まっかな白2
「おじゃまします。」
「先生、優介君、ありがとうございます。あの子は部屋にいるから、優介君はよかったら、これ持ってってあの子と食べて。あの子、きっとお腹を空かしていると思うの。最近が食事も不定期でね。あ、先生は、応接間にご案内しますね。コーヒーでよろしいですか?」
八束のかあさんは、相変わらず綺麗に化粧をして出迎えてくれた。息子の友達にしては出来の悪い俺に、いつもケーキやクッキーを用意してくれるのも変わらない。
俺の母親が、すっぴんの方が多かったし、八束が家に来ても、あんたたち、冷蔵庫にスイカ入ってるから食べたかったら自分で切りな!と、もてなす気など一切なかった気がする。
二階に続く階段をのぼりながら母親の雑な性格を思い出すと、口からはため息がこぼれ出た。
「八束、入れてくれるか。」
返事はなかった。どうしようかと、取りあえず扉の前に腰を下ろした。
八束の部屋には鍵がついている。初めてそれを知ったときには、流石金持ちの家は違うと思った。俺の部屋は、プライバシーなんて皆無だ。リビングから襖一つしか隔たりのない、自分の部屋を思い出しながら、キーケースにぶら下がる鈍色の鍵を揺らした。
以前本人から鍵をもらった。なぜ、たかが友人に過ぎない自分に鍵を渡したのかはいまだにわからないけれど、それなりに信頼されているんだろうと思う。合い鍵を使うかと少し考えて、やっぱり辞めた。八束が入れてくれなければ、入ることはできない。
「八束、」
もう一度呼び掛けると、ドアノブが音を立てた。微かに扉に隙間ができて、その間から八束の瞳が覗いていた。不気味すぎる。
八束は、何も言わずに、部屋の奥に戻っていった。扉は閉ざされることはなく、隙間が空いたままだ。入れ、ということだろうか。俺は立ち上がって、ドアノブに手をかけた。
部屋の中はレースのカーテンから除く日の光のみで薄暗い。何もない、生活感のない部屋だ。あるのは、簡素な勉強机だけ。寝床すらもない部屋は、男子高校生のものとは思えない。ただでさえ広い部屋は、がらんどうだ。小学生のころに来た時には、もう少し物があった。ベッドもあったし、夏でも冬でも出しっぱなしの扇風機があった。ゲームとか、漫画だって。
「なに、きょろきょろしてないで座れば?」
「あぁ……。また、なんか捨てた?前来た時よりも、綺麗な気がする。」
「物は持たないに越したことはないからね。ていうか、勝手に入ればよかったのに。」
さっぱりと言った八束にイラっとする。俺がそれをできないのは、良く知っているだろう。八束は、俺の全部を知っている唯一の友人だ。俺が、その選択肢を選べないことを、一番よく知っている。
「…… こ、これ、八束の母さんが用意してくれた。クッキーと、ケーキ。食べるか?なんか、やせた気がするし、食べたほうがいいんじゃないか?」
八束は眉間にしわを寄せて、要らないからお前が全部食べろ、と吐き捨てるように言う。今は気分じゃないんだ、と。八束は、こういう所がある。八束の母さんの心配する気持ちとか、俺の腹具合なんか関係ない。自分の判断が一番で、揺るがないものだという性分だ。
「暴君だな、相変わらず。」
そう言うと、八束は俺の腕に手を伸ばして、乱暴に引き寄せた。日焼けして熱を帯びた自分の腕と、八束の青白い冷たい手。そのコントラストは、薄暗い部屋でもよくわかる。八束は、じっと俺の目を見ていた。伸びた前髪の隙間から除く瞳は色素が薄く、鏡のようだ。この瞳に映る自分を見ていると、不思議な居心地の悪さを感じる。
「確かに、僕は暴君だ。そうだ、お前は暴君が恐れているものを知っているか?」
唐突な質問は、八束の十八番だ。もう慣れきってしまったから、質問の意図などは考えずに答えた。
「革命、とか。」
俺の答えに対して、八束は、三割正解で七割が外れだ、と笑う。
「自分のいうことは何でも聞く、信頼できる、そんな腹心を失うこと。」
何故か、背筋がぞわりとした。その心情を悟られないように、八束の手をほどく。腕には、八束の冷たさが残っていた。
八束は、何事もなかったかのように、トレーに置かれたクッキーとケーキを無視して、アイスコーヒーを口に運んでいる。カラ、とグラスの傾きに合わせて、氷が立てる音が嫌に涼やかに響いた。
「それで、お前は何をしにきたの?三浦が通知表を持ってくるとは聞いていたけれど、お前も一緒に来たから驚いたよ。……三浦がお前を連れてくるとは思えないし、あの女の差し金?」
あの女。八束は自分の母親のことをこうやって呼ぶ。これは、幼い頃から変わらない。母親本人の前では、母さんと呼ぶのに、俺と二人の時は他人のように、いや他人よりももっと下に見ているように呼ぶのだ。
「八束の母さんに言われたっていうのもあるけど……。俺は、八束に学校に来てほしいと思ってる。だから、来た。」
「あぁ、そう。まー、お前は僕が居なかったら困るもんね。」
「二学期から、来ないか?いくら成績がいいからって、そろそろ来ないと出席日数とかさ。行事も多い時期になるし、思い出とかも……」
八束は、ハッと鼻で笑った。俺の内心を見透かして、馬鹿にしているんだろう。
「そうだな、僕がいなきゃ駄目だって、お前が言うなら行くよ。」
弾んだ声でそう言った八束の横顔を窺うと、その口元は微かに上がっている。柔らかく動く八束の口元と違って、俺の口は微かにこわばっていた。重い唇を開いて、吐き出すように言葉を、舌先から滑らせる。
「八束が、いないと、駄目だ。」
カラ、カララ。
薄まっていくアイスコーヒーの色と、グラスの外に走る結露を横目に見ながら、自分の焼けた腕に伝う汗みたいだと思う。八束は、その涼しい音に目を向けることもなく、ポツリとつぶやいた。
「夏休み、リハビリを兼ねて登校する。月曜、水曜、金曜に学校に行く。」
俺にも登校しろ、と言外に言う八束に、黙ってうなずいた。




