綿の権能 その6
本作はフィクションです。
登場する人物、団体、事件などはすべて架空のものであり、実在のものとは関係ありません。
また、一部に宗教的なモチーフが登場しますが、特定の宗教・信仰を肯定または否定する意図はありません。
物語には一部、暴力的・性的な要素や、精神的に不安を感じる場面が含まれることがあります。ご自身のペースでお楽しみいただければ幸いです。
呉 建炫さんはひどく腹を立てた様子で、ラーメンのどんぶりを片付け、洗い物をしていた。
「おいエーデルワイス、お前、食器洗いと洗濯くらいは自分でできるようになれよ。」
と言った。
私は、いつもより縮こまった邪神さまの方を向いて尋ねた。
「あの、邪神さま……和室を私の部屋にしてもらえる話なんですが、 建炫さんの部屋はどうなるんですか?」
「奴にはもう一つ部屋がある。お前は気にしなくてよい。アトリエ?と言っていたが、カギをかけてよくそこに籠っておる。我でもそこに入ったことは2回ほどしかないから、良く知らないのだが。」
「アトリエ……?」
「呉 建炫は芸術家だ。国を追われ、身を隠しながら活動している。ここ最近の作品としては、神流町役場の前に像を建てた。」
「神流町役場?」
「ああ、この街の名だ。そこの役場前に、我と呉 建炫は一つの塔を建てたのだ。」
「どんな塔なのですか……?」
邪神さまは、台所にいる 建炫さんの方を見て呟いた。
「……偶像。人の欲を、肉を象徴する偶像だ。それが、新しい世界では……神の権能を執り行うのだ……!」
今まで見たことない邪神さまの表情。
私には、よく意味が分からなかった。
天を見上げ、嬉しそうな、それでいて行き場のない怒りを抱えたような、引きつった表情だった。
「エーデルワイスよ!神が人間に与えし肉体の象徴が!珍能像が!新たな世界の王を讃える偶像となるのだよ!」
私には何のことだかわからない。
邪神さまは目を見開いて震えていた。まるで、いつもの優しい邪神さまじゃないみたい。
「神は節制を望んだ!しかし!欲望の象徴が!欲望そのものが!今!玉座に就こうとしている!」
「邪神様!おやめください!!この娘には、まだその話は早いかと!」
建炫さんが割って入った。
邪神さまはふと我に返って、うつむいさ言った。
沈黙が流れる。
「そうだな、すまない……しかし呉 建炫よ、わかるだろう。つまりだな……」
ひと呼吸置いて、邪神さまは力強く言った。
「お前が我を常に助けてくれるように、このエーデルワイスにも、どうか我に力を貸してほしいのだ。」
私には、どう返して良いかわからなかった。
でも邪神さまが、本心から私を必要としてくれていることが分かった。力になりたい。
「ええ……でも私、何をすれば?」
「求めてくれればよい。そうすれば、与えよう。それがお前の力、即ち権能だ。」
「私の、求めるもの……?」
「エーデルワイス、お前にも資格がある。邪神の眼力を侮るでない。」
「でも私、どうすればいいんですか……?」
「探しなさい。そうすれば、見つかる。……我の仇の言葉だが、紛うことなき真実だ。」
「さあ、目を閉じろ。」
そう言って、邪神さまは黙り込んでしまった。
まるで、自分で考えろとでも言わんばかりに。
……私のことなんて、わからないよ。
空っぽ。目が覚めたら、私は……ううん、「私」だった誰かが、ただそこにいただけ。
空っぽ。何も思い出せなかった。まるで誰かの影をなぞるかのように。
ひとつだけ「ナツキ」という名前だけが浮かんで、それが「私」じゃないことだけは、わかってる。
でも、それだけだった。
空っぽ。名前も、思い出も、帰る場所だって……きっと、どこかで忘れてしまったんだ。
心の奥底が軽くて冷たかった。
あの空も、海も、星も、夜も……「私」のものになった気がしたのに、思えば、やっぱり私は空っぽだったんだ。
……空っぽ。そんな私には何も思いつけない。
それでも、邪神さまに声を掛けられて、何かが変わった気がしたんだ。
邪神さまと 建炫さんに貰ったもの。
ええと……この名前と、あの小さな星と、住む家、お布団、ご飯、お洋服、食器……
どうして邪神さまが、ここまで良くしてくれるのかわからないけど……
私は、確かに優しさの中にいるんだ。
今はきっと、邪神さまの愛に包まれている。
たとえ、私が私のことをわからなくても。
私が「私」みたく、空っぽのままだったとしても。
全て忘れて空っぽだった「私」に、邪神さまが中身をくれようとしてるんだよね。
……それが私。
空っぽな私に寄り添ってくれた、優しさだったんだ。
……体の隅々まで、満たされていたことに気が付けた。
私、まるで……
ぬいぐるみみたいだ。
空っぽの「私」が、優しさという中身を詰めてもらって、ようやく私になろうとしてる。
邪神さまに、可愛がられているってわかる。
きっとこの優しさは、温かくて、柔らかくて、大きくて、気持ちのいいもの。
私もいつか、この優しさで誰かを包めるように……なんてね。
「願いは聞かれた。邪神が権能を神に代わって授けん。」
これは……邪神さまの声だ。
「邪神……さま?」
「ありがとう、エーデルワイス。目を開けてくれ。」
私に優しく微笑みかけてくれたその目からは、どこか野心のようなものを感じた。
「さて、記念にいいものをあげよう。呉 建炫、よろしく頼む。」
「承知しました。おいエーデルワイス、下がっていろ。」
すると、洗い物を終えた 建炫さんはしゃがんで床を指さし、小さい円を描いた。
建炫さんが何か唱えると、その枠が青く光った。
光が消えると、そこには金属のブローチ。額と茎によって支えられた、綿花の紋章。中心には、ぽっかりと四角形の枠が描かれていた。
「呉 建炫は芸術家に相応しい権能を持つ。エーデルワイスよ、この紋章はお前の権能を象ったものだ。」
……そのブローチを見て、「綿」の権能だと、なぜか瞬時に理解できた。
目にかかる長い前髪を横に流すように、パチンとご機嫌な音を鳴らしてブローチを付け、鏡の前に向かった。
すごくかわいい。
「おお、よく似合っているじゃないか、エーデルワイス。もちろん、その美しき権能もだ。」
「ありがとうございます!」
「邪神様がデザインなさったものだ。大事に使え。」
「わかりました!大切にします!」
喜ぶ私をよそに、 建炫さんは邪神さまに語り掛けた。
「……邪神様、これで良かったのでしょうか。」
「ん?何がだ?」
「珍能像を介さずに、エーデルワイスに直接、権能をお授けになったことです。神の領域を珍能像が侵すという目的はよろしいのでしょうか。」
「ああ。問題ない。珍能像の力は、もともと我の力だ。エーデルワイスには、そのことを知る権利がある。それに……」
「珍能像は、既に権能者を作り出している。既に権能をもたらす化身として畏れられている。
神の御業を、あのイチモツは立派に成し遂げているのだよ。」
そう言って邪神さまは、一枚の写真を取り出した。
ちらと私を見ると、私にも見えるように傾けてくれた。
頭と体は三毛猫。でも、他の動物のような手足を持っているし、なぜか鶏のトサカと、魚の背びれがある。
見たことがない、ヘンな動物だ。
「邪神様……なるほど。あなた様の御業は、ついに……」
「左様だ、呉 建炫よ。あの偶像は神の領域を侵す。この理を侵す禁忌。
……既に、偽りの神は始まっているのだよ。」
……神の御業?禁忌?偽りの神???
邪神さまは、一体何を……?
モノローグ回です。多少クドくても、必ず心が伝わる言葉が書きたいのです。