まっかな白ーー中島優介
—―赤の上に、白を塗りつぶしたら、それは白と言えるのか。赤は無かったことになるのだろうか。
そんな哲学めいたようで、しょうもないことを、プール上がりのようなうすら寒さと、灰色に白んだ空を見上げながら考える。一学期の最終日、つまりは夏休みの前日に当たる日に似合わない空の下でも、通知表に声を上げるクラスメイトの声は賑やかだった。振るわない成績を片手に、ぼんやりと一つ前の席を見る。空席が一つ。がらんと空いているくせに、引き出しだけはプリントが詰め込まれて窮屈そうだ。その席の前に座るクラスメイトが立ち上がると、僅かに空席となった机がずれる。それが、特に正しい位置に戻されるわけでもない。そもそも、自分の他に、誰もそれを気に留める様子はない。
八束が、学校に来なくなって三カ月が経つ。
新しい学年になってから、二週間もたたないうちに、八束は風邪をこじらせたと言って学校にこなくなった。あいつが風邪をこじらせるわけがない。几帳面で細かい男だから、きっちりと薬を飲み、体調管理は万全にするはずだ。俺はそう思うが、八束は線が細く小柄だからか、その病欠を疑うものは、クラスの中に誰一人としていなかった。
風邪じゃないなら、なぜ……と考えて思い浮かぶのは、いじめとか学業不振といったものだった。しかし、そのどちらでも無いだろう。八束は、俺とつるんでいた。別にいじめられている様子はなかったし、あいつは人間関係に悩むほど、他人に興味もない。
学業は、優れていた。こんな底辺校に通っているくせに、模試では、進学校のやつらを押さえて県下でも上位に居た。成績に対して思いつめるやつでもない。
そんな八束が、どうして学校に来なくなったのか。巡らせていた思考を遮ったのは、担任のみっちゃんこと、三浦先生の声だった。
「中島君、ちょっといい?」
手招きをされて、廊下へと呼び出される。すると、さっきまで思い思いに雑談をしていたクラスメイト達の視線が集まった。
「おお、中島!ついにカミングスプリング!?」
「みっちゃん、やるなあ~!」
「お幸せに!」
ヒューヒューと、指ハートを作る馬鹿や、みっちゃんのもとに歩く俺に向かって握手やハイタッチを求めてくる馬鹿たちはスルーに限る。
「うるせぇ馬鹿ども。俺はこれからサマー中島だかんな。みっちゃんとは暑い一夏を過ごすぜ。」
そう言って、教室の扉を閉じれば、教室内に悲鳴が上がる。廊下に出れば、みっちゃんこと、三浦先生は、バインダーで俺の頭を叩くフリをした。プラスチックが空を切って、かすめた風は生ぬるい。
「中島君、君ってやつは……」
「ごめんって。で、何?」
みっちゃんは、コホンと咳払いをして、バインダーの中から通知表を取り出した。
「俺、もう貰ったよ。」
「八束君のだよ、彼に届けに行くの。」
「へえ……」
「私と君でね。」
「は?」
なんで俺が……というよりも、頭に浮かんだのは、違う疑問だった。別に俺が一人で届けに行けばいいのに、なんでみっちゃんと?
「一応個人情報だからね、成績も。君に一人で届けさせるのは、どうかと思って。」
「じゃあ、俺は必要ないんじゃ……」
「本来なら、私一人で行くところだけれど。八束君の親御さんから、中島君に来てほしいと電話があったから。八束君、部屋からも出なくなってきているらしくて。」
「そう。」
「そう。サマー中島、今日の放課後はよろしくね。」
「えー……。」
声を上げてみたが、みっちゃんには、ポーズだとばれているような気がした。みっちゃんは、確か十個くらいしか歳が離れていない。先生たちのなかでは若い方で、あまり威厳があるわけではないのに、生徒の心の機微とか、そういうのを察することがうまい。ふふ、と笑われれば、見透かされているような気がして羞恥心がわいた。
「ハーゲンダッツでどう?」
「わかった。でも八束の分もな。」
「……薄給の私立高校職員、ランチ代が飛んじゃうな。」
やり取りを終えて、教室に入ると、交際おめでとうの言葉や相合傘が黒板に広がっていた。わざとらしく、ゴシップ記者のように筆箱をマイクにして向けてくるやつもいる。
このクラスは上野の動物園の猿よりも喧しいに違いない。俺はすべての質問に事務所NGを出しながら、席に戻る。みっちゃんはあきれた顔で、雑に黒板消しを滑らせる。黒板消しが通った後に、白い霞が残るのを見て、今日の白んだ空みたいだと思った。
筆圧の強い文字は、上手く消えずに残っていた。
霞の中に浮かぶハートマーク。ここに八束がいたら、どんな反応をしただろうかと、なんとなく考えた。
八束の家は、学校から徒歩十五分ほどの道のりにある。俺の家はそこからさらに徒歩五分。小学校と中学校は俺の家から徒歩十分。俺と八束の全部が近くにある。
「みっちゃんはさ、」
「なに?」
「八束が学校に来た方が、都合がいいの?」
緩めた歩調にあくびを漏らしながら問いかけた。十五分の道のりは、いつもなら走って五分で目的地まで着いてしまうけれど、今日は、みっちゃんと一緒だから、二十分はかかる。会話をしなければ、気まずさを感じるには丁度いい時間だ。なんとなく投げ出した質問に、みっちゃんは答えなかった。
「中島君は、どう?」
コツ、と、みっちゃんのヒールの音が響いた。扉のノックのような、人の重さを感じる音は、俺にとっては耳馴染みのない音で、居心地が悪いような響きを持っている。
「俺は、みっちゃんに聞いてるんだけど。」
「ごめんね。都合がいいなんて言い方は嫌で、つい聞き返しちゃった。八束君の登校が、都合がいいっていうのは、教師の私にとっては違うといったら嘘になっちゃうもの。まあ、八束君が心配な気持ちの方が大きいから、学校に来てほしいと思ってる。」
みっちゃん先生のこういう所が好ましいと思う。下手に取り繕わずに、まっすぐな所が好ましいと。以前それを伝えると、大人だからそれなりに嘘はつくよと笑われてしまったが。
「八束が学校に来なくなった理由知ってる?」
みっちゃんなら分かるんじゃないかと、俺は少しだけ期待していた。二人がたまに話しているのを見たことがあるし、家庭訪問もしていると噂で聞いた。
「中島君は八束君と小学生からの幼馴染だから、八束君のことはよく知ってるよね。」
そりゃあそうだと、頷く。腐れ縁ではあるが、八束と一番長く付き合ってきたという自負はある。
「でも、全部を知ってるとは言い切れないでしょう。八束君のことは、きっと八束君しか知らない。だから、私は彼が学校に来なくなった理由の推測はついても、それが正解かはわからないし、きっと正解じゃない。」
それでも……と、みっちゃんは続けた。
「教師というのは、人の気持ちをはかることを教える職業でもあるから、私は八束君の気持ちを知ろうという努力はしたい。」
まっすぐな瞳に、思わずドキリとする。自分の単純さが嫌になった。みっちゃんは、そんな俺の心の中が見えているかのように、微笑んだ。柔らかな薄紅色の口紅は、男子高校生には、刺激が強い。熱を持つ頬をごまかすように歩を早めれば、八束の家が見えてきて、もう少しだけこのまま歩いてもいたかったような、早く離れてしまいたいような不思議な気持ちになった。
八束の家は、ここらへんでは珍しい風合いの洋風の家。いつだったか、金持ちの家だと茶化すと、八束は心底嫌そうな顔をした。二階のベランダのある部屋が八束の……いや、八束家の一人息子である八束千博の部屋だ。