くだらない理由だから口にするつもりもないけれど、嫌そうに顔を顰める僕のことなど気にも留めず、グノーさんは机の端を指先でとんとんと叩きながら言った。
「姫様は毎日、その英雄からの便りを待っておられるそうでね。陛下のご意向で、彼女の心を慰める"返事"を用意することになったんだ。内容は君に任せるよ。姫様に少しでも希望を与えてくれればいいから」
「希望を与えるって……つまり、僕に代筆しろってことですか?! フォルン様のことなんて僕はなんにも知らないのに!」
フォルン様との接点と言えば、祝勝のパレードを人混みから遠目に眺めた程度だ。白馬の上から観衆に手を振る姿は、書庫の隅で丸まって襲撃をやり過ごしていた僕とはまるで別世界の人間だった。
そんな英雄の代筆を僕が務めるなんて、どう考えても荷が重すぎる。しかも姫様はそのフォルン様に心を寄せているという噂まであるのに。
「ほら、同盟締結の時に先方から届いた書類があっただろう? 筆跡を似せるのは君の特技みたいなものじゃないか。頼むよ。まあ姫様なら筆跡なんて気にする頭もないと思うけど、一応ね。ね? ね?」
……この必死さの裏に何があるのは分かっている。どうせ姫様の教育係――スペンサー夫人の差し金だ。グノーさんはその実弟で、昔から頭が上がらないとしょっちゅう愚痴をこぼしているのだから。
「姫様からの手紙はこれだから、話が合うように適当に頼んだよ。私もほら、仕事があるからさ……」
どこかぐったりとした様子を見るに、もしかすると僕とは別の特命でも授かったのかもしれない。
仕方ない。先ほど書き取り終えたばかりの紙束を脇へ押しやり、預かった姫様の手紙とフォルン卿の文書を机上に広げる。
フォルン様の文字は意外にも整っていた。堂々とした筆致なのに、どこか繊細で気品すら感じさせる。僕が普段相手にする連中の雑で解読困難な文字とはまるで別物だ。英雄ともなれば、こういうところまで違うのだろう。
恐れ多いことながら、姫様の手紙にも目を通す。
救われたことへのお礼、そしてフォルン様の安否を案じる言葉。恋心を滲ませた丸みのある文字は愛らしく、思わず頬が緩みそうになる。
……だが、ほっこりしてばかりもいられない。
この手紙に返事を書くのは、僕なのだ。
新しい羊皮紙を広げ、インク壺の蓋を開ける。
何度も何度もフォルン様の文字を倣い、筆の癖を掌に染み込ませていく。
掴んだ、と感じたところで、震える筆先で最初の一文を書き記す。
『ルーシア様へ――』
中身は極めて無難なものに留めた。
返事が遅れたことへの詫び、無事を知らせる言葉、そしてさりげない気遣い。
恋心には触れないように細心の注意を払いながら締めくくり、インクを乾かす。
「――グノー、グノーはおりますか!」
「はいはい、ここにおりますよ、姉上」
しばらく別の作業に没頭していたところへ、扉の開く音とともに甲高い声が響いた。
顔を上げるまでもない。スペンサー夫人だ。
「例の件はどうなっていますの? もう手配は済んだのかしら?」
「さっきお願いされたばかりじゃないですか。まあ、うちの優秀な部下が早速書き上げてくれましたけれどね」
話を振られ、渋々顔を上げる。
鋭い目つきのスペンサー夫人がずかずかと歩み寄り、乾いた手紙を取って目を細めた。
「……なるほど。貴方が推薦するだけあって、よく似せられていますね。これなら姫様も疑わないでしょう」
「ありがとうございま――」
「ただ、貴方は乙女心というものが分かっていないようですね。ここ、最初の一文に『愛しの』を付け加えてちょうだいな」
つまりは――『愛しのルーシア様へ』に書き換えろ、ということか?
いやいや、それはさすがにまずい気がする。
「ええと……本当にそんなことをしていいのでしょうか」
「もちろんですとも。ジェイミー様がこの城を発たれてからというもの、姫様は日に日に沈み込んで、食事もろくに喉を通らない状態なのですよ。陛下も心を痛めておられるのです。お元気になっていただくためには、多少のスパイスも必要でしょう?」
勢いよくまくし立てられると、どうにも否定しづらくなる。
だって姫様はこの国にとって人々に癒しを与える花のような存在で、僕ら下っ端の文官にだっていつも優しく笑みを向けてくださるのだ。
――だというのに、第三騎士団が出陣してからというものその笑顔が途絶えて久しい。戦時下という空気もあってか王城の空気は日ごとに重く沈んでいる。便りを待つ姫様の姿を想像すると、胸の奥に小さな棘が刺さったような気がした。
「とにかく、よろしくお願いしますよ。明日にはお手元に届けたいのですから」
「は、はい。……分かりました」
優雅な身のこなしで立ち去っていくスペンサー夫人の背を見送り、僕は渋々筆に手を伸ばす。
「……まぁ、本人はしばらく帰ってこないだろうしね。嘘も方便って言うじゃない?」
グノーさんはどこか他人事めいた軽い口調だ。実際、他人事なんだろう。すでに興味を失った様子で彼は自分の仕事へ没頭している。
仕方ない。これも仕事のうちだ。王命とまで言われてしまえば、一介の書記官に過ぎない僕に逆らえるはずもない。
そう自分に強く言い聞かせて、罪悪感を押しやりながら、文頭にそっと『愛しの』の一言を付け加えた。
――そう、僕はたった一言を添えただけだ。
少しでも姫様の気休めになれば、もうこれでお役御免だと思っていたのに――。
それからしばらくは穏やかな日々が続いた。
第三騎士団は帝国相手に快進撃を続けているらしく、王都は勝利を前提としたお祭り騒ぎだ。
そんな浮かれた空気を横目に、昼休憩を終えて書庫へ戻ると、机の上に一通の封筒が置かれていた。
裏には『ルーシア』の文字。
背筋に冷たいものが走る。
「うん。……よろしくね」
仕事を再開していたグノーさんは「何を」とは言わなかったが、言うまでもない。また返事を書け、ということだ。
恐る恐る封を切ると、そこには抑えきれない恋情が咲き乱れる、絵に描いたような恋文がしたためられていた。
――あのたった一言が、火をつけてしまったのだとしか思えない。
急な胃痛に苛まれる。僕は、とんでもないことをしてしまったんじゃないか?
「姉上が添削してくださるそうだから。まずは下書きでいいんじゃない?」
とはいえ、作業は難航を極めた。そりゃそうだ。僕はフォルン様のことを何ひとつ知らない。筆跡を真似てもその性格や思考まで模倣できるわけがない。こんなの早々にボロが出るに決まっている。
――もし姫様が、この手紙の相手がこんなボンクラ文官だと知ったら……。
涙ぐむお姿が浮かんで、思わず頭を振る。
仕方ない。僕はフォルン様になりきるため、情報を集めることにした。
幸いにして、第三騎士団が滞在していた折に彼らの世話をしていたメイドとは同郷で顔なじみだ。食堂で休憩中の彼女を見つけ、僕はそっと隣に腰を下ろした。
「やあ、調子はどうだい」
「あら、あなたから声をかけてくるなんて珍しいわね。我が国の英雄様、いったい何の用かしら?」
「その呼び方はやめてくれってば。……ちょっと聞きたいことがあってさ」
彼女は愉快そうに笑い、椅子を少しずらして僕を受け入れる。周囲を一瞥してから、僕は声を潜めた。
「第三騎士団のフォルン様。彼について少し教えてほしいんだ」
「バルシアの英雄様? 素敵な方だったわよね。見た目は不愛想だけど、話しかけると丁寧に笑いかけてくださったのよ。団長様も恰好良かったけれど、私は圧倒的にフォルン様派かなぁ」
どうやらメイドたちの間では派閥ができていたらしい。けれど、今はそんなことどうでもいい。
「例えば好きな食べ物とか、姫様とはどんな話をしていたとか……」
「ふーん? ああ、分かった。姫様と聖騎士様の恋物語を書くつもりね? いま市井でも大人気だものね。乗っかるつもりなんでしょ」
もう何年も物語なんて書いてないのに、よく覚えてるもんだ。まあいいけど。姫様の恋文のためだなんて口が裂けても言えないし。
「ま、まあそんなところかな。僕はフォルン様のことを全然知らないからさ」
「そうねぇ……」
彼女はスープをかき混ぜながら、知りうる限りのことを教えてくれた。さすがはメイドの情報網、フォルン様が好む肌着の色まで知ってしまった。
「助かったよ。僕の立場じゃ姫様から直接聞くのは無理だから。……まさか姫様がそこまで入れ込んでいたなんてね」
「そりゃ惚れるでしょ。敵兵に連れ去られかけたところを助けられたんだから。滞在中もずっと姫様の話し相手になってくださっていたんだし。弱っている時にあんな風に優しくされたら、いくら相手が愛妻家でも惚れちゃう気持ちは抑えられないわよね~」
「ん……? 今、何て言った?」
聞き慣れない単語に、脳の処理が追いつかない。あいさいか? アイサイカ? ……愛菜家?
「えっ、知らなかったの? フォルン様はバルシアに奥様がいるのよ。姫様を差し置いて貴族の娘さんが何人も言い寄ったのに『俺は妻一筋なんですよ』ってすっぱりと。あれは見事だったわ」
奥様。妻。
その単語がようやく腑に落ちた瞬間——背筋がぞっと冷えた。
愛妻家。つまりは妻帯者。
……そんな人間が『愛しのルーシア様』なんて書くわけがないじゃないか!
「ひ、姫様はそのことをご存知なんだよね?」
「もちろん。でも姫様って昔から『わたくしは恋に落ちた人と結婚しますの』ってお花畑なこと言ってたじゃない? 末の娘だからって王様も好きにさせてたけれど、ついに運命の相手が見つかったんだもの。簡単には諦められないでしょ」
彼女は僕の動揺など意にも介さず、肩を竦めて続ける。
「それにスペンサー夫人が調べたらしいけど……フォルン様の奥様って小領主の娘さんで、しかも病で床に伏せているんですって。そんなの騎士の妻として相応しくないし、国同士の関係を考えればさっさと身を引いてもらって——」
「ちょ、ちょっと待って。いくらなんでも倫理的にどうなんだろ、それは」
至極真っ当な抗議をしたつもりだったのに、彼女はきょとんとした顔のあと、吹き出すように笑った。
「嫌だわ、このご時世に倫理を説くなんて! 帝国なんて滅ぼした国の王女をそのまま貴族に下賜してるのよ? さすがにその奥様に金子くらいは積むだろうし、むしろ優しい話じゃない」
どうやら僕の考えのほうが古かったらしい。
でも、仮にフォルン夫人が身を引いたとして――肝心のフォルン様のお気持ちはどうなるんだ? 戦が終わる前に無理やりにでも別れさせるつもりなんだろうか?
そんな疑問を抱いた矢先、彼女は不意に瞳をきらりと光らせて、そっと耳元へ顔を寄せてきた。
「これは聞いた話なんだけどね。姫様のもとにフォルン様から手紙が届いたんですって。しかも『愛しのルーシア様へ』って添えてあったらしいのよ。ただの姫様の片想いじゃなかったってことよね」
どこか誇らしげに語る彼女に、心臓が一度、大きく跳ねた。
冷や汗がだらだらと流れ落ちる。もちろん、ここで言い訳なんてできるはずもない。
「姫様大好きなあなたには酷な話だったかしら? ……下書き、出来たら見せてよね?」
「え? ああ、うん……」
衝撃で魂が半分抜けかけていた僕は、もはや生返事を返すのが精一杯だった。
▼ ▼ ▼
【愛しいジェイミー様へ】
お手紙、確かに受け取りました。
貴方様の無事と、前線で奮闘しておられると知って、どれほど安堵したことでしょう。
わたくしはこの城壁の内側で、毎日、貴方様からの勝利の知らせを待ち続けております。
最近は、お庭の白薔薇がとても美しい盛りを迎えました。
その清らかな色を見ると、貴方様と共に蕾を眺めたあの日々を思い出すようで、胸が温かくなります。
お怪我などなさらないよう、どうかご無事で。
またお便りいたしますね。
Lucia
【愛しのルーシア様へ】
遅筆を、どうかお許しください。
姫様の温かいお言葉に、どれだけ力づけられていることか。この荒々しい戦場にあって、姫様はまさに夜空に輝く一等星のような存在です。
城内の白薔薇が見頃とのこと。目に浮かぶようです。
次に咲き誇る季節には、必ず姫様の元へ帰ります。
どうかその日まで、白薔薇のように優しく、気高くお過ごしください。
こちらの戦果は順調です。すべては姫様の笑顔を再び拝見するために。
敬愛を込めて。
Jamie Forn
スペンサー夫人の添削のもと、もとは淡々とした文面だった手紙に過剰な装飾が施されていく。
姫様はジェイミー様からの便りを今か今かと待ちわびているらしい。実際、手紙を胸に抱きながら無邪気に喜ばれる姿を遠目とはいえ何度か拝見したことがある。
もはや筆を止めるという選択肢は僕にはない。
――すべては姫様のために。
その一心で、僕は今日もジェイミー・フォルンとして筆を走らせ続けた。
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【愛しいジェイミー様へ】
貴方様からのお手紙を何度も読み返しています。そのたびに、貴方様がわたくしを想ってくださっているのだと感じられて、胸が高鳴ります。
貴方様は戦場を離れている時、どのように時間を過ごされるのでしょうか?
わたくしは城の図書館で古い童話を読み耽るのが一番の楽しみなのです。特に、遠い国を旅する魔法使いの物語がお気に入りです。
貴方様のような立派な騎士様なら、きっと戦場以外でも勇敢で、騎士らしい趣味をお持ちなのだと思います。
お忙しいでしょうが、ぜひ聞かせてくださいませ。
Lucia
【愛しのルーシア様へ】
姫様が私の手紙を愛しく思ってくださっていると知り、この上ない喜びで胸が満ちております。
姫様が「遠い国を旅する魔法使い」の物語をお好きだと伺い、少し驚きました。
あの物語は、私も読んだことがあります。心に残る、とても美しい物語ですよね。
遠い国を旅する魔法使いが最後には故郷へ還ったように――私もまた、必ず姫様のもとへ帰りたいと願っています。
そう思うと、姫様とのやり取りこそが今の私にとって一番の心の糧であり……もしかすると、趣味と呼べるものかもしれません。
愛しのルーシア様に捧ぐ。
Jamie Forn
僕もよく知る物語が話題に上がったおかげで助かった。今回の手紙は、さほど手を加えられることもなく済んだようだ。内容を確認したスペンサー夫人が、「貴方も乙女心というものが分かってきましたね」と満足げに微笑んでいる。明日には姫様の元へ届けられることだろう。
パタン、と書庫の扉が閉まり、静けさが戻る。僕は机に張りつくように作業しているグノーさんに意を決して声をかけた。
「こんなことを続けて、本当にどうするつもりなんですか? フォルン様が戻られたら、修羅場しか待ってないじゃないですか!」
「そうだろうねぇ。でも仕方ないじゃないか。肝心のフォルン卿に何度手紙を送っても返ってこなかったんだから。……ま、返ってくるはずないよね。姉上も旦那が軍団長という立場にあるのに、戦場というものを全く理解していないようだ」
穏やかに聞こえる声色の奥に、「戦場で手紙なんて書いていられるか馬鹿女が」という刺々しさが混じっている気がする。
その気持ちも分からないでもないけれど……。でも国に残る女たちも必死なんだろう。安否を確かめる術が限られているからこそ、せっせと戦地の夫や恋人へ手紙を送り続けるしかないのだ。
「せめて無事を知らせるだけに留めれば良かったじゃないですか。勝手に恋人に仕立て上げるなんて……スペンサー夫人はいったい何を考えてるんですか」
「願いとあらば何だって叶えてやりたいんだろうさ。なにせ、病死した娘と入れ替わるように生まれたのが姫様なんだから。……それに、そうは言うけど君も楽しそうじゃないか。なかなか様になってるよ、ジェイミー様」
痛いところを突かれ、喉の奥がつまる。
だって、姫様と手紙を交わせること自体に嫌な気持ちがあるわけないんだから。
昔から姫様へ抱いてきた感情は、あくまでも敬愛に近いものだったはずなのに。
こうして"愛"という言葉を交わすうちに、いつの間にか僕自身が本物の恋人になったかのような錯覚に陥っている。返事を捻り出すために何度も何度も姫様の手紙を読み返すうち、最近ではもう、頭を抱えることも少なくなってきたくらいに、姫様を慕う言葉が自然と筆先からこぼれ落ちてしまう。
……とはいえ、姫様は手紙の相手はフォルン様だと信じているのが一番の問題なんだけど……。
「ま、姉上はあわよくばって気持ちもあったんじゃないかなぁ。ようやく姫様が心を開いた相手だったわけだし、なんとか結び付けようと必死なんでしょ」
「だからって奥様がいる相手を……。戦争が終わったら僕、訴えられたりしないですよね?」
「あはは。……その心配はないんじゃないかな? なにせ特命だし、その辺りは両国間でうまく調整するでしょ」
軽口を交わしながらも、グノーさんの手は止まらない。丸眼鏡の奥にある眼差しは冗談めかした声色とは裏腹に真剣そのものだ。僕も観念して、本来の業務である書き取りへと視線を戻す。
肝心の戦況はといえば、まさに一進一退。僕の手元へ届く報告書には、かろうじて拾ったような小さな勝利ばかりが散らばっている。
対して、グノーさんが清書して世に出す報告書には、まるで英雄譚のような華々しい戦歴が並んでいる。多少の脚色はあるにせよ、帝国を相手取っていることを思えば快挙と言えるだろう。この調子なら数年以内に終結する可能性だってあるかもしれない。
その時に、フォルン様が戻られたら。
すべてが白日の下に晒されて、これまでの手紙の送り主が僕だったと知られたら――。
「……貴方は余計な心配をしないでよろしい。きちんとこちらで話を通しておきますから」
不安を読み取ったのか、手紙を受け取りに来たスペンサー夫人が、まるで叱るような調子で言い放った。
「明後日にはまたエルマ様と姫様の茶会があるんですよ。控えていたメイドの話では、二人ともずっとジェイミー様のことばかり話しているんだとか。いわば恋敵のはずなのにどうしてあれほど平静でいられるのかしら。私にはまったく理解できないわ」
鼻を鳴らす夫人の表情は、どこか陰りを帯びていた。
聞けば、とある祝宴でフォルン夫人と姫様がついに相まみえたらしく、何がどうしてそうなったのか今では茶会を重ねる仲に落ち着いているそうだ。
修羅場になるよりは良いことだろうけれど……僕にもフォルン夫人の心境がどうしても理解できないでいる。
スペンサー夫人はひとつ深い溜息を吐き、気を取り直すように、報告書の山を睨みつけるグノーさんへ視線を向けた。
「ねえ。本当に第三騎士団は前線にいるのよね? ジェイミー様は……ご無事なのよね?」
「……しつこいですね。帝国軍の守備兵を破り、すでに帝国領の目と鼻の先まで進撃しているようですよ。私の仕事はその事実を清書するだけだと、何度も申し上げているでしょう」
「貴方がそう言うなら信じますけれど……田舎に住む両親と連絡が取れないと、侍女や使用人たちが不安を訴えているのですよ。しかもバルシアとの行き来以外は禁じられたとあっては、心配にもなるでしょう?」
「尖兵が確認されたのですから仕方ありません。何も大軍が門前に並ぶだけが戦争ではないんですよ。少数の手勢で王城への侵入を許したこと、お忘れですか?」
珍しくグノーさんがじろりと鋭い目を向けると、夫人はうっと言葉を詰まらせた。あの日の恐怖は彼女の中にも深く刻まれているのだろう。
姫様の部屋の前に立ちふさがり、震える身体で敵兵相手に啖呵を切っていた――。
そんな逸話を持つ人だとはいえ、怖くなかったはずがない。
「ご安心ください。戦況は変わらず良い方向に向かっていますよ」
「……分かりました。信じますよ、グノー」
念を押す彼女を煩わしそうに片手で払い除け、グノーさんは再び机に視線を落とした。
スペンサー夫人は、鋭い目つきをさらに細めつつも、手紙を胸に大事そうに抱え、ため息をひとつ残して退出していった。
▼ ▼ ▼
【愛しいジェイミー様へ】
最近、少しばかり風向きが変わったように感じます。城内の空気も、以前ほど明るくはありません。本当に戦況は順調なのでしょうか? わたくしの思い過ごしであれば良いのですが……。
そして、書こうか悩んだのですが――貴方様の奥様、エルマ様とお会いすることが出来ました。
わたくしがこうして恋文を交わしていることも責め立てることなく、むしろ貴方様の知らなかった一面をたくさん教えてくださったのです。
……貴方様のおっしゃっていたとおり、とても素敵な方でした。
でも、ごめんなさい。
もう少しだけ。もう少しだけでいいのです。
貴方様へのこの恋に浸らせてくださいませ。
Lucia
【愛しのルーシア様へ】
姫様の不安の影が、手紙を通して私の心に届きました。
戦況は順調です。 街で囁かれる小さな風の噂に心を乱さないでください。この手紙に記すことが、何よりも真実だと信じていただければ幸いです。
それよりも、エルマと会われたのですね。
彼女は穏やかで、強い人です。けれど今の私には、姫様の言葉が何よりの灯なのです。
いつかこの戦が終わり、再び穏やかな季節が訪れたとき。
その時こそ、真実の言葉をお伝えしたいと思っています。
Jamie Forn
――不思議なことに、最近の王都の空は澄んでいるはずなのに、どこか重たく淀んでいた。
街路を照らす灯りも以前ほどの明るさはなく、露店の声もまばらだ。食堂の品数は日に日に減り、席に座る兵士の表情には、勝利続きの高揚よりも倦怠と焦燥の色が濃くなっていく。
それでも翌朝になれば城下には号外が貼られ、戦勝の報せに街がざわめきを取り戻す。
『帝国軍、再び撃退!』
『第三騎士団、敵陣突破!』
鮮やかな活字が並ぶ国報を前に、それを眺める者たちは「まだ大丈夫だ」とお互いに言い聞かせるように頷き合う。
だが城下のあちらこちらで、不信の種が芽吹きはじめているのを感じていた。
――事実、バルシアとクーヘンの国境が急に閉ざされてしまったのだ。
それはこれまでに一度も例のなかった措置。城内も妙に騒がしく、武装したまま移動する兵士や書簡を抱えて走る文官が廊下を埋めている。
僕は彼らの邪魔にならぬよう、普段とは違う回廊を通って書庫へ向かった。一度仕事は終えたものの、どうしても片付けたい仕事を思い出してしまったのだ。
足早に歩いていると、貴賓室の近くで不意に「ねぇ、あなた」と声がかかった。
この時間に人と出会うとは思わず、不敬を咎められるのかと慌てて振り向く。
そこに立っていたのは――ゆったりとしたドレスを纏う姫様。そしてその背後にはスペンサー夫人の姿があった。
「突然ごめんなさい。貴方は確か、書記官さまでいらしたわよね?」
まさか姫様からお声をかけられるなんて。僕は慌てて膝を折る。久しぶりに近くで拝見する姫様は、相変わらず愛らしく、柔らかな微笑みと若草色の瞳が灯りの中で揺れていた。
――その姫様に、僕はフォルン様を騙って手紙を書いている。そう意識した瞬間、喉がひりつくほどの罪悪感が込み上げる。
「メイドの子から聞いたのよ。若い書記官が物語を書いているって。それは貴方のことかしら?」
「え! いや、その……恥ずかしながら、子どもの頃の遊びでして」
……あいつめ、余計なことを吹き込んだな。
しどろもどろになる僕を、姫様は楽しそうに見つめている。
「ふふ、いいじゃない。実はね、わたくしも書いてみたいのよ」
「ひ、姫様が、ですか……?」
「おかしいかしら? ……わたくし、どうしても書きたい物語があるの」
どうぞ立って、と促され、僕は壁側に寄って立つ。下っ端文官と姫様とスペンサー夫人という異様な構図に、行きかう使用人たちは訝しげにしながらも会釈して通り過ぎていった。
「どのようなお話を? あっ、さ……差し支えなければ」
「笑わないでね? ……騎士様と、その騎士が愛したひとの物語を書きたくて」
頬を染める彼女を見れば、すべてを語らずとも分かる。それはフォルン様と姫様自身の物語だ。
僕は迷いながらも「きっと素敵なお話ですね」と答えた。姫様は白薔薇のようにふわりと微笑む。
「良かったら今度、書き方を教えて下さらない? ……ああ、でもお忙しいわよね」
「い、いえ! 身に余る光栄です。僕なんかでよろしければ、ぜひ……戦況が落ち着いた頃にでも」
「楽しみにしているわ。それで……貴方の元には、たくさんの報告が届くのでしょう? 例えば――第三騎士団の活躍とか」
どきり、と心臓が大きく跳ねた。姫様は真っ直ぐに僕を見上げていて、その無垢な視線が痛い。
僕は俯き気味に「ええ」と答えた。スペンサー夫人の視線が刺さる。余計なことは言うな、という無言の圧を感じた。
「はい、最近も大きな戦果がありまして……」
「そう。……あのね。もしジェイミー様の戦死の報告が届いたなら、わたくしには教えてほしいの」
「……え?」
思わず聞き返してしまう。姫様は、言葉の端が震えるのを隠すように、小さく息を吸った。
「それで、バルシアには決して知らせないで頂戴。……エルマ様が、悲しんでしまわれるもの」
エルマ様。……僕が大罪を犯した相手、フォルン夫人のことだ。
胸がずきりと痛む。どう返事をすべきか迷っていると、姫様はふと思い出したように顔を上げた。
「よかったら、貴方の名前を教えてもらえるかしら」
一瞬、息が止まった。まさかこんな僕の名を問われる日が来るとは思わなかったからだ。
ほんのわずかな躊躇を経て、絞り出すように口を開く。
「……ジェイミー・フォリンです」
「まあ」
姫様が驚いたように目を見開く。
あの英雄と同じ名で、姓まで一字違い。僕と彼との差を思えばこれ以上なく惨めな話だ。これまでにだって何度周囲に揶揄われてきたことか。
だから名乗りたくなかったのに。姫様は小さく息を漏らし、花が綻ぶように微笑まれた。
「ふふ……とても素敵よ、フォリン」
――その笑みを目にした瞬間。
胸の奥で、何かが弾けた気がした。
「姫様、そろそろ……」
「ああ、ごめんなさい。明日にはエルマ様もいらっしゃるのだから、準備を進めないとね。またお話ししましょうね、フォリン」
「しばらくの滞在となりましょう。……彼女も不運でしたね。国境を越えた途端に封鎖になるなんて……」
「そうね。でも、しばらく会えなかったから嬉しいわ。また、お話が出来るもの……」
どこか悲しげな余韻を残して、二人は立ち去っていく。
その背をしばし見つめたまま、僕はようやく重たい足を引きずるように動かした。
きっと、僕の両足には罪人のために拵えられた足枷でもついているんだろうな――。
そんな自嘲を胸の内で転がしながら。
「……あれ、グノーさん、まさか寝てるんですか?」
書庫の扉を押し開けた途端、規則正しい寝息が耳に届いた。深夜まで仕事が及ぶことが増えたとはいえここで眠りこけているのは珍しい。
揺れるランプの灯りが書類の山を照らす中。声を掛けようとした僕の視界に、一枚だけ裏返った羊皮紙が映る。
何気なく手に取ったそれに、僕は目を走らせた。
『北部防衛線、補給途絶。糧秣および軍器の輸送隊が帝国軍の奇襲を受け壊滅。至急援軍を乞う』
「は……?」
いま、僕は何を読んだ?
理解が追いつくより早く、指は別の紙へと伸びていた。
『王国第二兵団、夜襲により半数が散開。再編の目処立たず。指揮系統の混乱が続く』
『帝国軍、新型の火器を投入。盾隊に多数の死傷者。戦列の維持困難』
『バルシアよりの増援、未だ到着せず。伝令によれば国境付近で足止めとの報。第三騎士団とは未だ連絡が取れず』
惨憺たる戦況が、びっしりと書き連ねられている。
これまで僕たちが清書してきた勝利の報告とは、何ひとつ噛み合わない。
「あー……見ちゃった?」
いつの間に目を覚ましたのか、グノーさんの低い声に顔を跳ね上げる。彼はのそのそと机の上を探りながら眼鏡を手に取った。
そして、僕をじっと見据える丸眼鏡の奥の瞳は、真っ暗な闇に塗りつぶされたようになんの光も宿していなかった。
「油断しちゃったな。驚かせてごめんね。君には、もう少しましな情報だけ渡していたからね」
僕は呆然と報告書を見下ろした。今朝も街に貼られていた『快進撃!』の文字とは正反対の、血の気が引くような現実がそこに記されている。
「な、なんですか、これ……。これが、本当の……」
「うん。本当の戦況だよ。正確には――ひと月前の本当の戦況、だね」
グノーさんは淡々と答え、僕の手から紙を抜き取ると、無造作に焼却炉行きの木箱の中へ放り投げた。その仕草は、もう何度も絶望を塗りつぶしてきた者の慣れ切った動きだった。
「驚いた顔だね。でも仕方ないだろう? なにせ、陛下からの特命なんだから」
椅子に腰を深く預けながら、彼は自嘲めいた笑みを浮かべる。
「特命……? こんな改竄を、陛下も認めてるんですか」
「もちろんだよ。君が"姫様"に希望を与える役目なら――私は"国民の皆様"に希望を与える役目ってわけだ。まだこんな茶番を続けてるんだから、我ながら呆れるよ。敗戦間近だってのにね」
「敗戦……? だって――」
「信じられないかい? だが、この報告書を全部読めばわかるさ。帝国は東の国境をもう破っている。守備に当たっていた聖槍騎士団は壊滅。第三騎士団も損耗率八割で情報が途絶えている。バルシアからは情報が全く寄越されなかったけれど……状況からして、フォルン卿もまず生きてはいないだろうね」
頭が真っ白になる。
フォルン様が……死んでいる?
そんなことを、姫様が知ったら――。
それに、この人は。
目の前に座るこの男は、本当に僕の知るグノーさんなんだろうか?
昼食の献立でも話すみたいに淡々と現実を並べていく姿が、どこか別の生き物のように見えた。
「酷い話だよねぇ。あの国報を見た人たちが、『今日も勝ってるんだ』『きっと大丈夫だ』って笑って家に帰っていく。その姿がとても滑稽で……そして痛ましくてね。ああ、私の拵えた虚構に浸っているせいで、逃げるという発想すら奪われてしまったんだな、って」
彼はゆっくりと立ち上がり、黒い窓の外を見つめた。
「どうしてこんな……。陛下は一体、何をお考えなんですか!」
「私だって何度も進言したさ。でも相手にもされなかった。士気が落ちれば国が崩れる。民衆に暴動でも起こされたら、王権は終わりだとね。義兄上からは『文官風情が出しゃばるな』って罵倒されたよ。……まあ、彼も死んじゃったけど。ざまぁないね」
淡々と告げられる死の報せに、言葉が詰まる。
義兄上――スペンサー卿。前線の鼓舞のために城を出て、まだ二月と経っていないのに。
「首だけ返されて、ようやく陛下も気付いたみたいだね。……もう勝てるわけがない、と」
「じゃあ……全部ウソだったんですか。帝国相手に渡り合っていたなんて話も、連勝の報告も……」
「それが、そうでもなかったんだよねぇ」
グノーさんはわざとらしく肩を竦めた。
「君が清書した勝利の報は、確かに本物だった。……でも、それが罠だったんだよ。帝国が意図的に勝てる余地を残してくれたんだろうね。『まだ戦える』と私たちに思わせるために。交渉の余地も残さぬほどに徹底的に叩き潰したかったんだよ。いやぁ、策士だねぇ、悪辣だ」
そう言って、彼は一枚の羊皮紙を僕へ放り投げた。
そこには――降伏書を帝国の使者が破り捨てた事実が、淡々と記されていた。
「降伏さえも許されなかったなら……ど、どうなるんです、この国は……」
「そうだねぇ。……せっかくだ、一緒に想像してみようか」
軽い調子のまま、グノーさんは手を開き、指を一本折り曲げる。
「まずはバルシア。あそことの国境を閉ざしたのは、もう切り捨てると決めたからだよ。まさか帝国が山を迂回してまであっちを先に落とすつもりだとは思わなかったなぁ。……そのうち落城の報せが届くさ。それが、終わりの始まりかな」
次の指が折られる。
「その勢いのまま、帝国軍はクーヘンに雪崩れ込む。今回はもう、第三騎士団なんて救世主は来ない。城は焼け落ち、王は討たれ、臣下はその場で斬り捨てられるか、あるいは王に殉じるか。ご令嬢たちは辱めを受ける前に自ら身を投げるかもしれない。……ああ、あの塔なんか、ちょうど良い高さだ」
四本目が折れ、乾いた笑いが漏れる。
「さて、姫様はどうなるかな。あの器量だ、順当にいけば捕虜だろうけれど――。余所では"悪評まみれの王女"が戦勝国の王子に嫁がされ、人とも思えぬ扱いを受けていた例もあるそうだ。尊厳が守られるかどうか……さて、どうだろうね」
五本目が折り畳まれ、彼は最後にふわりと掌を開いた。
「悪評だなんて……! そんなもの、姫様にあるわけがないじゃないですか!」
「ええ、君がそれを言うんだね?」
グノーさんは薄く笑い、静かに首を傾げた。
「妻を持つ騎士に横恋慕するだけなら、まあ可愛いものだ。でも、その妻を何度も呼びつけた挙句に、離縁を迫る文まで送っていたんだからねぇ。……心証、最悪だと思わない?」
「――ッ!」
見て見ぬふりをしてきた現実が、無慈悲な形で突きつけられる。
……そう、僕はスペンサー夫人に命じられるがままに、フォルン様の筆跡を真似て――。
彼の帰国を待つ奥様に、あろうことか"離縁を迫る手紙"を書いていたという醜悪な事実を。
返事はこなかった。
だが手紙は、彼女の手元に残ったままのはずだ。
もし、それが帝国に押収されたら?
押収されなくても、もし彼女が憤りから訴え出たら?
想像するだけで膝から力が抜け落ちる。
蹲った僕の肩を、グノーさんは慰めるように軽く叩いた。
「敵はもう目前だ。こうなったら王族は最後まで抗戦するだろう。そして――その時に私たちのやるべきことは分かってるかい?」
「……い、いえ。僕にはもう、何ひとつ……わかりません」
「この書庫の破棄だよ。フォルン卿との手紙も、報告書も、文献も。痕跡はすべて燃やすんだ」
深い覚悟を孕んだ声は、床に乾いた反響を残し、そのまま僕の胸へストンと落ちた。
「それは私と君の役割だ。証拠は残すな。貴重な史料を敵国に渡すつもりもない。私たちは、この城と一緒に燃え落ちなければならない」
その言葉は、胸の奥に静かに沈んでいった。
逃げ道が消え、代わりに妙な落ち着きが流れ込んでくる。
……ああ、僕もこの人と同じ場所に立つしかないのだ。
僕から離れたグノーさんは――皮肉にも、これまでで一番晴れやかな顔をしていた。
「ああ、ようやく言えた。おかげですっきりしたよ。……私もね、誰かに聞いてほしかったのかもしれないな。特命という名のもとに、私の犯してきた罪を」
彼はのろのろと再び椅子に腰を下ろし、書類の山に向き直る。
「さぁ、仕事を続けないといけないね。明日はどこの部隊を活躍させようか。やっぱりフォルン卿に頑張ってもらおうかな? 彼らが活躍すると、民衆は喜ぶんだよねぇ」
すっかり共犯者に仕立て上げられてしまった僕に、グノーさんは愉快そうに笑いかける。
――でも僕は、もうそんなことを考えている余裕なんてなかった。
どうすれば。
どうすれば姫様だけは救われるのか。
その切実な思いだけが、胸の内を占めていた。
*
表向きは平穏な日々が続いた。姫様からは相変わらずフォルン様宛に手紙が届くけれども、国境が完全に閉ざされたいま、それらがどこかに届くはずもない。整合性を保つためという今さらな名目で、僕も返事を返さなくてよくなった。
姫様から届いた手紙はすべて燃やした。けれど姫様の手元には、まだフォルン様からの手紙が希望として残っている。
いずれ真相を知ることとなるスペンサー夫人が処理する手筈だが――僕は念を入れて、別の一通を書き残した。
だって、僕にできるのはもうこれくらいだから。
戦が終わって捕虜にでもなれたら同じ内容を口にできるかもしれないけれど、僕はおそらくこの書庫で燃え尽きるから。
だからこそ、最後の悪あがきとして残す必要があった。
そしてその一通を、僕は恥知らずにも――ひとりの女性に託すことにした。
僕が騙った英雄の奥様。
フォルン夫人、エルマ様だ。
彼女は祖国へ帰ることもできず、城の賓客として滞在を許されていた。かつて姫様の話し相手にフォルン様が抜擢されたように、今は彼女が、どこか不安定になってしまった姫様の傍に寄り添ってくれている。
そんな彼女が、僕の密かな呼び出しに応じてくれた。
花の盛りを終え、色褪せかけた庭園。
その静寂の中に彼女はひとり、白い月あかりを受けて佇んでいた。
物憂げに萎びた白薔薇へ視線を落とす横顔は、触れれば崩れてしまいそうなほど儚い。
胸の内で何度も反芻した言葉を整え、僕はそっと彼女の前へ膝を折った。
「突然のお呼び立て、誠に申し訳ございません。僕は、ジェイミー・フォリンと申します。この国で……書記官をしております」
フォルン夫人が、ゆるやかに振り返った。
「……そう。稀有な巡り合わせに感謝いたします。私はエルマ・フォルンと申します」
優雅に礼を取る彼女に、胸の奥でずっと燻っていた罪を告白しようとしたのに――喉がひりついて、言葉がうまく出てこない。
この期に及んでまごつく僕を見て、フォルン夫人はふっと小さく息を漏らした。
「……ルーシア様に愛を囁いたのは、あなたなのですね」
一介の書記官が会いに来た。
ただそれだけで、すべてを察したのだろう。
僕は深く、深く頭を垂れた。
「誠に申し訳ございませんでした。どんな誹りも受ける覚悟はできています。でも……姫様は本当に何も知らなかったのです」
「頭を上げてくださいな。……あなたも、さぞお辛かったでしょう」
思いもよらぬ優しい声音に顔を上げると、フォルン夫人は穏やかな笑みを浮かべていた。
罵倒されるのが当然だと思っていたから、その微笑があまりに柔らかくて、息が詰まる。
「安心して。我が家に届いた不審な手紙は、すべて暖炉の火種にしましたから。……夫が誰を愛していたのかは、妻の私が一番よく知っています。だから……ルーシア様と貴方の物語を、責めるつもりはありません」
その一言が、胸の奥を締めつけた。
「……フォルン夫人。貴女にこんなことを頼む筋合いでないことは承知しています。それでも……どうか、これをお預かりいただけませんか」
震える手で差し出した白い封筒は、月光の端を掬って淡く光った。
フォルン夫人はそれをそっと受け取り、封面を見つめる。
「……ルーシア様に宛てたものではないのですね?」
「はい。姫様のお手元に届けるものではありません。これは……僕が犯した罪の、すべての記録です」
フォルン夫人のまつ毛が、かすかに震えた。
「……分かりました。預かりましょう。もし私が生き延びられたなら――必ず、しかるべき方へ届けます」
彼女は封筒を胸元に抱きしめた。
風が吹き、白薔薇の花びらがひとつ、ゆっくりと舞う。
その行方を目で追いながら、夫人はぽつりと言葉を落とした。
「ルーシア様は幸せね。……ジェイミーに二度も救われるのだから」
その皮肉とも優しさともつかない声に、胸の前で拳を握りしめ、僕は深く頭を垂れた。
今の僕に示せる誠意なんて――それくらいしかなかった。
*
姫様は、密かに国外へ出るよう陛下から何度となく促されながらも、決して従うことなく最後まで城に留まっていた。なんでも、国に戻れなくなったフォルン夫人と茶会を重ねているという。
フォルン様の戦死はすでに公然の事実ながら、二人の間でそれが語られることはない。迎賓館を模した白薔薇の枯れた庭園で、まるで昔日の続きであるかのように並んで腰かけ、微笑み合っているのだそうだ。
もう隠し立てする必要もなくなったからか。塩漬けにされたスペンサー卿の遺骸と対面し、一夜にして髪の色がすべて抜け落ちたスペンサー夫人も、いつものように姫様の傍らに控えている。
何も変わらぬ日常のように見えて、すべてが静かに終わりへ向かっていた。
今日もまた、人がまばらになった街には虚飾に満ちた国報が風に揺れ、逃げ場を失った民たちは王家の失策を罵るために城門前に詰めかけている。
王城が諦観に包まれる中――。
遠く――どこか城壁の方角から、鐘が鳴った。
短く、鋭く、何回も。
警鐘を告げるように。
グノーさんは顔を上げ、ちらりと僕に目配せすると、無言で書庫を後にした。
きっと図書館へ向かったのだろう。そこが彼の持ち場だから。
姫様たちは、無事に隠し通路から逃げられるだろうか。
……いや。
甘い希望は、自分で打ち砕く。
地図上の帝国軍の駒は、蟻の通り道すら残さぬよう、完全にクーヘンを包囲していたのだから。
――どうか。
どうか、姫様にも、フォルン夫人にも。
ほんの少しでもいいから、幸せな未来が待っていますように――。
喧騒。怒号。蹄鉄のうなり。
迫り来る破滅の音が、遠雷のように耳を震わせる。
その音に背中を押されるように、油の匂いの漂う書庫の扉に、僕は内側からそっと鍵をかけた。
落城後に拘束した「王女付き侍女」を名乗るエルマ・フォルンより、嘆願書が提出された。
内容は王女ルーシアの処遇に影響を及ぼすものではないが、念のため後日の判断材料として保全する。
以上を踏まえ、王女および同侍女を丁重に帝都へ送致するものとする。
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この書面をもって、私のすべての過ちを記し、関係する方々の名誉を守るため、ここに提出いたします。
一、私は個人の判断により聖騎士ジェイミー・フォルン卿の名を用い、姫君ルーシア殿下宛に手紙を偽作いたしました。
一、これらの手紙の内容はいずれも事実に基づかず、私自身の愚かな憧れと妄想から生じた虚構の産物であります。
一、殿下はそれらの文面をお怪しみになり、一度として返書をくださることはございませんでした。
それでも私は筆を止めることができず、身の程知らずにも思いを重ねるようにして、幾度も同じ過ちを繰り返しました。
すべては浅慮ゆえの行為であり、殿下を惑わせる意図は微塵もございません。
しかし結果として、殿下のお立場を貶め、国に不名誉をもたらしたことを深く悔いております。
この告白をもって、私の罪のすべてを明らかにいたします。
どうか、これ以上この愚行によって誰一人として傷つくことのありませんように。
――以上が、愛に狂った僕の最期の言葉です。
僕の姫様に愛を捧ぐ。
Jamie Forin




