屍の権能 その2
本作はフィクションです。
登場する人物、団体、事件などはすべて架空のものであり、実在のものとは関係ありません。
また、一部に宗教的なモチーフが登場しますが、特定の宗教・信仰を肯定または否定する意図はありません。
物語には一部、暴力的・性的な要素や、精神的に不安を感じる場面が含まれることがあります。ご自身のペースでお楽しみいただければ幸いです。
住宅街には不気味なエンジン音が響き、排気は言葉に言い表せない腐臭を撒き散らしていた。
美容室の駐車場前、その獣は僕、伊勢 健之助に襲い掛かった。3つの猪の頭のうち中央が、異臭を放つデッキブラシを握った僕の方へまっすぐ、渾身の体当たりを仕掛ける。
その一瞬反射的に、僕は一か八か、思いっきり左に飛び出した。
迫る獣。
単調な突進だ。このブラシを当てる……
……加速した!?
左側の頭の鼻先が急に現れ、僕の目のすぐ前を掠め去った。
巨大な体躯が真横を通り過ぎて、その風圧で僕の体が大きく押しのけられたのを感じた。少し遅れて、圧倒的な腐臭が鼻を刺す。
いま、コイツは加速したのか?
紙一重で突進を避けられたものの、まだ心臓が跳ね上がっている。デッキブラシを突き立てる間もなかった。
……速い。ずっしりとした見た目に反した、まるで競走馬のような俊敏さに頭が混乱する。
そして勢い余った獣は徐々に減速しながら、僕の後方20メートル、道路の中央で止まった。その方向には、先ほど三毛猫に遭遇した、コインランドリーがある。
その獣の脚は、鹿のように細い骨を、異常に発達した筋肉が覆っているように見えた。
そういえば近頃、神流町の山合いの方では獣害が頻発し、猟友会がかなり活発に活動しているようだ。いや、今はそんなこと関係ないか。
確かに速いが、冷静に考えてみればこの前戦った敵、速水 龍太に比べては格段に遅い。十分目で追える速さだ。
厄介なのは、加速する攻撃。おそらく背中の古びたエンジンが、コイツの筋力に作用したに違いない。
僕がデッキブラシを構えて後ろを振り向くと、その獣は足に力を込め、スプリンター如く僕の方に再び飛び掛かった。その獣は人間のような、それでいて巨大化した掌を振り上げる。
……そして、振り下ろす。
エンジンの動力が筋力に影響するのなら、次の攻撃も寸前で加速してくるはずだ。僕がデッキブラシを突き立てると、読み通り、ブラシ部分がその大きな手に当たった。
もし加速してこなかったら……あの看板のように、僕の頭も吹き飛んでいたのだろうか。デッキブラシが防いだ打撃が、大きな痺れとなって僕の両腕を伝った。
そのなぜか頑丈なブラシには、三毛猫の化け物から出た、どす黒い血が染みこんでいた。乾くことのない、腐りきった血が。
獣の右手にはその血がべっとりと付着した。獣は大きく飛び退いて、僕……いや、そのデッキブラシに3つの頭で吠える。
「ワン!!ワンワン!ワン!」
猪の頭から、犬のような声が聞こえる違和感。僕の胸にまたも引っかかり、変な汗が滴った。まるで、
このデッキブラシに何か取り憑いているかのようだった。
再び、エンジンが激しく駆動する音が鳴った。獣は一瞬で距離を詰め、僕ががっしりと掴んだデッキブラシを、奪おうとするかのように握る。そして勢いをつけて揺さぶり、僕を突き飛ばした。
……圧倒的な力。僕はデッキブラシを手放して、1メートルほど後ろの路上に倒れこんだ。
ああ、僕の力では、敵いそうにないよな。萌々奈がいれば戦えたんだろうな。泣き言のように呟き、携帯の位置を探る。
意識が遠のく中で僕は、獣が地面に転がるデッキブラシに向かって、狂ったように吠えるのを見ていた。あの三毛猫の血が染みこんだ、忌々しいデッキブラシを。
妙だな。猫も猪も、同じ権能者によって作り出されたキメラなんだろう?
獣は、手負いの僕をそっちのけで、やはりデッキブラシに対し敵意をむき出しにしていた。その鳴き声を聞きつけて、周囲には野次馬が集まってきた。
野次馬たちはカメラを構えると、パシャパシャと、その怪物を写真に収めていた。
その時僕は、あの獣に対して僕の権能を使おうとした。
僕自身、僕の権能がどのような影響をもたらすかはわかっていない。だが、何かしらの「奇跡」が、僕を導いてくれると確信していた。
……が、ダメだった。僕の体から不思議な感覚が放出されても、あの獣に対しては、それがすり抜けていくようだった。
まるで、日下 萌々奈に権能を使おうとした時と同じように。
そして、遠くでパトカーのサイレンの音が聞こえた。この事態を誰かが警察に通報したのだろう。
デッキブラシとじゃれていた獣は、ふと我に返ったかのように野次馬たちの方向に振り向いた。
強靭な脚力で飛び上がり、一人の野次馬の前に立ちふさがるかのように着地する。地響きがなり、怪物はその男を威嚇するように大きく腕を拡げた。
周りに集まっていた野次馬たちは、ある者は叫び声を上げたり、ある者は過呼吸を起こしながら、一目散に逃げ去った。
しかし、よく目立つ赤と青の、縦ストライプのシャツを着たその男だけは、怪物が目の前に立ちはだかっても微動だにせず、腕を組んで直立し、不敵な笑みを浮かべていたのだ。怪物はその男に向かってデッキブラシもそっちのけで、けたたましく吠えていた。
そしてその男が怪物の頭の前で右手をかざすと、その怪物は吠えるのをやめ、ただその男を睨みつけていた。
僕は、その男に対して権能を向ける。神秘的、とでも言うような不思議な感覚が僕の体から発せられ、その男を包み込んだ。
すると、その獣を前に悦に入っていた男が、ふと、倒れこんだ僕の存在に気が付いたようだ。
「あなたですか?私の大切な友達に、一体何をなさったんです?」
男は丁寧な口調で、僕にそう問いかけた。
「それで、あなたの権能はなんですか?」
その男のわざとらしい態度に少々苛立って、尋ねた。間違いない、コイツが権能者だ。
「いえ、ですから。何をなさったんですか?私から質問してるのですが。」
その男が眉間に皺を寄せた。僕は平静を装うその男を、挑発してみることにした。
「ああ、そうですね。それで大切な友達って言うのは……コレのことですか?」
「コレェ?」
男は侮蔑のような冷たい視線を僕に向けた。
「ええ。コレ。このいかにもチャチな造りのオモチャですよ。」
「……私のベルゼブブは、崇高な命の結晶ですよ!若いあなたにはわからないですよね。」
男は早口でまくし立てる。
「崇高な命で下劣なオモチャを創る権能……わかりたくもないですね。」
ハッタリだ。こんなことを言ってはいるが、声が震えるのを必死にこらえた。
「この世界で最も美しい力、『屍』の権能ですよ。わからないなら……」
「いいえ、世界を腐らせるだけの、最低な力ですよ。やめる気がないんですよね?それなら……」
「殺すしか、ないですよね。」
僕とその男は、同時に言葉を発した。もちろん、僕にはできない。それでも、この男は本気だ。そんな深みが、言葉の奥に宿っていた。
そのとき、パトカーの音が徐々に近づくのを感じた。
男に敵意をむき出しにしていた獣は、どうすればいいかわからないといった様子で、ぼんやりとしている。
「さあ、帰るよベルゼブブ。明日もエリーを捜そう。」
「待ってください、話はまだ終わってない!」
「いいえ、負傷したあなたにできることはない。ところで、あなたの名前は……?ああ、名を訊くときはまず自分から、ですね。私は、鬼怒川 真悟と申します。」
「伊勢 健之助といいます。」
「一時休戦といきましょう。警察連中もそろそろ集まってきますからね。」
「……逃がさない!」
僕は起き上がり、転がったデッキブラシを拾おうとしたが、ベルゼブブという怪物が再び立ちはだかった。
「彼を今殺す必要はないですからね。ベルゼブブ。」
鬼怒川という男は、連れ歩けば目立つであろうベルゼブブに言い聞かせると、細い路地に入って行方をくらました。ベルゼブブも、塀や民家を飛び越え、パトカーの音が聞こえた方向とは反対側へと消えていった。
するとすぐに、美容室前の駐車場には2台のパトカーが到着した。神流西域警察署は遠いが、なぜか早く到着した。
警察官が駆け寄り、僕に何か声をかける。
……ん、あれは?
ああ、ようやく見つけた。あの三毛猫だ。
凶悪なキメラを作り出す「屍」の権能者、鬼怒川 真悟がついに姿を現す。怪物・ベルゼブブとの闘いで負傷した健之助は、三毛猫との再会を機に、奇跡を呼び起こすことはできるのか。
屍の権能編は、グロテスクなので正直筆が進みません。ですが、頑張ります。




