乾いたミイラは蘇らない4
指先が冷たかった。僕の中にある70%の水分が、じわりじわりと手のひらに集まる。
冷夏と言われる今年は、雨が降った後には、風が冷たい。余計に指先が冷えて仕方なかった。
学校に行かなくなった僕のことを、当然父は糾弾した。初めて、服から出る出ないを考えずに手を振るわれた。頬は、顔の一部で脳に近いせいか、感覚が鋭敏だった。わずかに触れた父の手の湿り気は、本当に本当に気持ち悪かった。
「なぜ、学校にいかない。落ちぶれるつもりか、底辺の猿が集まるような高校に通っておいて、そこで落ちぶれるなんて……!」
次は平手ではなく、拳が頬骨に鈍い音を立てる。一気に血液が集まって、これは内出血をするだろうなと思った。腹にも一発お見舞いされて、胃が震えて、生理的な涙がでた。また包帯を巻かれるのかとげんなりする。湿布の固定や圧迫して腫れを抑えるために巻くらしいが、父はそんな効果は対して気にしていない。ただ、傷を隠すことができればいいのだ。
「ふざけるな!馬鹿にしやがって!!お前は、そうやって反抗しているつもりかもしれないが!俺は絶対に逃がさないからな!」
こめかみ、胸元、脛。殴られ、蹴られ。声を上げたくなくて噛みしめていた唇が、ブチ、と音を立てて切れた。その刹那、三浦千佳の淡い赤をした唇が頭に浮かんだ。
包帯に覆うように、父が隠してきたものの一つ。
「あなたの娘が、教師として学校にいます。」
暴力の雨が止んだ。拳を振るっていた父は、所在なさげに拳をほどく。DVが原因で別れた元妻。とっくに成人した娘は、父にとって恐怖だろう。自分の過去が周囲にばれるかもしれない。すでに息子にはばらされている。いつ復習されるかわからない。おびえる父は支配者とは程遠いものに思えた。
支配、なんて長くは続かない。支配される側が白けてしまったら終わりだ。支配では、駄目だ。優介の選択を塗りつぶして得ていた快感は、俺の一方的なものにすぎなくて、血が滲む傷の上に、白い包帯を巻いてなかったことにする父の行為と同じものだ。
「前の家族が、あなたにとって一番怖いものだったんですね。」
僕の言葉にカッとなったのか、父は僕の額から前髪を毟るように掴んだ。汗で湿り気を帯びた手が、べたっとした。その気持ち悪さを耐えるために握り込んだ僕の手のひらも、湿気ている。気持ち悪いと思っている相手に、気持ち悪いくらいに似ていることに、血の気が引いて、心が乾いていった。
僕にとって、一番怖いものはなんだろう。そんなものは考えなくてもすぐにわかった。僕にとっての恐怖は、優介だ。優介が僕から離れていくのは、何にも勝る恐怖がある。
家族を嫌悪し、対して誰かに好かれているわけでもない。居てもいなくても良い存在の僕に、初めての居場所をくれた存在。僕にすべてを委ねて、僕を信頼してくれている存在。それがいなくなってしまうことは、怖い。
優介が離れていくかもしれないなら、僕から離れてしまえばいい。そう思って、学校に行くのを辞めたのに。夏休みの前日、優介は僕の前に現れた。
「八束が、いないと、駄目だ。」
そういう優介の言葉のせいで、僕の決意はいとも簡単に揺らいだ。父の決定によって、二学期からは全寮制進学校に編入することが決まっている。どうせ、この夏休みが終われば、優介とは離れることが決まっているんだ。それなら、別れを惜しむ時間くらいあってもいいはずだ。優介から離れるために、優介の選択権を、優介自身に返す必要だってあると思った。
僕は、夏休み登校をすることにした。
その間、優介に選択の機会を与えた。しかし、それは対して意味がなかった。
あまつさえ、僕がいなくなったときに、他の誰かに選択権を委ねたことを知った。僕は、優介にとって、居てもいなくても変わらない。
優介は、僕を信頼して、選択を委ねているのではなかった。自棄になっているだけだ。自分の選択の責任が怖くて、逃げているだけの臆病者だ。
夏休み登校が続いて、残すところあと僅かになった時、優介が言った。
「なあ、八束。殺してくれよ。」
よく言う。誰よりもそれが出来ない僕に対して、その選択を委ねるなんて、ひどい男だ。
なあ、八束。殺してくれよ。そう繰り返した優介の首にかけた僕の手には、脈拍が伝う。優介の死を見届けたいと思っていたはずなのに、この脈が止まるのは耐えられないだろうなと思った。優介が離れていくかもしれないなら、優介が死んでしまうかもしれないなら、僕が離れればいいし、僕が先に死んでしまえばいいとさえ思う。
それくらい、
「優介、耳の穴かっぽじって聞け。好きだ。」
喉から、こぼれるように言葉が出た。
「お前は、俺を選べるのか? これは、俺が選べる選択じゃない。だから、お前は選ぶんだ。」
僕の目に映るのは、押し倒した優介だけだった。それなのに、優介と僕は目が合わなかった。優介は、俺を見ているようで見ていなかった。絡まない視線に、自嘲的な笑いがこぼれそうになる。ずっと、こんな風に恋をしていたのかもしれない。お互いに向き合っていたとしても、かみ合っていなかった。
「俺は、」
ゴオオ……と、飛行機の通る音が聞こえる。燃料が燃えて、朽ちて散っていく音だ。片頭痛がする。気圧のせいなら、明日は雨だろう。雨が降る前には、飛行機雲が空に渡る。きっと今日の空には、快晴を邪魔する飛行機雲が忌々しく光っている。
「八束君、別の学校でも、元気でね。」
思ってもいない言葉を、本物のように差し出せるこの女が嫌いだ。正直に自分たちと向き合ってくれると評判の教師だが、僕にはそうは思えない。
美術準備室に呼び出され、次の学校に向けた手続きの完了を知らされ、用事も済んだし、帰ろうとした所だった。
「八束君。」
三浦に呼び止められ、足を止めた。振り返れば、今日は夕日が混じったような朱色の口紅が引かれた唇が柔らかく歪む。上がった口角は、いつも同じところで留まるのが不気味だ。
「中島君とは距離を置いた方がいいって、あの言葉は、あなたのためでもあったのよ。」
あなたのため、その言葉に不思議と既視感を感じて。舌打ちが漏れそうになるのをぐっとこらえた。
「それで、あなたは中島君に選ばれたのかしら。」
無粋な女だ。そんなことは、僕と優介だけが知っていればいい。さあ?とわざとらしく答えれば、三浦の口角がいつもより少しだけ上がった。
「あなた、吹っ切れた顔しているから、どうなったのかわからなくて、気になるわ。」
「……選ばれても、選ばれなくてもどっちでも変わりませんよ。」
決断を迫った自分がいうのは、おかしなことだろうか。しかし、すべてが終わった今ならば、本当にそう思える。優介の頼りなく、淡い声で紡がれた決断は、僕にとって大切なものだった。
「優介が、選択することが、何よりも僕が望んでいたことですから。」
これから、僕は優介から少し離れたところで生活していく。新しい生活は、僕に何をもたらすのかはわからない。離れている間に、僕の歪んだ気持ちに包帯を巻いて、消してしまうことができたらいい。乾いたミイラが蘇らないように、土に還ってくれたらいい。そして、赤い花の一つや二つ、咲かせる肥料になればいい。
美術室の扉に手をかけた。引手の金属がひんやりとして、ずっと手汗が滲みやすく冷え切っていた手に、温かさがあったことを知らせた。指先が乾いているだけ。ただそれだけの変化が、僕のこれからを示しているような気がした。




