1960年代から1980年代1
1960年代から1980年代1
さて、インドが降伏してから世界は一時的に平和になった。
かと思えた。
しかし、未だ火種は燻り続けていた。
そうドイツである。
ナチスドイツは世界大戦後、新列強国の一員として理性的な政治と外交を続けてきた。
ユダヤ人は既にドイツ国内から逃げ出していたし、ドイツ国民も戦争に勝ったということで舞い上がっていた。
さらに、隣国からアルザスロレーヌ、ポーランド回廊を取り戻して、国の経済も大きく躍進していた。
まぁ国民にはそう見えていたし、事実としてドイツ経済が好調なのは数字として出てきていた。
しかし、それが崩れたのが1964年の春だった。
ドイツの銀行のひとつが倒産したのだ。
これを機に一気に景気が悪化した。
取り付け騒ぎと失業者の増加による社会不安はドイツ情勢に大きな悪影響を及ぼした。
ナチス2代目のゲーリング総統は失脚。
ナチスの総統はコベット上級大将に変わった。
さて、ここからが世界、とりわけ周辺諸国にとっての脅威の始まりだった。
1964年の8月7日にコベット総統は最初に全国で起こっている暴動と大規模なデモ、テロに対応するためにナチス親衛隊とドイツ警察を動員してデモ参加者、暴動に荷担した者を軒並み逮捕した。
さらに、テロ行為を行った者を親衛隊は片っ端から射殺した。
さらに、全土には戒厳令が発令されて国境線も一時的に閉鎖された。
これらは8月10日にはとりあえずデモ、暴動は鎮圧された。
しかし、逮捕者5万人以上、死者6000人以上が出たことは世界中に報道された。
これがドイツの態度を硬化させた。
ドイツとしては国内的に弱気の姿勢を見せるわけにはいかず、海外のアメリカ、日本、フランス、スカンディナビア、オーストリア等の批判に対して、内政干渉だと突っぱねて徹底的に対抗する姿勢を打ち出した。
アメリカ政府は遂にドイツがやらかしたということで欧州のオランダ、イギリスに駐屯している欧州派遣軍の警戒レベルを一段階あげた。
これに対してドイツ政府は軍拡を実施。
もともと経済状況が悪かったのもあってちょうど良かったのだ。
しかし、ドイツが軍拡するとなれば、周辺諸国もせざるを得ない。
フランス軍も軍拡を始めた。
さらに、フランス政府は欧州にいるアメリカ軍をあてにしたいという思惑からアメリカ政府と米仏安全保障条約を締結。
米仏安全保障条約によりアメリカ軍は仏独国境線から70キロのところに基地を設置。
さらに、フランス企業のダッソー等はアメリカの軍需産業と共同開発を始めた。
また、先の大戦でフランスとイタリアにより永世中立が破られてしまったスイス。
スイスは戦後から日本に接近していた。
欧州では永世中立は成立しないことを思い知ったスイス政府は日本製の高性能兵器を導入。
さらに、日本と安全保障条約を結んだ。
スイス国内には日本軍はいないが、欧州近辺だとモロッコのカブランサカ、オーストリアのウィーン、イタリアのナポリに日本軍はいた。
スイスは日本の防衛力の見返りとしてヨーロッパでの金融の一部を日本に融通したり、世界一安全と呼ばれるスイス銀行の優先使用権を渡した。
これらの施策をスイスは行った。
オーストリアは簡単。
日本軍の駐屯部隊と先の大戦の戦闘経験豊富なオーストリア軍の部隊を使って遅滞戦闘を行い、国連の介入を待つ。
これが戦略だった。
そして、北欧の雄であるスカンディナビア帝国。
スカンディナビアはサーブ社が作る迎撃戦闘機の群れとスウェーデン軍が誇る狙撃師団と呼ばれている秘密作戦部隊を使っての防衛を試みていた。
さらに、アメリカ製の最新戦車も購入していた。
隣国のポーランドはドイツに恭順な国なのでまったく対策はとっていなかった。
オランダ、ベルギー、ルクセンブルクといった国々の戦略は簡単。
アメリカ頼りだ。
アメリカ軍がどれだけ早く駆けつけてくれるか。
それに限っていた。
このように欧州では徐々にきな臭い展開になってきていた。