1960年代から1980年代2
1960年代から1980年代2
さて、時は1967年9月。
欧州では軍拡が続いていたが、別のところでも火種が噴火しようとしていた。
南アフリカである。
南アフリカは白人至上主義の先鋒として軍事訓練を繰り返していた。
その国がヨーロッパ諸国から独立して間もないアフリカ諸国に攻めかかったのだ。
さらに、巧妙なことに敵対している国の内部に諜報員を派遣して内部から南アフリカ軍に攻撃を受けさせ、それを口実に攻めかかっていた。
南アフリカ諸国は開戦から2カ月でレソト、オレンジ、アンゴラ、ボツワナ、モザンビーク等の国々が陥落。
世界は欧州危機に注目していたが、この件に慌てたのが東アフリカに日本経済圏加盟国を持つ日本と、イギリスが持っていた中央アフリカ利権を一部受け継いだトルコ政府、先の大戦で敗戦し多くの植民地を手放さざるを得なかったが、なんとか残したナイジェリア及びその周辺地域の利権を持っていたイギリス。
これらの国々は南アフリカの増長に脅威を抱いていた。
さらに、南アフリカはアメリカ国内のKKK等が闇ルートで流したアメリカ製の最新兵器や、ドイツ製の兵器を保持していた。
戦車、戦闘機、爆撃機、歩兵、どれを見てもアフリカに利権を持つ国々よりも量が多かった。
まぁさすがに質に関しては、アメリカ製の最新兵器と言っても、軍事機密の塊の戦闘機や、爆撃機、ミサイルなどではなく、歩兵運送車や、装甲車、小銃程度で、残りはドイツ軍のお古だった。
さらに、これに警戒していたのがアメリカだった。
アメリカはアフリカの西の端のリベリアに大きな影響力を持っていた上に、南アフリカ政府が南米で軍事政権の樹立を煽っているのも脅威だった。
そういえば、伝え忘れていたが、南アフリカ政府は1954年に軍事クーデターで民主的な政治を目指す般ピーの方々から周辺諸国を併合し、新たな白人の天国を作ろうとする頭のおかしい軍人連中に変わってしまっていたのだ。
まぁそんなこんなで南アフリカの領土はかなり広くなったが、東アフリカ地域とコンゴ地域の手前で南アフリカ軍は進撃を停止した。
まぁこれには日本海軍の空母打撃群が親日国のマダガスカルと加盟国のタンザニアとケニアを訪問し、南西インド洋に展開したという理由と、トルコ軍がコンゴ利権を守り、さらなる南アフリカの増長を阻止するため、完全機械化の陸軍部隊一個師団と、南アフリカ海軍を撃滅するために一個巡洋艦隊(重巡4軽巡8)を派遣した。
さらに、英国第二艦隊がナイジェリア沖に展開。
アメリカ海軍が南アフリカ西の海域に到着し、国連からも停戦命令が届いていたため南アフリカは進軍を止めたのだった。
ちなみに、南アフリカはこの領土のまましばらくを過ごすことになるのだが、少しの間、アフリカ情勢は穏やかになる。
さて、南米だが、スペイン植民地から独立したのはいいが、経済的にもアメリカに頼らざるを得ない状況が続いていた。
しかし、チリ、アルゼンチン、コロンビア等の南米諸国がアメリカの犬に成り下がるなか、ブラジルはアメリカと距離をとった経済運営をしていた。
1950年代からチリ、アルゼンチン、コロンビアはアメリカのお陰で経済成長を始めた。
しかし、ブラジルはアメリカの犬に成り下がらず、自国の力で経済を進めていた。
それを見ていた周辺諸国はブラジルは自国の発展レベルより遅いとバカにしていた。
しかし、ブラジルはブラジルに日系人が多くいた関係でヨーロッパのスイスとオーストリア、イタリア、イギリスに多くあった日系企業と協力することで経済を順調に発展させた。
1965年頃からブラジルは波に乗り始め、英国、フランス、ドイツ、日本、トルコ等の資本を取り入れることで大きな発展を行った。
サンパウロの奇跡と称されるこれは後の南米情勢に大きく響くことになるのだが、これはまた別の話。
ちなみに、最初にアメリカ式自由経済手法が破綻したのは、アルゼンチンだった。
アルゼンチンは1966年の7月にアメリカ式の経済システムのせいで経済が暴落。
一気に不況に入った。
ちなみにここから政治家は対外戦略を重視するようになり、ブラジルやチリとの摩擦が増えていくことになる。
その後、コロンビア、ペルー、エクアドル、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビア、ベネズエラも同じ道をたどり、南米は世界的に見てもかなり危険な場所となる。
あと、南米でアメリカ式経済を取り入れて成功したのはチリだった。
日本や欧州、アメリカが求める銅を元手に経済を成長させ、安い労働力を生かして、繊維、食品、原料生産系の工場が多く立ち並び、アメリカ式にも関わらず、ブラジル並みの経済発展を遂げていくことになる。