冷戦3
冷戦3
11月8日
ドイツ軍はリトアニアを占領するために進軍を始めた。
飛び地にいた、ドイツ軍30万の部隊が一気にリトアニアに侵攻した。
これには小国であるリトアニアは対抗のしようがなかった。
わずか、11時間でリトアニア全土が占領された。
リトアニア軍の中央師団は首都で包囲されて航空攻撃によって壊滅的な損害を受けて首都は陥落した。
リトアニア政府は半場脅されて降伏した。
国連が介入する隙をまったく与えなかったドイツの戦術的勝利であったといえる。
そして、ドイツの進撃はそこで止まらなかった。
15時にはすべてのリトアニアを制圧し終えたドイツ軍は夜8時頃にラトビアに侵攻した。
夜間の攻撃にラトビア軍は驚いた。
まったく恨みをかうことどころかなんにもしてないのに急に攻めてきたのだ。
さらに、夜だったので外務省にあんまり人も詰めてなかったうえ、軍人もあんまりいなかった。
午前中にリトアニアが攻撃されたと聞いて軍が動員されたがそれでも30000人程度であった。
そして、ドイツ軍の攻撃に翌日9時まで耐えていたが夜明けと共に始まった大規模な航空攻撃でラトビアは降伏した。
ドイツの狙いはバルト三国の完全な制圧だった。
それにエストニアは気づいた。
エストニア外務省と国防省は慌てた。
今にもエストニアにドイツ軍が侵略してくることは明らかだったからだ。
エストニアに時間はまったく無かったがすぐに国連に連絡が行き、さらにエストニア軍8万人全員に召集がかけられて国境沿いに展開した。
また、街中には空襲警報が鳴り響いて市民の警戒を煽った。
軍の作戦司令部は防空壕の中に避難した。
エストニア議会も大騒ぎになった。
首相はアメリカに助けを求めたがなかなかいい回答は得られなかった。
しかし、アメリカの態度が変わったのはラトビアが陥落したときだった。
さすがに、バルト三国すべてをドイツが取るのはアメリカには許容できなかった。
そして、エストニアからの援軍要請に答えたロシア共和国の派遣されているアメリカ軍ヨーロッパ派遣軍第18総合軍団がエストニアに入った。
アメリカ軍は国境線沿いに一気に重装備の部隊を展開させて多数の戦車を配備した。
さらに、上空には数十機の警戒機が飛び交い始めた。
さらに、高性能レーダーを配備した。
ドイツ軍は翌日侵攻を開始しようとしていた。
その日のうちに侵攻してもよかったのだが兵士の疲れもたまっていたので休息をとったのだ。
しかし、それが失敗だった。
翌朝にはアメリカ軍が万全の状態でエストニアとラトビアの国境線沿いに展開していた。
ドイツ軍は迷った。
バルト三国とは戦争するがアメリカと戦争するかどうかについては指令本部から連絡はなかったからだ。
ドイツ軍のラトビアにいる部隊の最高司令部はベルリンに問い合わせた。
アメリカと戦争とするのか、それともしないのか。
ベルリンでは意見が真っ二つに割れた。
戦争派とこれ以上の拡大を止めるべきだという派だった。
ゲーリング総統は決断を迫られた。
そして、決断した。
「絶対に戦争はするな。」
これがドイツ軍に命じられた命令だった。
ドイツ軍前線部隊は命令に応じてラトビアエストニア国境線に陣地を築いた。
そして、そこで進軍を止めた。
国連では安全保障理事会が開かれて会議は糾弾していた。
アメリカと日本がドイツに摘めよって速やかにリトアニアとラトビアを両国の亡命政府に返還するべきだと言った。
アメリカはヨーロッパでのプレゼンツのため、日本は世界平和とドイツの拡大を食い止めるためにそれぞれの目的で止めに入った。
ヨーロッパ諸国はオブザーバーとして参加していたためドイツの行動を危険視していた。
さらに、近隣のスカンディナビア連邦や、ロシア共和国、ベラルーシ、オーストリア連邦、フランス、スイス、オランダはドイツが戦争を始めることを懸念していた。
安全保障理事会ではアメリカが安全保障理事会に対してリトアニア、ラトビア返却案を提示した。
日本やアメリカ、スカンディナビア、インド、モロッコ、カナダ、
オーストリアに加えて理事国の北中華に、タイ、オマーン、エジプト、スペイン、ギリシャ、ブラジルが賛成した。
しかし、当事国のドイツは内政干渉だとして反対。
さらに、トルコ、イラン、に理事国のポーランドとアルゼンチンはドイツの味方をした。
その結果、国連安全保障理事会はドイツVSアメリカと言った構図になり会議はまったく進まなかった。