第三騎士団の荷物持ち
本作は『 戦場から帰らぬ夫は、隣国の姫君に恋文を送っていました』のスピンオフです。
本作だけでもお楽しみいただけるかと思いますが、
前作をお読みいただくと、より物語の背景や人物の関係が伝わるかと思います。
風車が連なる丘の上。
柔らかな風に牧草がたなびき、日向の羊たちは呑気に草をはんでいる。
その穏やかな景色の中で、ふたりの男女が隣合って腰を下ろしていた。
第三騎士団の見習い兵士で、長期の遠征が決まっている青年、ロシェ。
普段は少し頼りない彼の表情からは気弱さが消え、どこか覚悟を帯びた眼差しで、幼馴染のマリカの両手をしっかりと握りしめている。
俺はその光景を、少し離れた場所から眺めていた。
「必ず帰るから。その時に、君に伝えたい言葉があるんだ」
今言えばいいものを。
マリカは腫らした目を細め、必死に涙をこらえるように何度も頷いた。
「分かった。待っててあげる。だから必ず戻ってきてちょうだい。……もちろん、ディンも一緒によ」
不意に名前を呼ばれて、思わず耳をそばだててしまう。
兵士でも何でもなかった俺も団長に適性を見出され、ロシェと共に行くことが決まっていたが、マリカは俺のことまで気にかけてくれるのか。
なんだか、やけにこそばゆい。
「当然だよ。ディンは俺の相棒なんだから」
「うん。怪我はしないで。あなた達の無事を祈ってるから……これを、私に返しに来てね」
マリカはそう言って、晴れ渡る空と同じ色のスカーフを取り出し、そっとロシェの腕に巻き付けた。
これ以上は無粋だろう。
ふたりの邪魔にならないよう、俺は静かにその場を後にした。
*
――あれからどれほどの月日が経っただろうか。
あの日とは違う風が、灰色の土をさらっていく。
ここは前線と本隊の境目に作られた仮の駐屯地。
砦と呼ぶには心もとない、木柵と粗末な天幕がいくつも並ぶだけの場所だ。
俺は焚き火のそばに座るロシェを見つけ、隣へ腰を下ろした。
ぱちぱちと燃える火に照らされた彼の横顔には疲労の色が滲んでいる。
それでも彼はいつものように淡く微笑んだ。
「……ディン。今日も一緒に生き延びられたな」
そうだな、と返事をしたくとも、先の戦で喉をやられた俺には声が出ない。
本来ならこんな役立たずは村に帰されるかどこかで捨て置かれてもおかしくなかったのに。それでも団長の裁量でロシェの補助として同行を許されている。
その現状に苛立ちと歯痒さを覚えてしまうと――分かってるよと言いたげに、ロシェがそっと俺の背を叩いた。
周囲では、第三騎士団の団員たちが束の間の休息を噛み締めている。
鎧を磨く者、剣の刃こぼれを確かめる者、くたびれた手紙を広げて深く息を吐く者。
どれも見慣れた光景のはずなのに、その背には緊張の影がつきまとっていた。
「なんだ、ロシェはまた休憩か? 荷物持ちくらいしか取り柄がないくせに、いいご身分だな」
不意に嫌味な声が飛んでくる。先輩格のルーカスだ。腕を組み、焚き火越しにロシェを見下ろしている。
以前なら言い返すこともできずに黙り込んでいたロシェだったが――
「荷物持ちも立派な仕事です。貴方の携行食を運んでいるのも僕だということは、お忘れなく」
「チッ、口だけは達者になりやがって」
どうやら戦場で生き延びた時間が少しずつ彼を強くしたようだ。相棒として、どこか誇らしくなる。
俺も睨みつけるように視線を向けると、ルーカスは興を削がれたような顔でもう一度舌を打ち、その場を離れていった。
「……なんだ、また揉めてるのか」
低い声とともに、副団長のジェイミーが天幕から姿を現した。
一見すると不機嫌そうな顔つきだが、気を配るように周囲の様子を伺っている。
「ジェイミーさん、喧嘩なんてしてませんよ」
「なら身体を休めておけ。合図があったら出るぞ」
「わかってますよ。……団長は、また寝てるんですか?」
「戦場では寝られる奴が一番強いからな」
そう言って、ジェイミーはふと俺に目を向ける。「お前もだったな」と微かに笑うその顔に魅了された令嬢も多いと聞いたが、それも納得だ。
少し離れた天幕の外では、ガードナーが器用に木を削っていた。
「ガードナー先輩、また何か作ってるんですか?」
「手が動いてないと落ち着かなくてな。ほらロシェ、お前にもひとつやろうか?」
「えっ……いえ、そんな……」
「遠慮すんな。どうせ暇つぶしだ」
ガードナーは笑いながら小さな木彫りの人形を放り投げた。
どこか不格好で、子どものおもちゃのような温かみのある細工。ロシェは困ったように笑いながら、それをそっと腰鞄へしまい込む。
そこへ、別の団員が息を弾ませて駆け寄ってきた。
「荷物を整理してたらまたトマス宛ての荷が出てきたんだ。もう、渡せねぇってのにな」
「トマスさんの、お母さんからの?」
「ああ。息子が心配でたまらなかったんだろうな。……ほら、お守り。また一個増えちまった」
「仕方ないですね……預かっておきます」
トマスは先日、帝国が使い始めた新型の兵器に巻き込まれて命を落とした。
戦況報告書にはその惨禍と共に戦死者の名も記されているというが、訃報が家族のもとまで届くかは分からない。
だからトマスの母親は息子の生存を信じて、手紙やお守りを送り続けるのだろう。
とはいえ、その郵便すらも前線には届かなくなって久しい。
戦況が激化し、どこもかしこも余裕を失っていた。
「……いいか、お前ら」
焚き火の奥から低い声が響いた。
目を向けると、団長が天幕から姿を現したところだった。
「今日は敵影が薄い。仕掛けるなら今夜だ」
「今夜? この雲模様だと……荒れますよ」
「だからだよ。嵐に紛れて山を越える。道のりは険しいはずだ。今は体力温存に努め、決して油断するな」
団長の言葉に自然と背筋が伸びる。
この山岳を越えれば、帝国の砦を裏から突ける。本隊との挟撃も視野に入る。
いつの間にか劣勢に追い込まれていた第三騎士団にとって、起死回生の一手となる作戦だった。
「ロシェ、戦況報告書は書いてくれたか?」
「ええ、いつものように。たまにはジェイミーさんが書いてくださいよ」
「俺の字の汚さを知らんのか。読めない報告じゃ、届く物資も届かないだろうが」
「だからって奥さんに頼りのひとつも寄越さないのも、どうかと思うけどな」
ルーカスの皮肉に、ジェイミーは苦笑を返すしかない。
「エルマは俺を信じてくれているさ。むしろ下手に手紙なんて送ったら余計な不安を抱かせるだけだ。俺たちの動向は戦況報告に全部載るんだから、それで十分だろう? 活躍だけ知ってくれていればいいさ」
「いや、その理屈はおかしいだろ」
団長が呆れたように突っ込む。だがロシェはなぜか感心したように大きく頷いた。
「いいですね、その通じ合ってる感じ。……あーあ。僕もマリカに告白しとけばよかった。必ず帰るなんて、格好つけなければよかったですよ」
「それだっていいじゃないか。希望はあるに越したことはない」
「そうだな。……姫様も、それで納得してくださったんだしな」
ガードナーがニヤリと意味深に笑う。
「誤解させたままで戻ったらあとが怖いぞ、副団長」
揶揄うような指摘に、ジェイミーはすっかり困ったような顔をした。
おそらく団員たちの脳裏に浮かんでいるのは、同盟国の姫君の顔だ。
戦地へ向かう彼を必死に引き留めた姫君を、ジェイミーは「必ず戻りますから」と宥めたのだという。
だがそれがかえって妙な誤解を招いたらしく、以来、熱のこもった手紙がひっきりなしに届くようになったらしい。
返事をする余裕もないままここまで来てしまったが、その一件は団員たちの酒の肴になっていた。
「ジェイミーに待ってるのは修羅場だな。今から腹を括っといたほうがいいんじゃないか?」
「はは……考えるだけでも恐ろしいからやめてくれ。第一、俺はエルマ一筋だ」
「無自覚に誑し込むんだからタチが悪い。こんな朴念仁のどこがいいんだかな。同じ無口なら、よほどディンの方がいい男だと思わないか?」
団長が大きな手で俺の頭を乱暴に撫でると、どこからか「違いねぇや」と笑い声があがった。
束の間の休息は、こうして流れていく。
貴族だろうと平民だろうと関係ない。幾つもの戦場を共に越えてきた俺たちの間には、もう貴賤の差なんて残っていない。
彼らは仲間であり――天涯孤独の身の上の俺にとっては、ほとんど家族のような存在だった。
*
夕刻、予想どおり荒れ始めた風が天幕を激しく揺らした。稲光が遠くの山肌を照らし、これから向かう山道の険しさを示すようだ。
「……嵐に紛れて山を越える。帝国は大軍ゆえ、視界が悪い夜は動きづらい。今夜が好機だ」
団長の声はいつもどおり豪快だったが、その瞳の奥には緊張が宿っていた。
第三騎士団は最低限の荷だけを背負い、細長い隊列を組んで山へと入る。
雨風は刻一刻と激しさを増し、濡れた岩肌は滑り、視界は瞬く間に狭まっていく。
「ディン、離れるなよ」
ロシェはそう言って俺の背負う荷物を軽く叩き、前へ進んでいった。
隊列の先頭付近ではジェイミーが黙々と歩いている。
時折背後を振り返り、列が乱れていないことを確かめると、大粒の雨を降らせる空を仰いだ。
「……こんな日は、さっさと家に帰ってエルマの温かいスープが飲みたくなるな」
「副団長、まさかの惚気話かよ? それなら俺だって負けられないぞ」
「ハッ、こんな所でお前らの愛妻家エピソードを聞かされる身になれっつーの」
「たまにはいいだろう。俺の妻は本当に出来た人だったんだ。少しくらい自慢させてくれ」
無口なジェイミーが珍しく語り続けるのを、周囲は笑いながら聞いていた。
張り詰めすぎた空気を、少しでも緩めようとしているのだろう。
もちろん油断は禁物だ。けれど肩に力を入れすぎても前では戦えないから。皆、それをよく分かっていた。
「……気丈な人だが、脆いところもある。こんな戦争は早く終わらせて帰ってやらないとな」
その静かな言葉に、誰もがうなずいた――その瞬間。
穏やかな空気を引き裂くように、怒号と土砂の崩れる音が響いた。
「うわッ……! 足元が……ッ!」
「踏み抜いたぞ! 罠だ、気をつけろ!」
前方の小隊から悲鳴が上がる。
足場が次々と崩れ、兵たちが滑り落ちていく。
「ジェイミーさん! 下がってください!」
「分かってる! 全員、距離を取れ! 崖から離れろ!」
ジェイミーは仲間を押し戻しながら、自分は崖の縁ギリギリで踏み外した兵の腕を掴み、必死に踏ん張っている。
だが――
大きな亀裂音が響いたと同時に、彼の足場ごと地面が崩れ落ちた。
「副団長!」
叫びは風に飲まれ、ジェイミーの姿はあっという間に豪雨の闇に――……消えた。
崖下からは、岩が砕ける鈍い音が何度も響く。
崖際に残った者たちは腰を抜かしたまま、ただ崩れた地形を見つめていた。
「……一時後退し、進路を変更する」
静まり返る中、団長だけが低く指示を出す。
隊列は後方へと下がり始めた。
「団長、もしかしたら生きているかもしれません……! 僕に行かせてください!」
「ああ。お前とディンが一番足腰が強い。すまないが、下を確認してきてくれ。……ただし、深追いはするな」
すぐさま俺たちは隊列を離れ、崖下へ続く細道へ駆け出した。
雨で濡れた岩肌は滑りやすく、足を置くたび泥水が跳ねる。
声を出して注意を促したかったが、喉は痛むばかりで音を作れない。
「大丈夫だよ、ディン。足元、気をつけて」
逸る気持ちを抑えて、慎重に。
やがて辿り着いた崖下には――
無惨な姿の仲間たちが散らばっていた。
落下の衝撃で即死した者。
岩に叩きつけられ、原形をとどめない者。
川へ頭を沈ませたまま動かない者。
降り続ける雨が血を薄め、地面を黒く染めて流していく。
「……ジェイミー、さん……」
ロシェの震える声が、雨音に紛れながらもはっきりと耳に届く。
俺の鼻にも、確かに知っている匂いが届く。
崩れた岩の陰。
そこに、ジェイミーは静かに横たわっていた。
投げ出された身体は無残な状態で、生を感じさせる気配はどこにもない。
だが片手だけは、不自然なほど強く何かを握りしめていた。
ロシェがそっとその手を開く。
「……指輪だ……」
細い紐が通された金属の輪。
俺も何度か目にしたことがある。……結婚指輪だ。
身なりに無頓着だった男が、戦場でずっと大切にしていたものだ。
「……せめて、埋葬だけでもしよう」
ロシェは震える手で地面に石を突き立てるが、なかなか掘り進められないでいる。
こういう力仕事は俺の方が向いている。俺は彼の手を押しのけて前へ出た。
雨のおかげで土は柔らかく、少しずつ深さを作っていく。
掘り上げた穴にジェイミーの身体を引きずるように横たえて、ロシェは腰鞄へ指輪をしまい込んだ。
「帰ったら、エルマさんに渡してあげよう……」
俺の代わりに、雨音だけがその言葉を受け取った。
埋葬を終え、崖下を後にする頃には雨は弱まり、雲の裂け目から朝の光がのぞき始めていた。
山腹の合流地点では、疲弊しきった兵たちが蹲っている。
……先ほど別れた時よりも明らかに人数を減らしている。
ロシェは、泣いた跡を隠すように顔を上げ、団長へ歩み寄った。
「……どうだった」
「ジェイミーさんも、他の人たちも……」
そこで言葉が途切れたが、団長にはそれだけで十分だったのだろう。
彼は目を閉じ、数秒だけ押し黙り――重たく頷いた。
「王都へ伝令の手配を。……俺たちは作戦を続行する」
嵐の中、沈黙の隊列は再び山道を進み始めた。
*
山を越えた先に広がっていたのは、ひどく静まり返った砦だった。
残されているのは、壊れた武具と腐った食料だけ。
本来なら裏から奇襲を仕掛けるはずだったこの場所は、俺たちを嘲笑うように、すでに放棄されていた。
呆然と立ち尽くす俺たちの横で、団長が地図を広げ、低く唸る。
「……まずい。このままではこちらが挟撃を食らう」
「森に潜みましょう! ここにいたら、いい的だ!」
誰かが叫んだ瞬間、右の林で乾いた枝を踏みしめる音がした。
警告の声も上げられない俺は、ただ反射的に団長の脇腹へ体当たりする。
――ドスッ。
押し飛ばした直後、さっきまで団長が立っていた場所に一本の矢が突き立った。
「敵影! 右だ、構えろ!」
盾兵が反射的に前へ出る。矢は雨粒のように降り注ぐ。
金属が弾け、悲鳴が混ざり、みるみるうちに隊列が崩れていく。
――撤退戦が、否応なく始まった。
補給は絶たれ、眠る場所すら満足に確保できないまま、帝国の追撃は波のように押し寄せた。
弓兵の矢が列を貫き、降り注ぐ岩が地面をえぐり、炎に追われ、兵士たちが次々に命を散らす。
……ガードナーのように、仲間を逃がすために前に飛び出してそのまま戻らない者もいた。
ロシェの腰の鞄には収まりきらない遺品がひとつ、またひとつと増えていく。
ひしゃげた勲章。
名前の刻まれた短剣の柄。
爆風から唯一残った指先。
拾えるだけ拾い集め、ロシェはひとつひとつを布に包んで鞄へ収めていく。
「……まだ生きてたのかよ。ロシェの分際で生意気だな」
木陰に身を潜ませ、わずかな休息を取っていると掠れた声が降ってくる。
振り向けば、ルーカスが倒れ込むように腰を下ろしたところだった。
お互いにもうどこもかしこもボロボロで、彼の矢筒に残された矢も数えるくらいだ。
「生きてますよ。生きて帰らなくちゃいけないんで」
「そうかい。……それなら、これも預かってくれないか」
珍しく殊勝な態度で差し出されたのは、汗と泥にまみれ、端がほつれた紙片だった。
「ルーカス先輩、それって……」
「俺の、だ。……弟たちへの手紙だよ」
乱暴で、喧嘩腰で、何かと突っかかってばかりいた男とは思えないほど凪いでいる。
呆けたままでいるロシェに彼は「ハッ」と笑うと、用は済んだとばかりに立ち上がる。
「しぶとく喰らついてきたお前らにだから託すんだ。……頼んだぜ」
その晩。
ルーカスは最後の矢で敵将の喉を射抜き、背後からの槍に貫かれた。
空が白み始め、ようやく敵影が途絶えたころ。
小さな天幕の中で伝令の報告を受けていた団長が、深く、長い息を吐いた。
「……ロシェ、ディン。お前らはここまでだ」
「団長……? どういう意味ですか?」
「遺品がこれだけ集まっちまった。これ以上、戦場を連れ回すわけにもいかんだろう」
王都からの援軍により辛うじて押し返してはいるが、それもいつまで続くかは分からない。
確かに戦場を離れるとしたら今しかなく、もう二度と機会は訪れないかもしれない。
無言で立ち尽くすロシェの肩を、団長はぐっと掴んだ。
「これは命令だ。お前たちはそれを全部、彼らの家族に送り届けるんだ」
「そんな、僕はまだ戦えます!」
「勘違いするな。これはお前たちにしか出来ないことなんだ。……荷物持ちは、得意なもんだろう?」
任務だと、彼は言う。
逆らうことは許さないと。
厳しい言葉とは裏腹に、その声音は胸が締め付けられるほどに優しいものだった。
ロシェの拳が震え、歯を食いしばる音がかすかに聞こえてくる。
俺はその傍で身じろぎし、言葉を持たぬまま団長を見上げた。
「ディン。お前はロシェを支えてくれ。……お前にも世話になったな。ここまで付き合ってくれて、本当にありがとうな……」
辛抱強く訓練に付き合ってくれた団長が、いつものように荒っぽく俺の頭を撫でる。
傷だらけの手のひらだったがその瞳だけは揺らがずに――まだ、絶望していなかった。
「俺たちもすぐに死ぬような真似はしない。粘れるだけ粘ってみせるさ。……最後の命令だ。早く行け」
この戦場で何百という命を背負ってきた男の覚悟を前にして、ロシェは何も言えなかった。
ただ、深く、深く頭を下げた。
そして俺たちは――
第三騎士団から離れる道を、歩き出した。
駐屯地が完全に見えなくなってから、ロシェと俺はひたすら敵兵の目を避けるように森の道を歩いた。
戦場に満ちていた張り詰めた気配が、遠ざかるごとに少しずつ背中から剝がれ落ちてゆく。
前線の兵たちの踏ん張りで、まだこの辺りまでは戦火が及んでいないのだろう。
山を下り、国境を越えたあたりで、風の匂いがわずかに変わった。
「……あと二日は歩くだろうな。ジェイミーさんの家は王都の外れだから」
ロシェは肩に食い込む革紐を指で探り、抱え直した鞄の位置を整えた。
腰の荷は膨れ上がって形を歪ませ、背中の荷もぎしぎしと軋む。俺が背負う袋も張りつめ、いつ裂けてもおかしくないほどだ。
バルシアの王都へ続く街道は、驚くほど静かだった。
行き交う人影はまばらで、商人の馬車が通るたび、土埃が淡く舞い上がる。
……幸い、帝国兵の影はない。
日が傾き始める頃、遠くに石造りの大きな門が見えた。
王都バルシオン。
第三騎士団が守り抜いてきた街であり、俺たちにとっては帰る場所でもある。
門兵はぼろぼろの装備に眉をひそめたが、ロシェが所属を示す騎士団章を掲げると、すぐに姿勢を正し、静かに道を開いた。
「……第三騎士団。前線にいるはずだが、伝令か?」
「はい。……別の任務を受けたんです」
門兵はそれ以上追及しなかった。俺たちの姿を見て、必要以上のことを聞くべきではないと察したのかもしれない。
久しぶりに足を踏み入れた王都の中は、戦の影を抱えながらもまだ生活のぬくもりがあった。
品薄の果物が並ぶ市場、料理の匂いが漂う家々。子どもたちの笑い声。
あの地獄の戦場から帰ってきたばかりの俺たちにしてみれば、まるで別世界のようだ。
「ディン。あそこの角だ。……ジェイミーさんの家は、もうすぐそこだ」
言葉とは裏腹に、ロシェの歩みがはっきりと鈍りはじめる。
その背中が迷っているのが分かったから、俺はそっと彼の前に回り込み、道案内をするように進んだ。
「……大丈夫だよ、ディン。これは俺の役目なんだから」
かけられた声は、まるで自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
そうして辿り着いたのは、品よく整えられた石造りの邸。
ジェイミーが「広すぎて落ち着かない」と照れくさそうに笑っていた、あの家だ。
「……行くぞ、ディン」
ロシェは意を決したように息を吸い込むと、扉脇の房飾りの付いた紐を引いた。
短い沈黙。
すぐに、慌ただしい足音が近づいてくる。
扉が開かれ、挨拶を交わした侍女はすっかり困惑した様子だった。それもそうだ。先触れも出さずにふらりと現れたのだから戸惑わせてしまっても仕方ない。
その後ろから姿をのぞかせた夫人がロシェの顔を見た瞬間、胸元を押さえるようにして駆け寄ってきた。
「ロシェさん……!? それにディンも。ああ、良かった、無事だったのね……!」
俺たちの帰還を純粋に喜んでくれる声に、ロシェの肩がかすかに揺れた。
騎士団に合流して間もない俺たちを気にかけ、ジェイミーは何度も夕食へ招いてくれた。
そのたびに妻であるエルマは慈しむように接してくれたのだ。
そんな人に最も伝えたくない事実を告げなければならない。ロシェの喉が、大きく動いた。
「……はい。すみません。これを、渡しに来たんです」
ロシェが鞄から小さな袋を取り出し、そっと差し出す。
エルマは訝しむようにそれを開け、手のひらに中身を転がした途端、顔が強張った。
「……あの人は……これを遺して……?」
「はい……。ジェイミーさんは、仲間を助けようとして――」
雨の匂い、崖の崩落、握りしめられていた指輪。
すべてを聞き終えたエルマは大きく目を見開いたまま、はらはらと涙をこぼした。
「……ああ……ごめんなさい、こんな情けない姿を見せてしまって……」
「いえ、こんな結果になってしまって、すみません……。それと、これは王命で伏せられていることなんです。申し訳ないのですが……」
口外が禁じられていることを暗に伝えると、背後で聞いていた侍女が「そんな!」と非難するように声を上げる。だが、エルマはそれを制してふるふると首を振った。
「仕方のないことよ。それでも伝えに来てくれてありがとう。あなた達も疲れたでしょう? どうか休んでいってちょうだい。ハンナ……二人に食事の支度をお願い……」
そのまま辞去しようとした俺たちを、エルマは優しく引き止める。
ジェイミーの家の中に招かれ、暖かな灯りに包まれた途端に緊張がふっとほどける。
湯気の立つスープは、本来ならずっと待ち望んでいたはずのものだったのに。ロシェは一口も飲めず、ただ椅子に座って揺れる湯面を見つめるばかりだった。
エルマも無理に勧めることはしない。
代わりにそっと毛布を肩へ掛け、俺の背をひと撫でしてくれた。
夜が明けて、灰色の空の下、見送りに出てくれたエルマは掠れた声で問いかけた。
「あなた達はこれからどうするの? また、戦場に戻るの……?」
「いえ……他の人の家を回ります。みんな、首を長くして待ってることでしょうから……」
「そう……。あの人ったら……」
胸元を押さえるようにして俯き、エルマは涙をこらえるように息を吐いた。
「あなた達にこんな仕事を押し付けるなんて……本当に酷い人ね。ごめんなさいね。……ありがとう……」
言葉の最後は、風に溶けるように消えていった。
第三騎士団は王都常駐の部隊ではなく、前線を渡り歩く遠征主体の野戦部隊だった。
団員の多くは辺境や小さな村の出で、王都に家族を持つ者はほとんどいない。
だから王都に家を構えていたジェイミーの遺品返しが、俺たちの旅の最初の訪問先となった。
皮肉にも――平和な街の真ん中から俺たちの長い旅は始まったのだった。
「……次は、ガードナー先輩の家だ」
地図に印をつけたロシェの指先は震えていたが、まだ真っ直ぐ前を向いていた。
俺は黙って彼の隣を並走する。
城壁が遠ざかるにつれて、風の匂いがまた変わる。
やがて辿り着いた集落は、戦火の兆しがうっすらと漂う程度でまだ平穏の影が残されている。
ガードナーの家の前に立つと、庭先で洗濯をしていた女が俺たちの姿を認めた瞬間、息を呑むように口元を押さえた。
「その徽章は……第三騎士団の方、よね……?」
ロシェは言葉を探すように一瞬だけ目を伏せ、それから木彫りの人形を差し出した。ガードナーが彫っていた、子どものおもちゃだ。
女はそれを見ると、膝の力が抜けたようにその場へ崩れ落ちた。
家の奥から幼い娘が駆け寄ってきて、「わぁ、大きい!」と俺の体に抱きつきながら楽しげに笑う。
「これ、お父さんが作ったの? すごいね! ……それで、お父さんはいつ帰ってくるの?」
明るい声はあまりにも無邪気で、そして残酷で。
ロシェは耐えきれずに俯き、ぽたりと落ちた涙は土に吸い込まれていった。
王都からさらに郊外へ進むほど、避難民とすれ違う頻度は目に見えて増していく。
周辺の国はもう帝国の手に落ちたらしい。誰に尋ねても返ってくるのは『この国も先は長くないだろう』という絶望に満ちた言葉ばかりだ。
「……マリカも、無事だといいんだけれど」
かつては自分たちが身を案じられる側だったのに、いまや遠く離れた幼馴染の安否すら分からない。
けれど、故郷へ真っ直ぐ戻るわけにはいかなかった。
帰りを待つ人たちがいる以上、俺たちには果たすべき使命があるのだから。
いくつかの町や村を渡り歩いて、ようやくたどり着いたのは鄙びた村だった。
ルーカスの家の粗末な扉を叩くと、あどけなさを残した少年が恐る恐る顔を出す。
薄汚れた俺たちを見ても一目では王国兵と分からなかったのか、彼は警戒心を露わにして睨みつけてきた。
「誰だよあんた。……えっ? ……兄ちゃんの、手紙……?」
ロシェが差し出した紙片に目を落とすと、少年の顔色がみるみる沈んでいく。
「なんで……なんであんたみたいな弱っちそうなのが生きてて……兄ちゃんが!」
少年は怒鳴りながら何度も何度もロシェの胸板を叩く。拳を受けるたび、ロシェの身体が頼りなく揺れる。
「兄ちゃんがいなかったら……俺、どうすりゃいいんだよ……! 俺じゃ代わりになんて……なれねぇよ……」
奥で様子を伺っていた幼い妹と弟が、泣きじゃくる兄の背を撫でる。
三人のすすり泣く声だけが、いつまでも耳にこびりついた。
その後に訪れた家々の光景も、悲嘆に彩られたものだった。
老父の震える掌へひしゃげた勲章を。
焼けた畑で膝をつく女へ千切れたミサンガを。
息子の生存を信じ続けた母に真新しいお守りを。
燃え落ちた家の前では、残った小指を丁寧に土へ返す。
ひとつ渡すたびにロシェの鞄は軽くなる。
けれど休む間もなく歩き続けるその足取りは、深く重く沈んでいく。
「……ディン。俺たち頑張ってるよな? 団長、褒めてくれるかな……」
か細く漏れたロシェの声は、風に吹かれれば消えてしまいそうだ。
頑張っているよ、と言ってやりたい。
団長だってきっと褒めてくれるさ、と肩を抱いてやりたい。
けれど――その荷を一緒に背負うことは出来ても、大切な相棒に慰めの言葉ひとつ返せない自分がひどく情けなかった。
第三騎士団の名を耳にすることも、もう随分と途絶えていた。
立ち寄る村で聞こえてくるのは敗戦の影を孕んだ噂ばかり。
ロシェの肩が沈むたび、俺は横から体を寄せて、ただ前へ、前へと導くしかなかった。
そして長い旅の果てに、最後の遺品を渡し終えて――
ようやく、俺たちの足先は故郷の方角へと向き始めた。
遠くに風車の丘が見え、風が懐かしい匂いを運んでくる。
もう目と鼻の先だ。
マリカのいる場所まで、あとほんの少し。
「……全部、返したんだよな。これで……やっとマリカに……」
ロシェが力を絞るように弱く笑った、その刹那。
遠く離れた丘の上で、土煙がぱっと弾けるように立ち上った。
次いで、馬蹄が地面を蹴り鳴らす重低音が空気を震わせる。
「敵……? まさか、もうここまで来てるってのか……!」
散兵か、あるいは進軍の先遣隊か。
どちらにせよ今の俺たちには抗う力なんて残っちゃいない!
「ディン、逃げるぞ!」
ロシェは、もつれる足を必死に前へ運ぶ。
俺もその横を懸命に駆ける。
背後からは怒号が飛び、蹄鉄が土を抉るたびに地面が震えた。
「マリカが待ってるんだ……帰らなきゃ……!」
そうだ。帰ろう。
マリカが待っているんだから。
団長が、俺たちを生かすために逃がしてくれたんだから。
――風を裂く音が走った。
「……っ、あ……」
ロシェの体がふっと力を失ったように前のめりへ崩れ落ちる。
足元の土が、その重みを受け止める鈍い音を立てる。
咄嗟に振り返ろうとした瞬間、視界が闇に閉ざされた。
何が起きたのか理解が追いつかずにいると、むせかえるような血の匂いと生温かい液体が背中を濡らした。
「……なんだ、一人か。随分と貧相な装備だな。帰還兵か?」
「こっちはどうする? とどめ刺しとくか?」
「放っとけ。俺にそんな趣味はねぇよ。……行くぞ。無駄に抵抗しやがったせいで、随分と長引いてんだ」
吐き捨てるような声とともに、馬蹄の音が遠ざかっていく。
踏み荒らされた草の匂いだけがその場に残される。
ロシェが俺を庇うように覆いかぶさっている。
呼びかけられない。
声が出ない。
動揺で鼓動ばかりがうるさくて、ただ、ただ――
ロシェの温もりがゆっくりと離れていくことだけを、この身に感じていた。
*
風が強い日だった。
季節の移ろいを運ぶ冷たい空気が、隙間風となって家の中に入り込み、薪をくべた暖炉の火を揺らしている。
この村も、すでに帝国の占領下にある。
けれど、早々に白旗を掲げたこんな小さな村に用はなかったのか、彼らは最低限の兵だけを残してほとんどがすぐに去っていった。
王都からの情報もぷつりと途絶え、私たちはこの先どうなるのか分からない。
ただひとつ確かなのは――もうバルシアには先がないということだけだ。
前線で獅子奮迅の働きを見せていたという第三騎士団だって、いまやどうなっているのか……。
「とっくに壊滅しているに違いない」
村の皆はそんなふうに囁き合い、胸に灯っていた僅かな希望すら風に吹かれるように薄れていった。
……出征の日、胸を張って言ったくせに。
『必ず帰る。帰ったら言いたいことがあるんだ』
思い返すたびに、胸が締めつけられる。
その言葉を信じて。信じ続けて。
今日まで、ただひたすら待ち続けてきたのに――
「帰ってきたら……思いきり怒ってやるんだから」
怒って、泣いて、そして……支え合って生きていこう。
そんな未来を、まだ信じていたかった。
薪に火をくべ、小さな希望の火を胸の奥にも灯そうとしたそのとき。
――ドン、ドン。
硬い何かが、不規則に、それでも強く扉を叩く音が響いた。
「……ロシェ?」
薪を落としそうになりながら玄関へ走る。
震える指で取っ手に触れ、一度だけ深呼吸をして、そっと扉を開けた。
そこに立っていたのはロシェでも、兵士でもない。
泥と血に染まった――大きな黒い塊だった。
「……え……?」
私をまっすぐに見上げる真っ黒な瞳。
ぼろ雑巾のような姿になっても、忘れられるはずもない。
「……ディン……?」
ロシェが飼っていた牧羊犬。
軍でも働き者で評判なんだと、ロシェが手紙で教えてくれたあの黒犬。
ディンはゆっくりと尻尾を振り、頷くように鼻を鳴らした。
どうしてディンだけがここに?
ロシェはどこにいるの?
ディンの首元に視線を落とし、私は息を止めた。
ほつれ、泥に汚れ、すっかり変色してしまった藍色。
――風車の丘で、私がロシェに渡したスカーフ。
「…………」
視界がぐらりと揺れる。
足元が遠ざかっていくように、全身から血の気が引いていく。
「ロ……シェ……?」
名前を呼んでも、ディンはただ静かに立っている。
その沈黙が、私の脳裏に最悪の可能性を叩きつける。
「嘘でしょう? ディン、ロシェはどこなの? どうして貴方だけが……!」
何度問いかけてもディンは答えない。
その代わりにディンは一歩進み出て、力なく震える私の膝にそっと鼻先を押しつけた。
――それは、父を亡くした夜に私が人知れず泣いていた時に、慰めるようにディンがしてくれた仕草だった。
全てを理解した瞬間、涙が勝手に溢れ落ちる。
私はディンの首に縋りつき、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
「ロシェは……! 帰るって……約束、したのに……っ!」
ディンは低く喉を鳴らす。私はそこで初めて、ディンの異変に気づいた。
毛はところどころ抜け落ち、赤く爛れた皮膚が覗き、全身に無数の傷が走っている。
そして、あれだけ大きな声で吠えていたこの子が、今はただの呻き声しか出さない。
……どれほどの道のりを、一人で駆けてきたんだろう。
このたった一枚の布を届けるためだけに、どれほどの苦痛を堪えてきたんだろう。
傷だらけの体で。
それでも、ロシェの代わりに約束を果たすために、ここへ帰ってきてくれたんだ……。
「ごめんね……ごめんなさい。まずはお礼を言わないとだよね。本当に……ありがとう……届けてくれて……」
ディンはもう一度、かすかに喉を鳴らす。
血でざらついた黒い毛の感触が、帰還までの長い旅路をそのまま伝えてくるようだった。
「あなたも……第三騎士団の、立派な兵士だったんだね」
ディンは軽く頷いて見せると、ゆっくりと目を閉じて、そっと私の手に頭を預けた。
私はスカーフを胸に抱き寄せ、そっと目を閉じた。
風車の丘から吹き抜ける風が頬を撫で、あの日の空の色が胸の奥にふわりと蘇る。
青々とした牧草が広がり、羊たちが陽を受けて丸い影を落としていた。
その中心に立つ彼へ向かって、ディンが大きく鳴く。
振り返った彼は、空色のスカーフを風に揺らしながら、私たちに手を振ってくれた。




